ハチャトゥリヤン

百科事典マイペディア 「ハチャトゥリヤン」の意味・わかりやすい解説

ハチャトゥリヤン

ロシア(ソ連)で活躍したアルメニア作曲家。現ジョージアのコジョリ生れ。10代までトビリシで過ごし,ジョージア,アルメニア,アゼルバイジャン民俗音楽に親しんだ。モスクワ大学理工学部に在学ののちグネーシン音楽大学に転学し,19歳で初めて正規の音楽教育を受ける。続いてモスクワ音楽院でミヤスコフスキーらに師事。《交響曲第1番》(1934年)などを経て,オボーリンに献呈された《ピアノ協奏曲》(1936年),オイストラフに献呈された《バイオリン協奏曲》(1940年)で名声を確立した。民俗音楽の語法を土台にした躍動感あふれる作風で知られ,その後の代表作に,バレエ音楽ガヤネー》(1942年,改訂1957年),管弦楽組曲《仮面舞踏会》(1944年),《チェロ協奏曲》(1946年),バレエ音楽《スパルタクス》(1954年),無伴奏チェロのための《ソナタ・ファンタジア》(1974年)などがある。自作の指揮でも知られ,1963年に初来日。→ロストロポービチ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ハチャトゥリヤン」の意味・わかりやすい解説

ハチャトゥリヤン
Aram Il’ich Khachaturyan
生没年:1903-78

ソ連邦の作曲家,指揮者。父は製本工カフカス地方で育ち,子ども時代より民族音楽に親しむ。1922年からモスクワのグネシン音楽学校で学び,さらに36年までモスクワ音楽院と同大学院で作曲をミヤスコフスキーらに師事する。《交響曲第1番》(1934),《ピアノ協奏曲》(1936),オイストラフにささげた《バイオリン協奏曲》(1940)で作曲家として認められるが,48年にはジダーノフ批判を受けた。アルメニアをはじめとするカフカスや中央アジアの民族音楽を生かした作品や色彩豊かなオーケストレーションで知られ,代表作には上記のほか《ガヤネー(ガイーヌ)》(1942。その中の《剣の舞》は有名),《スパルタクス》(1954)などのバレエ曲,《交響曲第2番》(1943),3曲の《コンチェルト・ラプソディ》(1962-67)などがあり,映画音楽も手がけている。また自作指揮者としても世界各地で活躍し,63年に来日。一方,1950年からはグネシン音楽学校とモスクワ音楽院で教鞭をとった。甥のカレンKaren Surenovich Kh.(1920- )も作曲家。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハチャトゥリヤン」の意味・わかりやすい解説

ハチャトゥリヤン
Khachaturyan, Aram Il'ich

[生]1903.6.6. チフリス(現トビリシ)
[没]1978.5.1. モスクワ
ソ連の作曲家。グネシン音楽学校でチェロと作曲を学び,1929年モスクワ音楽院に入学,N.ミヤコフスキーに師事して作曲を学んだ。 39年バイオリン協奏曲により,スターリン賞第2位に入賞。アルメニア人作曲家として非ヨーロッパ音楽の民俗音楽などを素材として活躍。主作品は『ピアノ協奏曲』 (1936) ,バレエ音楽『ガイーヌ』 (42) ,『スパルタクス』 (52~54) や『交響曲第2番』 (43) ,『アルメニア共和国国歌』など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハチャトゥリヤン」の意味・わかりやすい解説

ハチャトゥリャン
はちゃとぅりゃん

ハチャトゥリアン

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android