翻訳|symphony
管弦楽で演奏される多楽章形式の大規模な器楽曲。管弦楽のためのソナタであるが,ソロやアンサンブルのソナタよりもいっそう堅固な構成力と大曲としての風格が要求される。1800年前後,典型的な楽章構成はベートーベンにみられる。すなわち,2管編成(管楽器各2,ティンパニ,弦5部。総勢20名以上,概して50名前後)で,急・緩・舞曲・急という4楽章構成をとる。第1楽章はソナタ形式,第2楽章は2部ないし3部形式,変奏形式,ソナタ形式,第3楽章はメヌエットまたはスケルツォ,3部形式,第4楽章はロンド形式またはソナタ形式,さらに両者の混合形式である。
〈交響曲〉あるいは〈交響楽〉〈交響体〉という用語は,すでに森鷗外の《楽塵》(1896年《めさまし草》に掲載)に見られるが,これはドイツ語の〈ジンフォニー〉の直訳である。その語源は,古代ギリシア語のsyn(共に)-phōnē(音)にさかのぼる。これがラテン語を介してロマン諸語,ゲルマン諸語に転用されるに及んで,さまざまな意味を持つようになった。古代,中世では,天球のハルモニア,協和音程,協和音,特定の楽器をさし,さらに歌や音楽一般についても用いられた。ルネサンス,バロックでは,声と楽器のアンサンブル(教会コンチェルトなど)や合奏カンツォーナ,特に17世紀には合奏ソナタや初期のコンチェルトなどと事実上同義のこともあり,また舞曲組曲の導入部,オペラやオラトリオ,カンタータなどの劇的声楽曲における合奏部分(序曲,リトルネッロ)をさしていた。
交響曲は18世紀後半からヨーロッパ,それも主としてドイツ語圏を中心にとぎれることなく発展してきたが,特にベートーベン以後の19世紀には,オペラと並んで作曲家の芸術性と技量が最高度に発揮されるジャンルとなった。
交響曲の成立と発展の過程は,前古典派・古典派の管弦楽,合奏器楽,ソナタ等におけるあらゆる成果を理解する基準となる。このジャンルは当時のヨーロッパのほぼ全域の音楽都市と北アメリカの一部で培われた。J.ラ・リューの統計によれば,前古典派が始まろうとする1720年ころから古典派末期の1810年ころにかけてのレパートリーは1万2350曲にも達する。またこのジャンルの発展と広範な普及は,18世紀ヨーロッパ社会における音楽のあり方の変化と密接にかかわっている。啓蒙思想は芸術を愛好し保護する啓蒙君主を生み出すと同時に,〈神の栄光のために〉という前提を離れた,人間の理性と感性に訴える自然で簡潔な音楽様式を成立せしめた。また産業革命とそれに伴う経済機構の変化,人物交流の活発化は,中産階級の台頭,音楽の需要・供給の構造的変化をもたらした。市民革命に至るこうした趨勢の中で,芸術音楽は宮廷や教会から解放され,新しい市場を獲得しつつあった。パリやロンドンなどの国際都市における公開演奏会の定着,愛好家向けの楽譜や音楽雑誌の出版,これら新しい音楽産業の発達を通して行われた音楽の大衆化は,交響曲発展の土壌ともなったのである。
18世紀における交響曲の概念は今日のそれと必ずしも一致しない。交響曲と他の諸ジャンルとの様式的差異はかなり明らかになりつつはあったが,〈シンフォニー〉〈シンフォニア〉〈序曲〉という名称はしばしば混用され,これら3者の境界はときとしてかなりあいまいなままであった。交響曲という不可侵の威厳が確立されていたわけでもなかった。交響曲は特定の聴衆の趣味や,演奏の目的・機会等のもろもろの現実的制約に従って構想された(例えばハイドンはエステルハージ侯家宮廷楽団のそのときどきの楽員構成に応じて作曲しなければならなかった)。同一作品ないし楽章が,別の機会のために換骨奪胎されて他の作品に転用されたり,セレナーデなど他のジャンルからの寄集めにすぎないものもあった。演奏の実態もさまざまで,異なる編成で,あるいは全曲でなく特定の楽章だけ演奏されることもまれではなかった。オーケストラの規模は場所や目的,調達しうる人数に応じて,室内楽的規模の十数名から総勢100人に及ぶこともあった。なお,バロック以来の通奏低音の習慣は,実質的に本来の和声充塡の意義を失いつつはあったものの,演奏に際しては18世紀末(ジャンルや地域によっては19世紀)まで保たれていた。
交響曲の前身はイタリア・オペラの序曲である。これは〈シンフォニア〉〈イタリア風序曲〉と呼ばれ,〈フランス風序曲〉とともに17~18世紀の二大序曲形式となった。シンフォニアの歴史はナポリ楽派の1680年代のコメディ風オペラ(A. スカルラッティ)に始まる。全体は急(アレグロ)-緩(アンダンテ)-急(舞曲風のアレグロないしプレスト)の3楽章構成で,荘重な対位法様式のフランス風序曲と対照的に,概してホモフォニックな様式で書かれた。18世紀にはしだいに自由で簡潔な声部書法,規則性と歌謡性に富む旋律法,明快な和声構造など,前古典派風の様式を獲得していった。第1楽章はソナタ形式,フィナーレはロンド形式の発展にそれぞれ関係している。編成は当初は概して弦4部と通奏低音であったが,やがて管が加わって,1730年以降はオーボエ,ホルン各2と弦という,古典派管弦楽の標準編成が定着していった。シンフォニアはやがて一方ではオペラ等から独立して演奏会用のレパートリーとなり(演奏会用シンフォニア),演奏会の開始と終了を告げるなどの機能を担い始めた。また本来のオペラ序曲も演奏会に転用されていった。このジャンルの発展に寄与したのは,前古典派の主要都市で活躍した作曲家たち,すなわちナポリのA.スカルラッティ,ミラノのG.B.サンマルティーニ,ウィーンのM.G.モンとワーゲンザイル,マンハイムのシュターミツ,ベルリンまたはハンブルクのエマヌエル・バッハ,パリのゴセック,そしてロンドンのクリスティアン・バッハらである。これらの楽派はそれぞれ独自の楽風を培ったが,ソナタ形式の発展に関しては特にサンマルティーニやモン,ワーゲンザイル,シュターミツ,2人のバッハが,またメヌエットを含む4楽章制の定着についてはモン,ワーゲンザイル,シュターミツの3人が注目される。とりわけマンハイムの宮廷には楽長シュターミツの指導下で厳格に訓練されたカペレ(楽団)があり,シンフォニア語法の発展と管弦楽の整然かつ効果的な演奏法に多大の貢献をなしたことで知られる(マンハイム楽派)。シンフォニア(今日でもイタリア語では交響曲をさす)とシンフォニーの区別があいまいである以上,前者から後者への移行期を確定することはいささか困難であるが,交響曲が名実ともに一つの独立したジャンルとして完成されたのは,18世紀後半,とりわけ古典派の巨匠たちの力に負うところが大きい。
ハイドンは1757年ころ-95年の約38年間に,現存するものだけでも106ないし107に及ぶ交響曲を書いているが,それらはあらゆる可能性の探索とさまざまな音楽的,技法的実験の足跡を示しており,それ自体このジャンルの成熟の歴史と言ってよい。すなわち協奏交響曲風の標題音楽的三部作《朝》《昼》《晩》(1761)や,ハイドンの〈疾風怒濤〉期と言われる1766-73年の短調作品群(《告別》など),外国の演奏会のために書かれた《パリ交響曲集》6曲(1785-86)と二つの《ロンドン交響曲集》12曲(1791-95。《驚愕》《奇跡》《軍隊》《時計》《太鼓連打》《ロンドン》など。第2集6曲のほとんどはクラリネットを含む古典派最大標準編成)などが有名。完成されたハイドン様式は,動機労作による統一的形式,集中的展開を特徴とするが,そうした知的造形ばかりでなく,ユーモアあふれる親しみやすさも同時に兼ね備えている。
円熟期に向かうハイドンと相互影響の関係にあったモーツァルトは,8,9歳(1764,65)ころから1788年にかけて,セレナーデなど他ジャンルからの転用やオペラ序曲,断片楽章等を含めると54曲ほどの交響曲を残している(1980年には最初期の曲(K6.19a)の全曲が発見された)。彼の様式は,ソナタ形式をはじめ古典的諸形式の完成に寄与する一方,概してハイドン的な動機労作の徹底よりは多くの魅力的な楽想の並列,精妙な和声的色彩と管・弦が有機的に絡み合う管弦楽法を特徴としている。パリの聴衆の趣味を意識した大編成(ハイドンの最後期と同じ)の《パリ》(1778)は,直前に訪れたマンハイムの様式の影響が顕著である。ウィーン時代(1781-96)には《ハフナー》(1782),《リンツ》(1783),《プラハ》(1786),そしていわゆる最後の三大交響曲(1788。《変ホ長調》《ト短調》《ジュピター》)など,その規模と風格,技術的完成度,親しみやすさにおいて,交響曲史上まれにみる作品群がある。
交響曲の発展は19世紀に新たな局面を迎える。18世紀の成果はベートーベンという強力な個性を介してロマン主義の時代に受け継がれ,さまざまな形象を生み出した(ロマン派音楽)。一方,作曲家1人あたりの作品数の減少と規模の拡大化傾向,作品ごとの多様な書法などが,創作態度の変化を物語っている。交響曲は宮廷を離れもろもろの現実的制約から解放され,機会音楽的性格を払拭(ふつしよく)し,時代の音楽的語彙の単なる集成たることをやめて,1曲ごとに芸術家が彼の全人格を賭けて挑戦する対象となったのである。また19世紀には,楽器の発明と改良,指揮法の確立,職業指揮者の出現など,管弦楽法や演奏様式,演奏解釈の点でも注目すべき進展がみられる。さらに,資本主義経済の発展は聴衆の大量動員とそれに伴う大ホールの建設を促したが,大規模な管弦楽への志向はそうした社会背景と無縁ではない。19世紀の交響曲は,大きくベートーベンと,初期および後期のドイツ・ロマン派,標題交響曲,国民楽派,フランス楽派,そして20世紀への過渡期といういくつかの系列においてとらえることができる。
ベートーベンの9曲(1800-24)はいずれもそれぞれに特有の問題意識をはらんでいる。スケルツォを導入した《第2番》(1802),特に展開部やコーダにおける形式的規模の飛躍的拡大,多種多様な動機による展開労作と変奏技法,そして雄大な構想,これらが曲に記念碑的な風格を与えている第3番《英雄》(1804),冒頭動機による全楽章の統一,楽章間の有機的な連係と頂点を終楽章に置いた設計,本来教会や劇場専用の楽器であったトロンボーンの導入等々,革新的な要素の多い第5番《運命》(1808),あるいは標題性をはらんだ全5楽章(3~5は連続)の第6番《田園》(1808),そして終楽章で独唱と合唱を登場させて時代の精神的理想をうたいあげ,さらに打楽器群を効果的に使用した《第9番(合唱付)》(1824)など,革命期の新しい市民層の意識を背景とした作品群がある。特に絶対音楽的性格と標題音楽的性格,単一動機による全曲の統一,新しい楽器と声部の導入などは,以後の交響的作品に決定的な影響を及ぼした。
ほぼ同時期にウィーンで活躍したシューベルト(完成7曲。未完,断片,スケッチ数曲。1811ころ-28)は,本領のリート(歌曲)の曲想を生かしつつ,断片動機の集中的展開よりもむしろそれ自体で充足した旋律をのびのびと歌わせ,和声的色彩で陰影を施しながら反復させるという独特な形式感を打ち出している。第7番(従来の番号付では第8番)《未完成》(1822)と第8番(同じく第7番ないし第9番)《ザ・グレート》(1828)では,トロンボーンが定着し,規模も拡大されて,後のブルックナーを思わせるような息の長い呼吸が認められる。
その他,初期ロマン派交響曲では,メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と,1824-42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか,1841-51の4曲)が重要である。メンデルスゾーンは第3番《スコットランド》(1842),第4番《イタリア》(1833)をはじめ,標題音楽的な雰囲気と色彩豊かな管弦楽法を特徴とする。シューマンは第1番《春》(1841)や第3番《ライン》(1850),第4番(1841,改作1851)などで,ピアノ的な発想と語法を背景として,文学的契機を暗示しながらも純音楽的な動機による統一的造形を打ち出している。
一方,19世紀における標題音楽の概念にとって画期的存在となったのは,フランスのベルリオーズの《幻想交響曲》(1830)である。この革命的な作品では,特定の人物を表し物語の筋に従って全5楽章に頻出する同一の旋律(固定楽想)が形式上・内容上の統一性を保証し,また和声法や管弦楽法においても大胆な実験が試みられている。その成果を踏襲したリストは2曲の標題交響曲を残したほか,1848年から交響詩のジャンルを開拓している。
楽劇の運動にも関連するこうした〈進歩的〉な一派に対して,19世紀後半のドイツ,オーストリアにおいてなお純粋な絶対音楽の堡塁を堅持したのが,ブラームスとブルックナーである。ブラームス(全4曲。1876-85)は古典的な形式と技法(例えばパッサカリア)を用いて伝統的な交響曲の風格を保つ一方,重厚で緻密な和声法・管弦楽法を駆使しながら内省的な世界に沈潜するなど,個性的な様式を示している。ブルックナー(習作と未完の第9番を含め11曲。1863-96)は一見ブラームスと対照的だが,やはり伝統的な書法から出発した。しかしオルガン演奏の大家としてオルガン的音響像を土台に,また古典対位法と近代的な半音階和声法の完ぺきな技術を裏づけとして,しだいにエネルギーの巨大な生成を思わせるような独特な造形感を打ち出していった。特に最後の第7~9番(1883-96)の3曲は広く知られている。
19世紀後半から20世紀初頭にかけてのフランスでは管弦楽再興の兆しが著しい。交響曲では,古典主義的傾向のビゼー,グノー,サン・サーンス(《第3番(オルガン付)》1886など),循環形式で有名なC.A.フランク(《ニ短調》1888),ダンディ,ショーソンらが挙げられる。当時はまたヨーロッパ各国の民族主義の高まりを反映して,東欧・北欧諸国が独自の民族的音楽語法を涵養していった時期でもある。交響曲に関しては概してドイツ・ロマン派様式の影響が根強いが,ボヘミアのドボルジャーク,ロシアのA.P.ボロジン,チャイコフスキー,グラズノフらが挙げられる。
→ロシア国民楽派
世紀の変り目には,ブルックナーの弟子のマーラーが,交響曲を〈世界のようなもの〉としてとらえる独特な音楽観に立脚して,従来の枠を越えた一連の問題作を書いた(未完を含め11曲。1888-1911)。長大で個性的な造形と大編成(3~5管と多彩な打楽器群。曲により独唱ないし大合唱,あるいは両者を伴う)による多彩かつ精緻な室内楽的密度の実現を背景に,自作のリートなどさまざまな旋律素材が一見雑多にコラージュされて,まさにありとあらゆるものを包含する〈世界〉が現出する。新ウィーン楽派をはじめ当時の若い音楽家たちに与えた影響は大きい。
→ウィーン楽派
20世紀の音楽史は大別すると,第1次大戦まで(ロマン主義の延長とモダニズム)と両大戦間(実験的傾向もあるが概して擬古典的な新古典主義),第2次大戦後(前衛)になるが,交響曲の実体は一様でなく,それを一貫した流れにおいて跡づけることは困難である。さまざまな技法と創作理念が提起され,特定のジャンルよりも創作上の主義の諸系列が問われるからである。また無調や十二音をはじめとする新しい技法は,概して伝統的な意味での〈交響曲〉という大規模な造形を要求せず,むしろ構造の凝縮化に向かう。それらは長大な楽曲に統一性を与えるという,従来の調体系や機能和声に基づく形式感,主題操作が果たしていた役割に取って代わりえないのである。莫大な上演曲目を誇る交響曲はわれわれの財産としていまだに演奏会の主要レパートリーであるが,こうした状況にあって,交響曲そのものの創作上の存在意義は,少なくとも時代の先端から後退した以上,必ずしも高いとは言えない。名称も管弦楽による多楽章の音響的構築物としての意味しか持たない場合も少なくない。また小編成の〈室内交響曲〉(シェーンベルク)や小規模な〈シンフォニエッタ〉(ヤナーチェク,A.ルーセル,ヒンデミット)など,肥大した後期ロマン派様式からの離反を示唆する名称もある。一方,電子技術,録音・放送技術の飛躍的な進歩は音楽産業に大きな構造的変化と国際化をもたらすと同時に,新しい音色感,聴取態度ひいては演奏の技術向上を招来した。これらは現代の管弦楽における創作上・演奏上の発展と相関関係にある。
19世紀の延長線上にあるものとしては,後期ロマン主義的なR.シュトラウス,ラフマニノフ,ボーン・ウィリアムズ,民族主義的なシベリウス,C.ニールセン,ヤナーチェク,両大戦間の不穏な世情を反映して比較的平易で折衷的な作風の新古典主義に属するものとしては,デュカ,A.ルーセル,フランス6人組のオネゲルとミヨーのほか,シマノフスキ,ストラビンスキー,ブリテン,新即物主義的なヒンデミット,勤労大衆の啓蒙教化を旨とする社会主義リアリズムのプロコフィエフ,ショスタコービチ,ハチャトゥリヤン,他方,前衛的な無調,十二音技法の系列としてはシェーンベルク,ウェーベルン,クルシェネク,第2次大戦後は保守的なデュティユー,K.A.ハルトマン,独特な音階やインド的題材とリズム,電子楽器を導入したメシアン,さまざまな技法を取り入れたヘンツェらがいる。20世紀にはこのほかヨーロッパ以外でも盛んに交響曲が書かれ,アメリカ合衆国からはモダニズム的なアイブズ以来,コープランド,ピストン,R.ハリス,H.ハンソン,バーバーらが輩出したほか,大戦により迎えられた多くの亡命ヨーロッパ音楽家らがいる。
日本では西洋音楽の積極的な輸入の過程で1912年に最初の交響曲(山田耕筰のベルリン留学中の《かちどきと平和》)が書かれた。その後35年ころから諸井三郎や池内友次郎らによって本格的にドイツ,フランスの作曲技法が導入され,概してヨーロッパの最新の動きから若干遅れたアカデミックな作風が伝えられてきた。第2次大戦終了以前には諸井のほか,独自の東洋的和声体系に基づく箕作秋吉らの作品がある。戦後はヨーロッパ前衛の技法が吸収され,国際的にも評価の高い作品が生まれている。土俗的なオスティナート手法による伊福部昭,十二音技法の入野義朗,鐘の音の音響学的解析を管弦楽で再合成した黛敏郎をはじめ,芥川也寸志,池辺晋一郎,小倉朗,尾高尚忠,柴田南雄,団伊玖磨,野田暉行,別宮貞雄,松下真一,松村禎三,矢代秋雄らが,アカデミックな様式もあるが個性的な音響感覚や日本的素材(音階,民謡など)の導入を打ち出している。
執筆者:土田 英三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
クラシック音楽の用語で、18世紀以来管弦楽のために作曲されてきた器楽曲シンフォニア(イタリア語)、シンフォニー(英語)の訳語。語源的には「完全なる協和」を意味するギリシア語のsym(ともに)-phonia(響き)に由来する。16~18世紀の用例としては、単に「音楽」の意であるかのように声楽曲の題名にも用いられたほか、オペラやオラトリオの序曲や間奏曲などを含めた器楽曲一般にも使用されていた。それが限定的な意味に向かうのは、18世紀以降、コンサート器楽曲として類似のコンチェルト(協奏曲)と分岐して、独奏楽器のない、地味で、より小規模な「オーケストラのためのコンチェルト」を峻別(しゅんべつ)する必要がおこったためと考えられる。
バイオリンの名手を欠いても音楽演奏を成立させうるシンフォニア(交響曲)は、その発祥の地イタリアと並んで、18世紀中ごろからバイオリン楽団を擁するようになったドイツ各地の宮廷において人気曲種となり、この用語の新しい意味が定着する。オペラ序曲としてのシンフォニアもコンサートで独立して演奏され、ここに合流してくることがこのジャンルと名称の成立史を複雑にしている。
[大崎滋生]
アルプス以北におけるバイオリンとその奏者の絶対数の不足は、オーケストラに土着の管楽器を導入することにつながり、やがて各楽器はそれぞれの特性を生かした独立のパートを担うようになっていく。1740年ごろには弦楽合奏とオーボエおよびホルン各2部のオーケストラによる交響曲も試みられるようになり、その後の基本様式である4楽章構成、(1)第1楽章=ソナタ形式をとる急速楽章、(2)第2楽章=緩徐楽章、(3)第3楽章=メヌエット、(4)第4楽章=ソナタ形式をとることもある急速楽章、も試みられる。こうした交響曲の隆盛は、ヨーロッパ社会のあまたの宮廷が宮廷楽団を競って配備して、奏楽を宮廷生活の本質的構成要素としたことと関係がある。すでにこの時点で交響曲は、オーケストラ音楽として先輩格であった協奏曲をしのいで、そのもっとも一般的な曲種となった。ヨーロッパ地域を中心とする全資料館を対象とした、18世紀楽譜の調査によると、交響曲の創作量は1万6558曲にも達していた。
18世紀後半における宮廷社会の拡大と崩壊の兆しは、楽団の維持を場合によって困難にして、宮廷コンサートは市民に開放され、あるいは独自に公開演奏会が企画されて、交響曲の場はしだいに変化する。街なかの大きな集会所等に大勢の人を集めたこの種のコンサートは、より大きな音量が求められるようになっていったが、交響曲はそのような機会に沿う形で大規模化していき、演奏会の中心的演奏曲目であり続けた。宮廷楽師として経歴を開始し、市民芸術家としてその生涯を終えたハイドン(1732―1809)を例にとると、106曲の交響曲のうち約半分が十数人編成の宮廷楽団のためのものであり、二十数人規模の約4分の1を経て、残りの約4分の1は最終的に60人規模の編成を前提としている。これには楽器の種類の増大と、いわゆる2管編成の定着、小節数や演奏時間の拡張、形式の開発や整備、そして音楽様式としての交響曲の完成、が伴っている。
[大崎滋生]
18世紀末までの展開を交響曲の第1ステージとすれば、第2ステージはベートーベン(1770―1827)をその開始点にするといってよい。それほど劇的に局面は一気に転換したといえる。その理由はさまざまであるが、このころを境に、ヨーロッパの宮廷社会の隅々に行き渡っていた交響曲の時代は終わって、市民的芸術音楽文化を先駆的にはぐくんでいったドイツ音楽における、最大の曲種としての交響曲の時代が始まる。時はナポレオン戦争を期にナショナリズムが諸国で高まっていく時代であり、ドイツ音楽文化の発展・向上という当時の作曲家の課題を交響曲創作が直接的に担ったといえる。ことに19世紀前半は、一方で宮廷文化が途絶え、他方ドイツ以外の地域では市民的音楽文化がオペラを中心に展開され、交響曲の創作は例外的にしかなかった。こうした枠組みのなかでハイドン、モーツァルト、そしてとりわけベートーベンが次代の交響曲作曲家たちに与えた規範的影響力は計り知れない。ベートーベンの交響曲9曲の作品の中核は4楽章構成の純器楽交響曲だが、第6番『田園交響曲』は標題交響曲、合唱付きの『第九交響曲』はオラトリオ型交響曲であり、この3種がその後の交響曲を決定づけた。
[大崎滋生]
純器楽交響曲の系列はシューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブルックナー、ブラームスらの創作によって受け継がれ、この曲種全体の代表的な作品の峰々が生まれる。標題交響曲の系列はシュポーア、ラフJoachim Raff(1822―82)らに継承される一方、またドイツ圏外ではベルリオーズ、フランク(1848年以前の交響詩)、リストによって独創的な発展を遂げて、交響詩にまで至る。オラトリオ型交響曲の系列は、19世紀末のマーラーによってようやく本格的に再開発され、20世紀にもその傾向を継承した作品は少なくない。
19世紀後半に入ると、すでに確立されていたドイツのコンサート文化は周辺各国の若い世代をひきつけ、彼らが交響曲の創作にも参入してくる。フランスのサン・サーンス、チェコのドボルザーク、ロシアのルービンシュテインやチャイコフスキー、北欧のシベリウスやスベンゼンJohan Svendsen(1840―1911)らがその一例である。こうして交響曲の第3ステージとして、20世紀におけるクラシック音楽文化のコスモポリタン化と平行して、交響曲はそのドイツ性を完全に捨て去る。
これまで全世界のコンサート・ホールで過去の名作が演奏され、またディスクに録音されて、交響曲はクラシック音楽の代表的な大管弦楽曲種として刻印されてきた。その一方、20世紀の音楽創作において主役の座は確保できなかったとしても、アメリカや日本を含めて、それは創作され続けた。そして今日では、新作の完成は確かに少ないものの、作曲家が世界にメッセージを伝えたいときなどには交響曲の創作がなお試みられるところに、この曲種の記念碑としての歴史性が映し出されている。
[大崎滋生]
『CDブック『クラシック・イン第1巻/三大交響曲』(1989・小学館)』▽『小石忠男著『CD名曲名盤100/交響曲』(1994・音楽之友社)』▽『磯田健一郎著『ポスト・マーラーのシンフォニストたち――エルガー、シベリウスから現代まで』(1996・音楽之友社)』▽『吉井亜彦著『名盤鑑定百科 交響曲篇』(1997・春秋社)』▽『宇野功芳著『交響曲の名曲・名盤』(講談社現代新書)』▽『R・ジャコブ著、持田明子・広田健訳『交響曲』(白水社・文庫クセジュ)』
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…古典派以降の三重奏以上の室内楽は一般にこの名称をもたないが,広義にはソナタに含まれる。また交響曲も管弦楽のための一種のソナタである。比較的演奏が容易で小規模なソナタはソナチナsonatina(複数形ソナチネ)と呼ばれる。…
※「交響曲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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