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バビロン第1王朝 バビロンだいいちおうちょうBabylon 1st Dynasty

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

バビロン第1王朝
バビロンだいいちおうちょう
Babylon 1st Dynasty

古代メソポタミアの都市バビロンを首都とするアモリ人王朝 (前 1900頃~1600頃) 。この時代を古バビロニア時代と呼ぶ。最初の王スム=アブムはキシュの西方に位置するバビロン市を根城に確実に領地を奪い取り,6代目ハンムラビは父王シン=ムバリトより継承した王国を拡大,イシンラルサの2王朝を次々に陥落させ,全バビロニアの支配者となった。さらにエシュヌンナマリを制圧後,アッシリアを攻撃,治世 40年頃までにはアッシュールニネベを獲得した。その後継者サムスイルナの頃から周辺のアモリ人やカッシート人の侵入に悩まされ始め,最後の王サムスディタナは,タウロス山中から襲来したヒッタイト人とフルリ人に敗れ,前 1600年頃王朝の幕を閉じた。

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世界大百科事典 第2版の解説

バビロンだいいちおうちょう【バビロン第1王朝】

バビロンに創設されたアモリ(アムル)系王朝。前1894‐前1595年。開祖スムアブム(在位,前1894‐前1881)の後,スムラエル(在位,前1880‐前1845),サビウム(在位,前1844‐前1831),アピルシン(在位,前1830‐前1813),シンムバリト(在位,前1812‐前1793)と王位が継承される。このころまでのバビロンの支配圏は首都を中心に半径80kmを超えなかったと思われるが,次のハンムラピの治世第32年ころになってメソポタミアの主要部分(現在のイラクとシリアの一部)を支配下に収め統一王国を築く。

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世界大百科事典内のバビロン第1王朝の言及

【バビロニア】より


[諸王朝分立時代]
 ウル第3王朝を滅ぼしたエラム人は約10年間ウルにとどまるが,ウル第3王朝の元家臣で,その後イシンに独立王国を建てたイシュビエラ(前2017‐前1985)がこれを追い出し,ウル第3王朝の正統な後継者をもって自認した。この後イシンを中心とした約100年間は,事実上ウル第3王朝時代の継続といえるが,前1900年ころになってラルサ,バビロン(バビロン第1王朝),エシュヌンナなどにアモリ系の王朝が相次いで興り,新しい時代が始まる。ナラムシン以来続いていた王の神格化の慣習が廃れ始めるのもこの頃である。…

【ムルシリ[1世]】より

…祖父ハットゥシリ1世の遺命により王位に就いた。祖父の征討により支配下に入っていたシリアのハルパ(今のアレッポ)に反乱が起こると,同地へ向かって出陣し,その平定ののち,余勢を駆ってさらに兵を南東に進め,故国の王城ハットゥサからは実に1200kmの山河を隔てるユーフラテス河畔のバビロンを急襲して,ハンムラピ王以来の由緒を誇るバビロン第1王朝をついに攻め滅ぼしてしまった。このバビロン急襲は,バビロン側の記録にも記されていて,前1595年ころのことと知られるので,ヒッタイト史の編年を定めていくうえで重要な手がかりの一つである。…

【メソポタミア】より

…またギルス(ラガシュ),ウンマ,ニップール,プズリシュ・ダガン,ウルから無数のウル第3王朝時代文書が出土している。アッカドシュメール
[イシン・ラルサ,バビロン第1王朝時代]
 ウル第3王朝の崩壊後,南部メソポタミアではアムル人を中核とする小国家が分立した(イシン・ラルサ時代)。イシュビエラが創始した中部バビロニアのイシン王朝は,ウル第3王朝の政治理念を踏襲した。…

※「バビロン第1王朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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