ハンムラピ
Hammurapi
        
              
                        バビロン第1王朝第6代の王。在位,前1792-前1750年。ハンムラビ(ハムラビ)Hammurabiともいう。治世の最初の11~12年間は,北のアッシリアに強力な支配者シャムシアダド1世が存在したため彼の影は比較的薄かったが,シャムシアダド1世の死後,ハンムラピは後のバビロニア統一のための基礎を築き始める。治世11年から29年ころまでは,年名から判断するかぎり,対外戦争に対する言及はなく,ハンムラピはもっぱら神々の玉座や神像の作製,神殿の修築などの宗教事業,および城壁の建設,運河の浚渫(しゆんせつ)などの国防・灌漑事業に専心,国家の精神的・物質的強化に腐心したと思われる。マリ出土の書簡によれば,この当時彼の支配するバビロンは,ラルサ,エシュヌンナ,マリ,アレッポ(ヤムハド),カタヌム(カトナ?)などと並ぶ勢力ではあっても,それ以上のものではなかったらしい。そしてハンムラピはマリやラルサの諸王と密接な同盟関係を結び,もっぱら巧みな外交によって国威高揚に努めたようである。
 しかし治世29年になって彼は積極的な軍事行動によってバビロニア制覇に乗り出す。まず前1764年にはエラムおよびエシュヌンナやその北方の敵を討ち,続いて翌年には南の強国ラルサを滅ぼし,現在のバグダード以南の地〈シュメールとアッカド〉の統一を達成する。この後再度エシュヌンナ以北の地に遠征(前1761),続いてユーフラテス川中・上流域を支配していたマリ王国を滅ぼし(前1759),その覇権は北シリアにまで及んだ。彼はまたニップール,エリドゥ,ウル,ウルクなどシュメール時代以来の都市やラルサに水を供給する水路を浚渫・整備するなど,新しく広がった国土の発展にも努力した。征服後のラルサに駐在するバビロンの役人にあてた約150通の書簡が残っているが,彼はラルサの経営に深く関与し,いろいろな訴えにみずから裁決を下していたことが知られる。しかしこれは,ハンムラピがその晩年に獲得した広大な領土の支配にふさわしい行政組織をもたなかったことをも意味している。彼の名を有名にしたのはハンムラピ法典である。現在ではこれを〈最古〉の法典とも,厳密な意味での〈法典〉とも呼べなくなったが,しかし,この種の文書としては最も総括的でかつ完全に近い形で残っていること,またその後長くまた広く本法典の書写がなされ続けたことなどの点で,なおハンムラピの特筆に値する業績であったと考えることができる。
執筆者:中田 一郎
 
    
        
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                    ハンムラピ
        
              
                        バビロン第1王朝第6代の王(在位前1792年―前1750年)。ハンムラビ,ハムラビとも。分裂したバビロニアを統一,マルドゥク信仰を確立し民生に努力。晩年にハンムラピ法典を発布。豊富な史料によりその治世の繁栄が証明されている。
→関連項目ウル
                                                          
     
    
        
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		世界大百科事典(旧版)内のハンムラピの言及
    		
      【シュメール】より
        
          
      …やがて第4代のシュシンの時代にはアムル人(アモリ人(びと))の侵入が目だち,第5代イビシンの治世の末年にはその配下の武将に支配地域の大部分を奪われた後,王朝は[エラム]によって滅ぼされた。以後メソポタミアの地がアムル人によってますますセム化されていく過程で,政治中心はイシン,ラルサ,バビロン,エシュヌンナ,マリの5強に絞られ,バビロンの[ハンムラピ]による統一の下でシュメール人はアムル人に吸収され,シュメール人の歴史的役割は終りを告げる。
[文化的達成]
 シュメール文化は,シュメール語が日常語としては死語となった後も,メソポタミア最後の独立時代である新バビロニア時代まで,古典文学や宗教生活の中に文化語として生き続けた。…
      
     
    		
      【シリア】より
          
      …前2000年ころから起こったアモリ人の定着運動は,第1にアレッポに強大な王国を成立させ,オロンテス川流域に[アララク]という都市を築いた。第2に,メソポタミアに入ったアモリ人が建設したバビロニア帝国(バビロン第1王朝)は,やがてハンムラピ王の下にシリアを征服した。当時のシリアや,そのメソポタミアとの関係については,マリ出土の文書(〈マリ文書〉)で知ることができる。…
      
     
    		
      【治水】より
          
      …【応地 利明】
【西アジア,エジプト】
 治水事業は,[ティグリス川],[ユーフラテス川]と[ナイル川]に集中して行われてきた。メソポタミアに中央集権的な国家を建設したバビロン第1王朝のハンムラピ王は,ユーフラテス川とティグリス川を結ぶ大運河を幾本も開削し,それらを無数の小運河で結ぶことによって,毎年5月に起こる洪水を統御するとともに,両河の水を灌漑水として有効に利用する体系をつくりあげた。この治水組織はアケメネス朝やササン朝でもほぼそのままの形で保持されたが,イスラム時代に入ると,ウマイヤ朝(661‐750)のイラク総督ハッジャージュ・ブン・ユースフは,大排水路を設置して南イラクの大湿地帯(バターイフ)を干潟化することに成功した。…
      
     
    		
      【バビロニア】より
          
      …またこの頃以降になって,南メソポタミアでは初めて土地の私的所有を前提とした耕地の売買や〈タムカールム〉と呼ばれる一種の商業資本家を中心とした活発な商業活動がみられるようになる。政治勢力としてのラルサの出現後は,イシンとラルサの間で覇が争われるが,いずれも他を圧するほどの力はなく,南部メソポタミアにおいても小国分立の状態が続き(イシン・ラルサ時代),やがてイシンはラルサに滅ぼされ(前1794),ラルサはハンムラピ(前1792‐前1750)治下のバビロンに滅ぼされる(前1763)。
[バビロン第1王朝時代]
 こうして前1763年バビロンは南メソポタミアを統一,次いで前1761年マリを滅ぼし,その支配領域を中部メソポタミアにまで広げた。…
      
     
    		
      【バビロン】より
          
      …守護神は[マルドゥク]。前3千年紀末に記録に現れるが,重要な役割を果たしたのは,アムル人(アモリ人)のバビロン第1王朝が成立し,第6代目の王ハンムラピ(在位,前1792‐前1750)が即位してからである。ハンムラピは外交と軍事に優れた才能を発揮し,在位中にエラム,ラルサ,エシュヌンナ,マリを相次いで倒してメソポタミアを統一した。…
      
     
    		
      【ハンムラピ法典】より
          
      …バビロン第1王朝第6代の王ハンムラピによって制定された楔形文字法典。オリジナルは高さ2.25mのセン緑岩製の石碑(ルーブル美術館蔵)に刻まれている。…
      
     
    		
      【メソポタミア】より
          
      …アッシリア人は早くからメソポタミアと小アジア間の通商を行い,カイセリ付近のキュルテペ(カニシュ)などには商業植民地を建設している。 バビロン第1王朝第6代王ハンムラピは,前18世紀中葉に南部メソポタミアの小国分立に終止符を打った(古バビロニア王国)。ラルサはリムシン時代にイシンを併合し,中・南部バビロニアを支配していたが,ハンムラピはマリと同盟するなどして国力を蓄え,ついにラルサを破り,メソポタミア南部を統一した。…
      
     
         ※「ハンムラピ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 
        
    出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
	
    
  
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