ヨーロッパ北東部のバルト海沿岸に位置するエストニア、ラトビア、リトアニアの三国をさす。ラトビアとエストニアは、13世紀初頭にドイツの帯剣騎士団に支配された。リトアニアは独立を維持し、1386年に大公ヤギェウォJagiełłoがポーランド・リトアニア連合王国の国王(在位1386~1434)となり、16世紀中葉には同王国がエストニア南部とラトビアをも領有した。しかしエストニアとラトビアの大半は1629年にスウェーデンの、1721年にはロシアの支配下に置かれ、同世紀末のポーランド分割の結果バルト三国全体がロシア領となった。三国はロシア帝国下にあった1918年に独立を宣言し(リトアニアは2月16日、エストニアは2月24日、ラトビアは11月18日)、共和国を成立させた。20年の平和条約によってソ連から独立を承認され、22年には三国ともに国際連盟に加盟した。三国それぞれで民主主義体制が導入されたが、多党の乱立で政情は不安定であった。また、国家の一体化を進めるために民族主義路線が採られた。とくに、エストニア、ラトビアでは13世紀の当地域への進出以来、実権を握ってきたバルト・ドイツ人(総人口比約5%)は自らの政党が議席をもってはいたものの、しだいに厳しい政策の下に置かれるようになった。政情の不安定さに加えて、世界恐慌の影響が及び、リトアニアは早くも26年に、エストニア、ラトビアでも34年には権威主義的な独裁体制が導入された。国際環境の緊張から、34年には、三国はスイスのジュネーブで「バルト協商」を締結したが、この条約は実務的な三国間の協力にとどまった。39年8月23日にドイツ・ソ連間で不可侵条約が締結され、秋には、三国が次々とソ連との相互援助条約の締結を強いられ、ソ連軍の駐屯を認めた。この背景には、独ソ不可侵条約の付属秘密議定書があり、三国をソ連圏に置くことが約されていた。ソ連軍駐留下での選挙の結果、40年8月に親ソ三国政府はソ連邦へ加盟した。ソ連時代の当初、中央集権化を進める過程で、多数の人々がシベリアの強制収容所へ送られたり、ドイツ、アメリカ、スウェーデン、カナダ、オーストリアなどへ亡命していった。41年から44年のドイツ軍占領の後、ソ連軍が再占領した。農業の集団化に反対する人々のゲリラ活動は、50年代前半まで続いた。ソ連政府によって、三国は沿バルト社会主義共和国として位置づけられる一方で、中央政府と直結し統治された。1985年のゴルバチョフソ連共産党書記長の登場による民主化の動きに、三国はまず、環境運動で呼応し、自立そして分離・独立運動へと展開していった。これは、ゴルバチョフの考えるソ連邦内のバルト三国という位置からしだいに遊離するもので、1991年8月、モスクワでの保守派クーデターの失敗を機に、独立を回復した。
20世紀の三国の歴史的経験が、まさに、バルト三国という呼称を国際的に生み出し、連帯感を強化していったが、それはソ連からの分離・独立運動にも大きな役割を果たした。また、独立回復後の歩みにおいても三国の協力は無視できない。
[志摩園子]
バルト海東南岸のリトアニア,ラトヴィア,エストニア3カ国の総称。総人口は約755万で,主な産業は農業,製造業である。中世以来この地は外部勢力の角逐場であり,13~16世紀の間ドイツ騎士団に支配されたほか,ポーランド,スウェーデンなどの侵入を受けた。18世紀以来しだいにロシアの支配下に入り,19世紀後半にはロシア化政策と民族文化の抑圧が行われた。1918年にロシア革命直後の混乱を利用して三国は独立をとげたが,40年ソ連に編入され,ソヴィエト化が進められた。しかし,90年にリトアニアを筆頭に主権回復宣言を行い,91年独立を回復。それぞれ共和国を形成し,現在に至る。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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