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パフラビー朝 パフラビーちょうPahlavīyah

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

パフラビー朝
パフラビーちょう
Pahlavīyah

イランの王朝 (1925~79) 。 1919年,英仏協定によってイランを保護領にしようとしたイギリスに対して,イラン民族運動が高揚,ソビエト赤軍の援助を受けた革命政権が北部諸州に樹立された。

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デジタル大辞泉の解説

パフラビー‐ちょう〔‐テウ〕【パフラビー朝】

Pahlavīイランの王朝。1925年、カージャール朝に代わってレザー=シャーが創始。1935年に国号をイランと定めた。1941年に王子モハンマドが即位、米国の援助のもとで強力な改革を行ったが、1979年にホメイニ師らによるイスラム革命で打倒された。パーレビ朝パフレビー朝

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世界大百科事典 第2版の解説

パフラビーちょう【パフラビー朝 Pahlavī】

イランの王朝。1925‐79年。パーレビー朝とも呼ばれる第1次世界大戦直後,イラン北部では地方革命政権が生まれ,テヘラン中央政府の力は極度に弱まったが,イギリス帝国主義はロシア革命の波及を恐れて,1921年レザーハーンによるクーデタを演出し,その権力を強化した。彼は軍部独裁の道を進み,25年末レザー・シャー(レザー・シャー・パフラビー)と称してパフラビー朝を興し,26年戴冠式を行い,上からの近代改革を進めようとした。

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大辞林 第三版の解説

パフラビーちょう【パフラビー朝】

イランの王朝(1925~1979)。カジャール朝にかわってレザ=シャーが創建、1935年国号をペルシャからイランと改称。41年パフラビー(パーレビー)が王位を継承、西欧化政策をとったが、イスラム教シーア派の反乱にあい79年に亡命、王制は廃止。パーレビー朝。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

パフラビー朝
ぱふらびーちょう
Pahlavi

イランの王朝(1925~79)。第一次世界大戦後のイランをめぐるイギリス・ソ連両国の角逐のなかで、クーデターを敢行し実権を掌握したレザー・ハーン(のちにシャー)により創始された。初代皇帝レザー・シャーは、強力な軍事独裁体制を敷き、19世紀以来続いた西欧列強への経済的、政治的従属からの脱却を計り、内政面では早急な「近代化」政策を推進した。しかし外交面ではナチス・ドイツに接近したために第二次大戦下イランに侵攻したイギリス・ソ連両軍の圧力により退位させられた。続いて即位したモハンマド・レザー・パーレビは、大戦中イギリスにかわり中東に対する影響力を強化したアメリカとの関係の緊密化を計った。一時、モサデク政権による石油国有化闘争の際に亡命の危機を迎えたが、アメリカの画策でこれを克服したのち、63年には「白色革命」を断行。70年代には急増する石油収入を背景に第五次五か年計画に着手したが、経済政策の失敗と、独裁に対する国民の不満の急激な増大のなかで、79年のイスラム革命により打倒された。[八尾師誠]

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