パラマウント会社(英語表記)Paramount Pictures, Inc.

改訂新版 世界大百科事典 「パラマウント会社」の意味・わかりやすい解説

パラマウント[会社]
Paramount Pictures, Inc.

アメリカの映画会社。ハリウッドメジャー(Hollywood majors)と呼ばれる大手映画会社の一つ。1930年代に金融資本と結びついて八大映画会社が成立,そのうちパラマウント,MGM,20世紀フォックス,ワーナー・ブラザースRKOが〈ビッグ・ファイブ〉,ユニバーサル,コロムビア,ユナイテッド・アーチスツが〈リトル・スリー〉といわれた。

 パラマウントの前身はアドルフ・ズーカーAdolph Zukor(1873-1976)のフェイマス・プレイヤーズ映画社。1912年,フランスの名女優サラ・ベルナール主演の長編劇映画《エリザベス女王》をアメリカに輸入配給して大成功したズーカーが,〈フェイマス・プレイヤーズ・イン・フェイマス・プレイズ(有名な戯曲による有名な俳優)〉をスローガンに設立した独立製作会社であった。その第1回作品が当時舞台の名優として知られたジェームズ・ハケットを主演にしたエドウィン・S.ポーター監督の最初の長編映画《ゼンダ城の虜》(1912)。そのほか,ジョン・バリモア,ウィリアム・ファーナムといった舞台の名優を擁して,次々に大作を発表,カール・レムリ(1867-1939)のユニバーサルと覇権を争い,当時バイオグラフ社からデビューした人気女優メリー・ピックフォードの引抜き合戦ではその後も類を見ないといわれる週給1000ドル,2年間に最高100万ドルを支払うという契約で彼女を獲得した。次いでズーカーは配給網の確立をめざして,13年に組織されたW.W.ホジキンソンのパラマウント・ピクチャーズ・コーポレーションに参加,16年にはジェシー・L.ラスキー(1880-1958),サミュエル・ゴールドフィッシュ(のちのゴールドウィン),セシル・B.デミルの製作会社フィーチャー・プレイ社(1913設立)を合併してフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー・コーポレーションをつくり,19年にはパラマウント・ピクチャーズ・コーポレーションをも合併してその主宰者のホジキンソンを退かせて実権を握り,以後フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー作品を〈パラマウント映画〉の名で売り出すことにした。27年にはパラマウント・フェイマス・ラスキー・コーポレーションとなり,30年にはパラマウント・パブリックス・コーポレーションと社名を変えたが,1920年代は〈パラマウント映画〉がもっとも勢いをふるった時代で,プロデューサーにはB.P.シュルバーグ,監督にはデミルといった強力な陣容で,アメリカ映画史に残る西部開拓劇の大作《幌馬車》(1921-23)やスペクタクル史劇《十誡》(1923)を製作,そして20年代後半から30年代を通じてエーリッヒ・フォン・シュトロハイム,エルンスト・ルビッチ,ジョゼフ・フォン・スタンバーグ,ルーベン・マムーリアンといったヨーロッパ的なセンスをもった〈外国人〉の監督や,ポーラ・ネグリ,マルレーネ・ディートリヒ,モーリス・シュバリエといったヨーロッパから〈輸入〉したスターたちによって〈パラマウント調〉と呼ばれるソフィスティケートされたスタイルをつくりあげて看板とした。

 トーキーへの移行期に経済的危機を迎え,33年,ニューヨーク連邦裁判所によってパラマウント・パブリックスは破産を宣告され,35年に現在に至る社名のパラマウント・ピクチャーズ・インコーポレーションとして再建されたが,すでにズーカーの時代は終わってウォール街の金融資本に支配されるところとなり,デミル監督《平原児》(1936),《大平原》(1939)などに代表される大作西部劇を中心とした〈大衆的〉な娯楽映画をもっぱら売物とするようになった。そのなかで,アカデミー賞に輝いた《我が道を往く》(1944)や《失われた週末》(1945)などの〈良心作〉も製作され,また,ボブ・ホープ主演の喜劇(《南米珍道中》(1947)などの《珍道中》シリーズ,《腰抜け二挺拳銃》(1948))が大ヒットしたりしたが,50年,独占禁止法によって製作・配給会社パラマウント・ピクチャーズと興行会社ユナイテッド・パラマウント・シアターズ・インコーポレーテッドに分割されて,企業としての力を弱め,この打撃とテレビジョンの脅威に耐えて,新しい喜劇コンビ,ディーン・マーティン=ジェリー・ルイスの《底抜け》シリーズ(1949-56)や《サンセット大通り》(1950),《陽のあたる場所》(1951),《地上最大のショウ》(1952),《シェーン》(1953)などのヒットによってやや安定し,また,54年に20世紀フォックスのシネマスコープに対抗してビスタビジョンを開発(のちに,このシステムは費用がかかりすぎることが判明し,代わりにパナビジョンを採用),《裏窓》(1954),《十戒》(1956),《OK牧場の決闘》(1957),《めまい》(1958),《サイコ》《ベケット》(ともに1960)などのヒット作を出したものの,ハリウッドの深刻な不況のなかで66年11月,大手のコングロマリット,ガルフ&ウェスタン・インダストリーズに吸収され,67年にテレビ映画製作の子会社パラマウント・テレビジョン・インダストリーズが新設された。

 その後,俳優出身のロバート・エバンズRobert Evans(1966年に製作担当副社長として入社),営業・宣伝マン出身のフランク・ヤブランズFrank Yablans(1971-75社長)という30歳代のプロデューサーを首脳に迎えて《ローズマリーの赤ちゃん》(1968),《ある愛の詩》(1970),《ゴッドファーザー》(1972),《ペーパー・ムーン》(1973),《チャイナタウン》(1974)といった話題作を製作して成功するが,69年には配給会社CIC(シネマ・インターナショナル・コーポレーション)が設立され,71年までにパラマウントとユニバーサルの海外配給部門を統合,実質的な整理と合理化が行われた。エバンズとヤブランズは,コングロマリットに拘束されない自由な製作をめざして職を辞し,独立プロデューサーに転じたが,パラマウントはその後も《サタデー・ナイト・フィーバー》(1977),《グリース》(1978),《天国から来たチャンピオン》(1978)などのヒットを飛ばした。しかし,80年には,ワーナー・ブラザースの《ブロンコ・ビリー》,ユニバーサルの《アイランド》,ユナイテッド・アーチスツの《天国の門》などとともに,パラマウントの目玉商品であった《ラフ・カット》も当たらず,ハリウッドのメジャーにとってまたあらたな不安が生まれつつあるとアンドリュー・ラスコスは《アナトミー・オブ・ザ・ムービーズ》(デビッド・パイリー編,1981)のなかで分析している。
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