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ピュリッツァー Pulitzer, Joseph

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ピュリッツァー
Pulitzer, Joseph

[生]1847.4.10. マコ
[没]1911.10.29. サウスカロライナ,チャールストン
ハンガリー生れのアメリカの新聞経営者。 1864年南北戦争の北軍義勇兵として渡米。セントルイスでドイツ語新聞"Westliche Post"の記者,さらにニューヨークで『サン』の通信員などを経験したのち,78年夕刊『セントルイス・ディスパッチ』を買収して『ポスト』と合併,『ポスト・ディスパッチ』 Post-Dispatchを創刊。民衆のための社会改良的立場からニュースを取上げることにより,大衆新聞の地歩を築いた。さらに 83年5月 J.グールドから『ニューヨーク・ワールド』を買収,87年 10月には『イブニング・ワールド』 Evening Worldを創刊,92年には朝・夕刊合せて 37万 4000部というニューヨーク第一の新聞に発展させた。一方 W.ハーストの『ニューヨーク・ジャーナル』との間に激しい販売競争を展開し,扇動的な報道の代名詞としてイエロー・ジャーナリズムという言葉を生んだ。「自由の女神」の台座づくり 10万ドル基金キャンペーンでも知られる。晩年は「ワールド」王国の衰退と失明のため不遇であったが,コロンビア大学新聞学科の創設 (1903.6.) や,遺言による「ピュリッツァー賞」の設定 (17) など,新聞界に貢献した。

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百科事典マイペディアの解説

ピュリッツァー

米国のジャーナリスト,新聞経営者。ハンガリーのブダペスト近郊に生まれ,1864年,南北戦争中の米国に渡り,北軍騎兵として従軍。1867年米国に帰化し,1868年セント・ルイスでドイツ語新聞《ベストリッヘ・ポスト》の記者となる。

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世界大百科事典 第2版の解説

ピュリッツァー【Joseph Pulitzer】

1847‐1911
アメリカのジャーナリスト,新聞経営者。ハンガリーのブダペスト近郊に生まれる。1864年,南北戦争中のアメリカに渡り,リンカン騎兵隊に参加,67年アメリカに帰化した。68年セント・ルイスで,ドイツ語新聞《ベストリッヘ・ポスト》にレポーターとして入り,市政の腐敗暴露,おもしろいニュースの報道に活躍する。78年,破産して競売に付されていた《セント・ルイス・ディスパッチ》紙を買い,J.A.ディロン経営の《セント・ルイス・ポスト》紙と合併させ夕刊紙《ポスト・ディスパッチThe Post‐Dispatch》の編集・経営にあたり,民衆の味方として汚職,大企業の不正に対するキャンペーンを繰り返し,新しいジャーナリズム手法を試みながら,同市の指導的新聞とした。

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大辞林 第三版の解説

ピュリッツァー【Joseph Pulitzer】

1847~1911) アメリカの新聞経営者。ハンガリー生まれ。既存の新聞を次々と買収し巨大独占資本への攻撃で人気を得、ハーストと競う。寄付によりコロンビア大に新聞学科が、遺言でピュリッツァー賞が創設された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ピュリッツァー
ぴゅりっつぁー
Joseph Pulitzer
(1847―1911)

アメリカの新聞人。ハンガリーに生まれる。1864年、南北戦争の際、北軍の募兵に応じて渡米、1868年、ミズーリ州セントルイスで発行されていたドイツ語紙『ウェストリッヘ・ポスト』の記者となり、1869年にはミズーリ州議員に選ばれ、やがて同紙の経営者となった。その後『ニューヨーク・サン』紙のワシントン通信員を務めたりしたが、1878年つぶれかかっていた『セントルイス・ディスパッチ』紙を買収、これを『セントルイス・ポスト』紙と合併して、『セントルイス・ポストディスパッチ』と改めて、どの党派にも属さず、行政を批判することを旗印として、数年のうちに利益をあげる新聞とした。1883年には『ニューヨーク・ワールド』紙を買収、センセーショナルなニュース報道でたちまちのうちに成功を収めた。1887年には『イブニング・ワールド』紙を創刊し、まもなくニューヨーク最大の部数を誇るようになった。1884年には下院議員に選出されたが、まもなく視力が衰えて、1890年ごろから保養地やヨットで生活することとなる。
 しかし1895年ハーストが『モーニング・ジャーナル』紙を買収して、同じくセンセーショナルな新聞で『ワールド』紙と対抗するようになると、競争は激化、ことに互いの日曜版で色刷り漫画競争となり、その主役であったイエロー・キッドの名にちなんで、両紙はイエロー・ジャーナリズムという悪名を残すこととなった。1898年アメリカ戦艦メーン号爆沈後の両紙の報道は戦争熱をあおるものだとの非難を浴びた。1903年、ピュリッツァーはコロンビア大学に200万ドルを寄付、これをもとにして1912年には同大学に新聞学部がつくられ、記者教育が行われるようになった。また遺言により1917年にピュリッツァー賞が制定された。[伊藤慎一]
『W・A・スウォンバーグ著、木下秀夫訳『ピュリツァー』(1978・早川書房)』

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世界大百科事典内のピュリッツァーの言及

【アメリカ合衆国】より

…1833年デイBenjamin Dayの出した1ペニー新聞《ニューヨーク・サン》がそれであるが,現代型新聞の原型は,19世紀末から20世紀にかけて形成されたといえよう。すなわち,米西戦争(1898)をはさむ期間,J.ピュリッツァーの《ワールド》(1883年から所有)とW.R.ハーストの《ニューヨーク・ジャーナル》(1895年から所有)との,激烈な競争(イェロー・ジャーナリズム)のなかで,100万単位の部数,広告収入の確保,巨大資本による群小紙・誌の系列化,センセーショナリズムなど,現代新聞の特徴が生み出される。繁栄の1920年代には巨大企業による新聞チェーンの形成と系列化が進み,さらに30年代には,多くの新聞がF.D.ローズベルトのニューディール政策に反対して,党派的に〈偏向〉した報道を行った。…

【イェロー・ジャーナリズム】より

…日本で赤新聞といわれるのがほぼ同義。1890年代,巨大企業と化したピュリッツァーの《ワールド》紙と,ハーストの《ニューヨーク・ジャーナル》紙は,常軌を逸した競争を展開する。《ワールド》の日曜版は,8ページの漫画セクションを出し,そのうちの4ページをカラーで印刷していた。…

【ハースト】より

…87年父が買い取っていた《サンフランシスコ・エグザミナーSan Francisco Examiner》紙の経営・編集にあたり大成功を収め,95年750万ドルの資金をもってニューヨークに進出,《ニューヨーク・ジャーナルNew York Journal》を買収した。ピュリッツァーの開拓した新聞手法をまね,かつそれを肥大化させ,また高給でスタッフを引き抜くなどして,イェロー・ジャーナリズムなどと攻撃されながらピュリッツァーと激烈な競争を展開し,現代大衆紙の原型をつくり上げた。1900年,シカゴに夕刊紙《アメリカンAmerican》,04年にはボストンで夕刊紙《アメリカン》を出し,初めて新聞の系列化を実現した。…

【ワールド】より

…76年にペンシルベニア鉄道会社会長スコットThomas A.Scottの手に移り,79年,金融業者グールドJay Gouldに売却された。ニューヨーク進出を企図したJ.ピュリッツァーは83年,部数が1万5000から2万部に低迷していたこの新聞を買収し,5月11日から彼の編集指揮の下で〈民衆の味方,政治家・企業の不正との闘い〉を宣言して,新しい型の大衆紙に再生させることに成功した。この間モルガン財閥の不正追及,パナマ運河スキャンダルの暴露などのキャンペーンをはった。…

※「ピュリッツァー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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