フォンダ(英語表記)Henry Fonda

改訂新版 世界大百科事典 「フォンダ」の意味・わかりやすい解説

フォンダ
Henry Fonda
生没年:1905-82

アメリカの映画俳優。舞台でも活躍した。〈まじめで無器用な青年〉から〈怒りを抑えた静かな知性と深い思慮ある大人〉に成熟したアメリカ人,あるいは〈普通の人々〉の怒りと悲しみをもったアメリカン・ヒーロー,というのがスクリーンにおけるフォンダのイメージであった。ネブラスカ州生れ。新聞記者を志してミネソタ大学ジャーナリズムを専攻するが,家庭の事情で中途退学。アマチュア劇団をへて,演劇集団〈ユニバーシティ・プレーヤーズ〉に加わり,のちにブロードウェーの演出家になるジョシュア・ローガン,ブロードウェーからハリウッドのスターになるジェームズ・スチュアートたちと活動をつづける。1929年から端役でブロードウェーの舞台に立ち,《ニュー・フェース》につづく《農夫の妻》(1934)の主役を演じて注目を浴び,その映画化作品《運河のそよ風》(1935)でスクリーンにデビュー。ヘンリー・ハサウェー監督《丘の一本松》(1936),フリッツ・ラング監督《暗黒街の弾痕》(1937),ウィリアム・ワイラー監督《黒蘭の女》(1938),ジョン・フォード監督《若き日のリンカーン》(1939),《怒りの葡萄》(1940)などで〈アメリカの小さな良心〉を体現し,演技力のあるスターとして注目される。42年,海軍に志願して服役したあと,ジョン・フォード監督《荒野の決闘》(1946),《アパッチ砦》(1948)などに出演。そのあとブロードウェーの《ミスター・ロバーツ》(1948)がヒットして続演をかさね,55年,その映画化でハリウッドへ復帰,さらにブロードウェーとテレビの出演をつづけながら,西部劇,喜劇,メロドラマ,戦争映画と多彩なジャンルで活躍して,78年にはアメリカ映画協会(AFI)の功労賞を受賞した。

 西部の移住農民を通して30年代アメリカ社会の恥部を描いた《怒りの葡萄》,19世期末のネバダ州を舞台に反社会的なリンチを告発したウィリアム・A.ウェルマン監督《オックス・ボウ事件》(1943),現代アメリカの陪審制度による人権擁護を描いたシドニー・ルメット監督《十二人の怒れる男》(1957)をみずからの代表作として誇りにしていた。合計83本の映画に出演しながらアカデミー主演男優賞にノミネートされたのは《怒りの葡萄》でただ1度だけ。娘ジェーン・フォンダJane Fonda(1937- )のIPCプロダクション製作,マイク・ライデル監督《黄昏》(1981)が最後の出演作品で,アカデミー賞が設けられて以来最高齢の76歳で主演男優賞を受賞したあとこの世を去った。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フォンダ」の意味・わかりやすい解説

フォンダ(Jane Fonda)
ふぉんだ
Jane Fonda
(1937― )

アメリカの女優。ニューヨーク生まれ。ヘンリー・フォンダの娘。パリ留学後、アクターズ・スタジオに学び、1960年映画界にデビューした。1965年にフランスの映画監督ロジェ・バディムと結婚、『獲物の分け前』(1966)などに主演したが、離婚して帰米。『コールガール』(1971)、『帰郷』(1978)で2回アカデミー主演女優賞受賞。反体制運動の闘士としても活躍。代表作に『ジュリア』(1974)、『チャイナ・シンドローム』(1979)、『9時から5時まで』(1980)、『黄昏(たそがれ)』(1981)、『モーニング・アフター』(1986)、『私が愛したグリンゴ』(1989)、『アイリスへの手紙』(1990)などがある。

[畑 暉男]

『山田宏一編『ジェーン・フォンダ 美と闘争の神話』増補改訂版(1981・芳賀書店)』『ジェーン・フォンダ他著、田村協子訳『ジェーン・フォンダのワークアウト』(1982・集英社)』『フレッド・ローレンス・ガイルズ著、長沢由美訳『ジェーン・フォンダ 華麗なる挑戦』(1983・集英社)』『ジェーン・フォンダ著、堂浦恵津子訳『ジェーン・フォンダのからだ術こころ術』(1987・晶文社)』『ピーター・コリアー著、谷川建司訳『フォンダ――ヘンリー、ジェーン、そしてピーター』(1995・キネマ旬報社)』


フォンダ(Henry Fonda)
ふぉんだ
Henry Fonda
(1905―1982)

アメリカの俳優。ネブラスカ州生まれ。ミネソタ大学を中退して地方劇団に加わりニューヨークの舞台に立ち、1935年に映画界にデビュー。アメリカ映画の良心と知性を代表する演技者として50年に近いキャリアのなかに数々の名演を残し、『黄昏(たそがれ)』(1981)でアカデミー主演男優賞を受賞した。その間『怒りの葡萄(ぶどう)』(1940)、『荒野の決闘』(1946)、『ミスタア・ロバーツ』(1955)などフォード監督の諸作や、『十二人の怒れる男』(1957)、『女優志願』(1958)など多数に出演した。娘ジェーンは俳優として、息子ピーターPeter Fonda(1939―2019)も俳優、映画監督として活躍。

[畑 暉男]

『ハワード・ウィクマン著、鈴木主税訳『ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ』(1982・文芸春秋)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フォンダ」の意味・わかりやすい解説

フォンダ
Fonda, Jane

[生]1937.12.21. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の女優。本名 Jane Seymour Fonda。父は俳優ヘンリー・フォンダ。名門女子大学のバッサー・カレッジを 2年で中退,1958年にニューヨークの俳優養成機関アクターズ・スタジオでリー・ストラスバーグに演技を学び,モデルとしても働いた。1960年に戯曲 "There Was a Little Girl"でブロードウェーに進出し,『のっぽ物語』Tall Storyで映画デビューを果たした。1960年代には『キャット・バルー』Cat Ballou(1965),『裸足で散歩』Barefoot in the Park(1967)など数多くの映画でコミカルな役を演じた。その後,『ひとりぼっちの青春』They Shoot Horses, Don't They?(1969),『コールガール』Klute(1971),『帰郷』Coming Home(1978),『チャイナ・シンドローム』The China Syndrome(1979)など社会派の作品に出演した。『コールガール』と『帰郷』でアカデミー賞主演女優賞を受賞。1981年には『黄昏』On Golden Pondで父親と共演。一時映画界を離れていたが,2005年に『モンスター・イン・ロー』Monster-in-Lawで復帰した。政治活動家としても有名で,1970~80年代には反体制の活動家として活躍。ベトナム反戦運動に携わり,1972年にベトナム民主共和国(北ベトナム)のハノイを訪れてアメリカ軍の北ベトナム爆撃(北爆)を批判した(→ベトナム戦争)。私生活では,フランスの映画監督ロジェ・バディム,アメリカの政治家トム・ヘイデン,アメリカのテレビ局 CNNの創業者テッド・ターナーとの 3度の結婚・離婚を経験した。

フォンダ
Fonda, Henry

[生]1905.5.16. ネブラスカ,グランドアイランド
[没]1982.8.12. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国の舞台・映画俳優。フルネーム Henry Jaynes Fonda。ネブラスカ州オマハに育ち,マーロン・ブランドの母ドロシーに誘われアマチュア劇団オマハ・コミュニティー・プレイハウスの公演に出演するようになった。ミネソタ大学で一時ジャーナリズムを学んだのち,1928年東海岸に移住。マサチューセッツ州ファルマスで学生演劇集団「ユニバーシティ・プレーヤーズ」に参加し,のちに最初の妻(生涯で 5回結婚)となるマーガレット・サラバンらと出会う。1934年ブロードウェーの舞台『運河のそよ風』The Farmer Takes a Wifeで初めて主役を務め,翌 1935年には映画化作品の同じ役で映画デビューを果たした。第2次世界大戦中は海軍に入隊。戦前戦後を通じ,ジョン・フォード監督作品に数多く出演しており,代表作は『怒りの葡萄』The Grapes of Wrath(1940),『荒野の決闘』My Darling Clementine(1946)など。1948年ブロードウェーに凱旋し,『ミスタア・ロバーツ』Mister Robertsでトニー賞を受賞した。晩年も映画出演を続け,生涯最後の出演作となった『黄昏』On Golden Pond(1981)でアカデミー賞主演男優賞を獲得。その前年にはアカデミー賞名誉賞を受賞している。

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百科事典マイペディア 「フォンダ」の意味・わかりやすい解説

フォンダ

米国の俳優。ミネソタ大を中退して舞台俳優となり,1935年映画デビュー。J.フォード監督《怒りの葡萄》(1940年),同《荒野の決闘》(1946年),ブロードウェーの舞台を映画化した《ミスタア・ロバーツ》(1955年),S.ルメット監督《十二人の怒れる男》(1957年)などでアメリカの良心を体現した。娘ジェーン〔1937-〕が製作・共演した《黄昏》(1981年)で初のアカデミー主演男優賞。息子ピーター〔1939-〕も俳優。
→関連項目ヘプバーン

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世界大百科事典(旧版)内のフォンダの言及

【怒りの葡萄】より

…1940年製作。《若き日のリンカーン》《モホークの太鼓》(ともに1939)に次いでヘンリー・フォンダが主演,この3連作でスターとなり,アメリカ民主主義の理想を体現した〈オール・アメリカン・ヒーロー〉としてのイメージを築いた。J.フォードの最も脂がのり切った時期の作品の1本で(1938年10月から39年11月までに,《駅馬車》とH.フォンダ主演のこの3連作を製作),初のアカデミー監督賞を受賞し,彼はこれで第一級の監督にのし上がった。…

【荒野の決闘】より

…ジョセフ・マクドナルドの撮影によるモノクロ画面の,広々とした空間の表現,雲の美しさなども特筆されるべきもので,〈もっとも撮影のみごとな西部劇の1本〉に数えられる。主人公ワイアット・アープには,フォードの《若き日のリンカーン》(1939),《怒りの葡萄》でアメリカの民主主義を体現する理想的ヒーローを演じたヘンリー・フォンダが扮(ふん)し,西部男の好もしい素朴さを表現。原題は美しい娘のことをうたった民謡からとられたもので,そこでうたわれている〈愛しのクレメンタイン〉が,そのまま,アープが淡い恋情をよせるヒロインの名まえに使われた。…

【十二人の怒れる男】より

…先鋭的な舞台の演出家,そしてとくにテレビの生放送ドラマのディレクターとして知られていたシドニー・ルメットの初の映画演出作品で,レジナルド・ローズの脚本をルメット自身が演出したテレビドラマの映画化。主役のヘンリー・フォンダが,ローズとともに製作を担当。父親を刺殺した容疑で起訴された少年にたいする評決をめぐって,ニューヨーク市民の中から任意に選ばれた12人の陪審員が論議をかさね,予備投票による1対11の有罪から12対0の無罪へと評決が逆転する過程を克明に描く。…

※「フォンダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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