ベトナム反戦運動(読み)べとなむはんせんうんどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベトナム反戦運動」の意味・わかりやすい解説

ベトナム反戦運動
べとなむはんせんうんどう

ベトナム戦争が激化するとともに、これに反対して世界各国に繰り広げられた反戦・平和の広範な市民運動。

 アメリカベトナム介入は、共産主義を不道徳、邪悪なものとして、その脅威からアメリカ的民主主義やアメリカ的生活様式を守らなければならないと決意したときに始まった。しかし、そうした行動は、アメリカの憲法、国連憲章国際法国際条約に違反し、アメリカの歴史的・伝統的精神にもとるのではないかという疑問が生じ、それはアメリカの兵力派遣が加速され、戦闘が激化するに伴って高まった。

 疑問はさまざまの形をとって現れた。学者や知識人らはいち早くアメリカのベトナム介入の合法性について調査し、分析する委員会を組織した。1965年春、プリンストン大学教授リチャード・A・フォーク博士を委員長として設置された「アメリカのベトナム政策に関する法律家委員会」などである。委員会はアメリカのベトナム介入はいくつかの基本点で国際法に違反しているとの結論を出し、それを公表した。議会では政府のベトナム政策に関する公聴会が開かれ、またテレビ、ラジオ、その他の場でもさまざまの公開討議がなされた。これらはベトナム問題に関する「ティーチ・イン」として一時、一種の流行語になった観さえあった。北爆が強化され、枯れ葉作戦やソンミ事件の実態が明るみに出るにつれてベトナム戦争に対する疑惑はベトナム戦争反対の動きとなって広がり、政府の政策に反対する集会やデモがしばしば挙行された。その最大のものは1969年10月15日を「ベトナム反戦デー」Vietnam Moratorium Dayとしてワシントンを中心にアメリカ各地で行われた大規模なベトナム反戦統一行動であったろう。これは11月、12月と続けられ、71年6月にも行われた。またベトナム戦線からの脱走兵をかくまい、国境を超えて保護しようとする動きもあった。国防総省はベトナム戦争の全容について調査・研究を行い、これを47巻に上る膨大な「米国防総省秘密報告書」(一般にペンタゴンペーパーとよばれる)としてまとめあげたが、その概容が『ニューヨーク・タイムズ』によってすっぱ抜かれた(同紙は1971年6月13日から掲載開始)。これはアメリカのベトナム政策の虚像をはぎ取ることになり、反戦運動に強力な弾みを与えた。

 こうした反戦運動を支えた論理ないし信念は三つあったようである。一つは法の拘束から離れた対外政策を遂行するよりも国際法規を遵守した政策を行うことのほうが国家の利益になるという考え方、もう一つはアメリカの政策が間違っており、国際法に違反しているとしたら、そのことを指摘するのが市民としての義務であり、たとえ政府であっても無法な行動をとるときは、それに反対するのが国を愛することだという信念、第三は速やかに戦争終結の方途をみいださなければならないが、政府の政策が自ら修正されるようなことは期待できない、残された道は国民世論の喚起以外にないという判断であった。ペンタゴン・ペーパーをあえて暴露した『ニューヨーク・タイムズ』にしても、報道の自由、つまり国民の知る権利は「国益」に優先するという考え方にたったようである。

 ベトナム反戦運動はアメリカのみでなく、ほとんど世界各国で展開され、日本でも幅広く実施された。それらは国際的な連帯によって強められた。日本で運動のイニシアティブをとったのはベ平連(ベトナムに平和を!市民連合。1965年4月結成。74年1月解散)で、北爆反対のデモ行進、反戦の公開討論会、『ニューヨーク・タイムズ』への反戦広告の掲載、反戦米兵の脱出援助、反戦国際会議の開催などを行った。この運動は政党団体から独立した自発的市民のグループによって推進されたところに大きな特色があった。革新政党、労働組合なども持続的な統一行動を行った。

 反戦運動は平和運動である。戦争は政府により、国権の発動として行われるものであり(日本国憲法の前文、第9条)、したがって平和運動は民主化や言論の自由を求める闘争と連動し、どこでも市民運動の形をとったものが力をもつ。日本の反戦市民運動は日米安保条約への反対、高度経済成長に伴う急激な工業化・都市化・公害の増大に対する批判などによって促進された。

 ベトナム戦争の内包する矛盾が反戦運動をかき立て、反戦運動がまた戦争への疑問をいよいよ強め、かくて市民の反戦デモンストレーションはアメリカ政府をして北爆停止―和平交渉開始―アメリカ軍の撤退―戦争終結を決意させるにあずかって力あった。反戦運動は強い圧力となってアメリカ政府の政策転換に大きな影響を与えたようである。しかし、それがアメリカの信奉する力の論理を突き崩すことになったため、アメリカ人の民族的自負を傷つける結果となり、アメリカは長く自信の喪失、モラルの荒廃に悩まなければならなかった。

[丸山静雄]

『R・A・フォーク編、佐藤和男訳『ベトナム戦争と国際法』(1968・新生社)』『小田実・鶴見俊輔・吉川勇一編『市民の暦』(1973・朝日新聞社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ベトナム反戦運動」の意味・わかりやすい解説

ベトナム反戦運動 (ベトナムはんせんうんどう)

ベトナム戦争(1960-75年にわたる第2次インドシナ戦争)に対する反戦運動。それまでの反戦運動に比し,ベトナム反戦運動は,質的にも量的にも,はるかに際だったものであった。とくに戦争当事国アメリカの中で,自国の戦争政策に反対して行われた運動は,軍隊内部での抵抗をも含めて,第1次世界大戦末期の帝政ロシアでのそれを除いては前例のない規模であったし,また侵略と戦うベトナム人民に対する各国人民の連帯・支援の行動も,義勇軍派遣こそなかったが,スペイン内乱への国際的支援の規模をはるかに上回った。戦争の終結をもたらしたものは,基本的には,ベトナム人民の不屈の闘争であったが,アメリカはたえず国内世論と同盟国の動向(それは,やはり各国内の世論の影響を受けた)を大きく考慮に入れざるをえず,この意味では,反戦運動は第3の戦争当事者だったとまでいってよい。

 1965年2月の北爆開始以降の戦争のエスカレーションは,反戦運動を一挙に拡大させた。世界各地で数万,数十万単位の抗議集会がもたれ,またB.ラッセルらの呼びかけによる〈アメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷〉(1967年5月,ストックホルムで開催。通称ラッセル法廷)や,たびたびの国際反戦統一行動デー(たとえば1967年10月21日)など,国際的連携による活動も盛んだった。アメリカでは,徴兵拒否の運動,軍隊内での地下反戦運動,ベトナム復員軍人の反戦運動,内部告発(たとえばD. エルズバーグの国防省秘密文書暴露,1971年6月)も活発に行われ,とくに黒人の解放闘争が反戦と結合したことの影響は大きかった(黒人問題)。他の西欧諸国でも,68年のパリ〈五月革命〉など,学生・青年層の戦闘化が目立った。

 日本の運動も1965年以降とくに活発化し,6月9日の統一行動(全国200ヵ所),総評54単産などの10・21反戦スト(1966年10月21日)と行動が続き,また〈ベ平連〉など市民の運動への参加も顕著で,反戦運動は60年安保闘争以来の高揚をみせた。とくに労働者の反戦青年委員会,学生の全共闘運動など,青年層が戦闘化し,67年以降は新左翼諸党派の行動も激化した。沖縄では反基地の行動が激しく展開された。運動はアメリカへの非難にとどまらず,それと協力する日本の荷担への批判を強め,それ以前の主として被害者意識にもとづくものから,第三世界への加害者としての日本を自覚する思想も広がった。総じてアメリカの敗北と,各国の反戦運動の高揚は日本を含む先進資本主義諸国の基部に大きな亀裂をもたらしたといえる。
インドシナ戦争
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベトナム反戦運動」の解説

ベトナム反戦運動(ベトナムはんせんうんどう)

1965年以降,ベトナム戦争中に展開された反戦運動。アメリカの大学キャンパスを中心に展開された。学生たちは多くの大学で戦争を批判する教授や知識人とともに反戦集会,反戦デモを行い,ときには徴兵カードを焼いた。運動は政府が69年に段階的撤兵政策を開始したあとは下火になったが,70年のカンボジア侵攻に反発して再び盛り上がり,オハイオ州立ケント大学では州兵による発砲で学生が死亡する事件が起こった。ベトナム反戦運動はアメリカ国外でも展開され,日本では「ベ平連」が活動した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ベトナム反戦運動」の解説

ベトナム反戦運動
ベトナムはんせんうんどう

1961年(昭和36)から73年まで続いたアメリカのベトナム侵攻に対する反対運動。世界的に広がったが,日本では北爆が開始された65年頃から高まり,左翼政党・労組などのほか,三派全学連による佐藤首相ベトナム訪問阻止の羽田事件,アメリカ原子力空母エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争,米軍王子野戦病院反対闘争,新宿騒乱事件などの実力闘争,ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)などによる市民大衆運動が特色となった。

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