ヘプバーン(その他表記)Katharine Hepburn

改訂新版 世界大百科事典 「ヘプバーン」の意味・わかりやすい解説

ヘプバーン
Katharine Hepburn
生没年:1907-2003

アメリカの映画女優。コネチカット州ハートフォードの名門家庭の生まれ。父は外科医,母は熱心な婦人参政権論者で産児制限運動家。はやくから演劇にひかれ,12歳のときからアマチュア劇団に加わり,カレッジ演劇で経験をつむ。1928年に卒業して結婚(1932年離婚),ボルティモアの劇団でデビュー後,勝気な性格ときたんなさのためしばしば役をおろされながらブロードウェーの《勇士の夫》(1932)で成功し,RKOに招かれてジョージ・キューカー監督の《愛の嗚咽》(1932)でジョン・バリモアの相手役として映画にデビュー。スラックス姿で観衆の前に現れたり,ハリウッドの社交界とは隔絶した私生活を送って,当時のスターとは異質なイメージの女優だったが,第3作の《勝利の朝》(1933)でアカデミー主演女優賞を受賞した。その後,ケーリーグラントと共演したスクリューボールコメディ赤ちゃん教育》《素晴らしき休日》(ともに1938)で新しい才能を示したが,興行的には〈当らない女優〉といわれた。

 しかし,MGMに移って,ブロードウェーの舞台でも主役を演じた《フィラデルフィア物語》(1940)がヒットし,ニューヨーク映画批評家協会の女優賞を受賞。《女性No.1》(1942)でスペンサー・トレーシーと初めて共演,トレーシーとはその後9本の映画に共演して,ハリウッド屈指のコンビといわれた。ブロードウェーやロンドンで舞台に意欲を示しながら《アフリカの女王》(ジョン・ヒューストン監督,1951),《旅情》(デビット・リーン監督,1955),《去年の夏突然に》(ジョセフ・マンキーウィッツ監督,1959)などの優れた作品を選んで映画に出演し,《夜への長い旅路》(1962)ではカンヌ映画祭の女優賞を受賞した。トレーシーとの久しぶりの共演作《招かれざる客》(1967。完成後まもなくトレーシーは死亡)と《冬のライオン》(1968)で2年連続してアカデミー主演女優賞を受賞,ハリウッド最高の演技派女優といわれた。さらに,69年にはブロードウェーでミュージカルに初出演(《ココ》)するなど,意欲は衰えず,81年には,ヘンリー・フォンダの最後の作品《黄昏》で,初めてオスカーを受賞するフォンダとともに,みずからも史上ただ1人四つ目のオスカーを受賞した。
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ヘプバーン

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百科事典マイペディア 「ヘプバーン」の意味・わかりやすい解説

ヘプバーン

米国の映画女優。ベルギー生れ。イギリス映画界でデビュー。ブロードウェーの舞台で《ジジ》出演後ハリウッド入り。W.ワイラー監督《ローマの休日》(1953年),ニューヨークの宝石店ティファニーを観光名所にした《ティファニーで朝食を》(1961年),C.グラントと共演した《シャレード》(1963年),《おしゃれ泥棒》(1966年)などに出演し,世界的人気のある清純派スターだった。
→関連項目キューカークーパージバンシー真実の口ドーネンペック

ヘプバーン

米国の映画女優。コネティカット生れ。1928年舞台にデビュー。《愛の嗚咽》(1932年)で映画界にも登場,H.ホークス監督,C.グラント共演のスクリューボール・コメディ《赤ちゃん教育》(1938年)などで才能を示した。強烈な個性と正確な演技で知られる。D.リーン監督《旅情》(1955年),S.トレーシーと共演した《招かれざる客》(1967年),《冬のライオン》(1968年)で2年連続アカデミー賞を受賞し,ハリウッド最高の演技派女優と称された。ほかにH.フォンダと共演した《黄昏》(1981年)などがある。
→関連項目キューカー

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