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ブオナローティ

百科事典マイペディアの解説

ブオナローティ

イタリア生れのフランスの革命家。フランス革命勃発(ぼつぱつ)後,パリに移り,1796年バブーフとともに反政府陰謀を計画したとして流刑。ウィーン体制下で国際的な秘密結社を組織して革命運動を指導。
→関連項目ブランキ

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世界大百科事典 第2版の解説

ブオナローティ【Filippo Buonarroti】

1761‐1837
イタリア出身の国際的革命家。ミケランジェロの家系につながるピサの貴族の出で,青年期にフランスの啓蒙思想に親しむ。フランス革命の報に接してコルシカに渡り,《コルシカ愛国新聞》を発刊して革命思想の普及に努める。1793年フランスの市民権を得てパリに移り,94年革命政府委員として北イタリアのオネリアに派遣され,イタリアのジャコバン派と交渉をもつ。ロベスピエール失脚後の情勢の変化で一時逮捕され,釈放後の96年バブーフらと平等主義者の陰謀を計画する。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ブオナローティ
ぶおなろーてぃ
Filippo Buonarroti
(1761―1837)

イタリアの国際的革命家。ミケランジェロの系統をひくピサの貴族の出。ピサ大学で法律を学ぶかたわら啓蒙(けいもう)思想とりわけルソーに心酔した。1789年フランス革命が起こるとコルシカに渡り、同島の反封建闘争に参加するとともに愛国的新聞を発行して専制からの解放をイタリア諸都市に呼びかけた。1793年パリに到着し、ジャコバン・クラブに加入しフランス市民権を得た。1794年ロベスピエールの熱烈な信奉者として北イタリアのフランス軍占領地オネリアに派遣され、イタリアのジャコバン派を結集してジャコバン革命の拠点構築を試みた。1795年春テルミドール派の支配するパリに召還され、投獄された。獄中バブーフに出会い、釈放後パンテオン・クラブの議長として革命活動を再開し、やがてバブーフを首領とする蜂起(ほうき)委員会の一員になった。蜂起計画は事前に発覚、1796年5月バブーフとともに逮捕され、翌1797年流刑の判決を受けた。フランス各地を転々としたのち、1806年監視を解かれ、ジュネーブに滞在が許された。その後オーストリア官憲によってスイスを追われ、1824年ブリュッセルに移った。
 20年を超えるスイスとベルギーへの亡命中、音楽の家庭教師で生計をたてながら、平等革命を目ざす秘密結社を各地に組織することに専念した。彼が重視したイタリア革命も、フランスの主導する国際的革命のなかに位置づけられており、これが、1830年代にイタリアの自立性を主張するマッツィーニと対立する原因になった。ブリュッセル滞在中、『平等のためのバブーフの陰謀』を出版し(1828)、ジャコバン的視点からバブーフ主義の理論的解明を試み、後世にエリート主導の革命方式を伝えた。1830年のフランスの七月革命後パリに帰り、不屈の活動を続けながら76年の生涯を終えた。[重岡保郎]
『平岡昇著『平等に憑かれた人々』(岩波新書)』

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世界大百科事典内のブオナローティの言及

【マッツィーニ】より

…この結社は,教育(出版物による宣伝)と蜂起(ゲリラ方式の反乱)を重視した活動で急速に国内に浸透したが,33‐34年の弾圧で打撃を受け,彼も亡命地をスイスに移した。この間,イタリアの解放をめぐって,フランス革命を範としフランスを中心とした運動を考えるブオナローティと対立し,国民国家形成の運動にはイタリア固有の課題が含まれていることを強調した。またブオナローティの平等主義思想に対して,一種の協同社会論を唱え,国家統一運動に社会変革の課題をもちこむことに反対した。…

※「ブオナローティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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