バブーフ(読み)ばぶーふ(英語表記)François-Noël Babeuf

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バブーフ」の意味・わかりやすい解説

バブーフ
ばぶーふ
François-Noël Babeuf
(1760―1797)

フランスの思想家、革命家。古代ローマの改革者の名をとってグラックスバブーフGracchus Babeufと自ら名のった。北フランスのサン・カンタンの貧しい徴税吏の家に生まれた。父から教育を受けたのち、15歳ごろから領主の領地管理人の見習いとして働いた。領主の土地台帳を調べ領地を測量して、領主と農民の権利関係を確定する仕事に従事するなかで、土地制度が農民の苦難の原因であることを知ると同時に、ルソーなどの啓蒙(けいもう)思想家の著作を読み、社会改革の必要を痛感した。農地の再分配と租税制度の改革を訴える『永久土地台帳』の出版(1789)がその最初の表現である。

 フランス革命の勃発(ぼっぱつ)(1789)とともにパリに出て、平等の実現を訴えるパンフレットを出版して政治運動に加わった。1790年から1791年にかけて、故郷に近いロアで『ピカルディー通信』誌を発行して農民の反税闘争を指導した。1793年、再度パリに出てエベール派と結んだが、1794年の「テルミドールの反動」直後、『出版自由新聞』(のちに『護民官』と改題)を刊行して民衆運動の再建に努めた。1795年2月に逮捕されたが、獄中ブオナローティなどの革命家と知り合った。同年秋に出獄後、「1793年憲法」の復活、平等と自由の実現を求めて、ブオナローティらと共同して武装蜂起(ほうき)の準備を進めたが、内部の裏切りによって発覚し、逮捕された。六十数回の審理ののち、1797年5月26日に死刑が確定し、翌27日ギロチンで処刑された。

 彼の共産主義は、近代的労働者の解放思想ではなく、封建的租税制度と資本主義化の進行によって深刻な貧困隷属に突き落とされている貧農の共同体による解放の思想というべきである。しかし徹底した平等主義と、武装蜂起と過渡的な革命的独裁によって共産主義を実現するという主張は、ブオナローティによって広められ、その後もブランキマルクス、レーニンなどの革命思想のなかに生き続けた。

[阪上 孝]

『柴田三千雄著『バブーフの陰謀』(1968・岩波書店)』『平岡昇著『平等に憑かれた人々――バブーフとその仲間たち』(岩波新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バブーフ」の意味・わかりやすい解説

バブーフ
Babeuf, François-Noël; Gracchus Babeuf

[生]1760.11.23. サンカンタン
[没]1797.5.27. バンドーム
フランス革命期の革命家,共産主義者。父から教育を受けたのち,1785年からピカルディーの小村ロアで土地台帳監査官として働いた。 89年バスティーユ攻撃の報を聞いてパリにおもむき,富の独占の摘発や,国王の廃止と共和国の樹立を要求する文書を発表,この間数回逮捕された。テルミドールの反動以後『護民官』 Tribun du peupleを宣伝紙として「財産の平等」のためのたたかいを進め,93年「1791年憲法」への復帰を呼びかけた。 96年3月 S.マレシャル,A.ダルテ,P.ブオナロッティらとともに反乱の秘密組織を結成,5月蜂起のための最終的な連絡会議を開いたが,5月 10日全員逮捕された。これは史上「バブーフの陰謀」と呼ばれる。彼は獄中,ブオナロッティらとの交流で独自の共産主義思想に到達し,出獄後の蜂起は私有財産制廃止を目的にしたものであった。革命は少数の革命家による権力奪取と革命独裁によってのみ実現可能という主張は,のちの共産主義思想に大きな影響を与えた。

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