ロシアのピアニスト。モスクワ生まれ。ソビエト・ピアノ学校の設立者であり、リヒテルやギレリスなどの巨匠を育てたゲンリヒ・ネイガウスHeinrich Neuhaus(1888―1964)を祖父にもち、またポーランドの作曲家シマノフスキーの血筋を引いている。モスクワ音楽院在学中(1973~84)はエレーナ・リヒテルElena Richter(1938― )に師事。1983年、史上最年少17歳の若さで、パリのロン・ティボー国際コンクールで優勝。続いて85年に第11回ショパン・コンクールで優勝(以後第12、13回は優勝者はなく、2000年の第14回で15年ぶりに優勝したのは中国出身のユンディ・リYundi Li(李雲迪、1982― )であった)。その後コンツェルト賞とポロネーズ賞も獲得し、「ブーニン・ブーム」を巻き起こし、この後世界各地で本格的な演奏活動を始める。
87年「ミュンヘン・ピアノの夏」音楽祭で演奏、その成功により次々と録音を開始。88年にドイツに拠点を移し、ザルツブルク音楽祭、ルツェルン国際音楽祭など主要な音楽祭に出演。ミラノ、ロンドン、パリ、ウィーンなど世界各地でリサイタルも行う。また、ジュルジュ・プレートル指揮のフランス国立管弦楽団、デビッド・ジンマンDavid Zinman(1936― )指揮のボストン交響楽団、フランツ・ウェルザー・メストFranz Welser-Möst(1960― )指揮のロンドン・フィルハーモニー管弦楽団など、世界一流のオーケストラと共演している。
88年(昭和63)東芝EMIと専属契約を結び、『バッハ:イギリス組曲』(2000)、『ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番』(2002)など多くのCDをリリースしている。
日本ではNHK交響楽団とも数回共演しており、86年の初来日以来300回を越す演奏会を行っている。99年よりショパン没後150年を記念して、ショパンの協奏曲2曲を含むピアノ作品による「ショパンチクルス」(連続演奏会)をイタリア、ドイツ、イギリス、日本などで行い、注目を集めた。2001年ワルシャワ・フィルハーモニーとの共演で、この企画を締めくくる。99年に、ヨーロッパでの活動が評価され、イタリア、ビオッティ金賞を贈られる。2000年より「21世紀の子供たちに最高の音楽を」という理念のもとに、教育支援などの活動にも携わる。
[小沼純一]
ロシアの詩人、小説家。中部ロシアのボロネジで、かつて詩人アンナ・ブーニナ、ワシーリー・ジュコフスキーを生んだ地主貴族の家で10月22日に生まれ、少年期をブティルカの地主館で過ごす。11歳のときエレーツ中学校に入るが、数学が嫌いで4年で退学。しばらくの間大学出の兄について勉学、以後独学。1887年詩人ナドソンの追悼詩『ナドソンの墓前で』で詩人としてデビュー。『オリョール通信』記者時代にワルワーラ・パシチェンコと同棲(どうせい)するが、5年で別れる。トルストイに私淑し、一時トルストイ主義の普及活動に従う。95年チェーホフ、ゴーリキーと知り合い、シンボリズムの詩人たちとも交際する。98年アンナ・ツァクニと結婚するが、2年足らずで離婚。1903年詩集『落葉』でプーシキン賞受賞。同年オリエントに旅し、東洋思想に興味をもつ。09年、農奴解放後の農村を舞台にロシア人の魂を探求する長編『村』を発表、文名を高める。この年、二度目のプーシキン賞を受け、アカデミー名誉会員になる。15年、乾いた客観的筆致で、アメリカ人ブルジョアのぜいたくな旅行とそのむなしい死を描く『サンフランシスコから来た紳士』、翌年、軽い嘆息を美女の要件と考える魅力ある女の死を描く『軽い嘆息』を発表。作風は韻文、散文とも古典的格調をもち、簡潔で暗示的描写を得意とする。20年、革命の暴力と破壊を憎んでフランスに亡命。のちに正妻となるムロムツェワの献身的助力で南フランスのグラースで執筆を続け、恋の陶酔と死の結び付きを特色とする珠玉の作品を次々に発表し、『暗い並木道』(1937~49)1巻にまとめる。一方、自伝小説『アルセーニエフの生涯』(1927~35、決定版1952)を書き継ぐ。33年、ロシア人で最初のノーベル文学賞受賞。第二次世界大戦中は病気と困窮のうちに過ごし、戦後はソ連への帰国を勧められるが断り、53年11月8日パリで没した。
[佐藤清郎]
『草鹿外吉訳『サンフランシスコの紳士』(『世界短編名作選 ロシア編』所収・1976・新日本出版社)』▽『高山旭訳『アルセーニエフの青春』(1975・河出書房新社)』
ロシアの小説家,詩人。ボロネジの落ちぶれた古い貴族の家に生まれ,さまざまの職業を経験した。古典的なスタイルの叙景詩人として出発,詩集《落葉》(1901)やロングフェローの詩の訳でプーシキン賞を受賞,1909年科学アカデミー名誉会員に選ばれた。チェーホフ,ゴーリキーと知り合ってからその強い影響のもとに散文の道へ進んだ。はじめ〈ズナニエ(知識)〉派に近づき,批判的リアリズムの色彩の濃い中編小説《黒土》(1904),《村》(1910),《乾いた谷間》(1911)などで貴族世界の崩壊と農村の荒廃を徹頭徹尾悲観的な調子で描いたが,しだいに社会的な主題から遠ざかり,《人生の盃》《兄弟》(ともに1914),《サンフランシスコから来た紳士》(1915)など,死や人生の無意味さという主題を強調した短編を書いた。革命を嫌い,20年フランスへ亡命。その後も《ミーチャの恋》(1925),自伝的長編《アルセーニエフの生涯》(1930)などを書き,20世紀ロシアの最良の散文作家に数えられる。33年ノーベル賞を受賞。その後,ソ連邦・ロシア本国でも高く評価されるようになった。
執筆者:安藤 厚
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…詩の世界でリアリズムを代表するのはN.A.ネクラーソフであり,戯曲では,モスクワの商人社会を中心に1840年代から80年代までロシア社会をリアルに描いたA.N.オストロフスキー(《雷雨》1859,《森林》1871など)である。リアリズムの残光を飾る短編作家,劇作家チェーホフは,次代のモダニズムへの移り行きをすでに感じさせ,ゴーリキー,ブーニンらも後にリアリズムに復帰するが,一時期モダニズム的手法に従った。(5)モダニズム 1894年のブリューソフの詩集《ロシア象徴主義者》で口火を切られた象徴主義運動の時代は,ロシア詩の〈銀の時代〉を招来するが,これは文化領域全体にわたるロシア・ルネサンスの始まりであった。…
※「ブーニン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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