トルストイ(読み)とるすとい(英語表記)Лев Николаевич Толстой/Lev Nikolaevich Tolstoy

デジタル大辞泉 「トルストイ」の意味・読み・例文・類語

トルストイ

Lev Nikolaevich Tolstoy》[1828~1910]ロシアの小説家・思想家。人間の良心とキリスト教的愛を背景に、人道主義的文学を樹立。晩年、放浪の旅に出て、病死。小説「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」「復活」、戯曲「生ける屍」など。大トルストイ。杜翁とおう
中沢臨川によるの評伝。大正2年(1913)刊行。

トルストイ(Aleksey Konstantinovich Tolstoy)

[1817~1875]ロシアの詩人・小説家・劇作家。ロシア象徴派の祖と目され、叙情詩のほかに、多彩なジャンルで活躍した。歴史小説「白銀公爵」、史劇「皇帝フョードル=イワノビチ」「皇帝ボリス」など。

トルストイ(Aleksey Nikolaevich Tolstoy)

[1883~1945]ロシア・ソ連の小説家。革命後一時亡命。帰国後民族愛に満ちた作品を書いた。作「苦悩の中を行く」「ピョートル一世」など。

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精選版 日本国語大辞典 「トルストイ」の意味・読み・例文・類語

トルストイ

  1. [ 一 ] ( Aljeksjej Konstantinovič Tolstoj アレクセイ=コンスタンチノビチ━ ) 帝政ロシアの詩人、劇作家、小説家。アレクサンドル二世の侍従武官を勤め、純粋芸術主義的・ロマン主義的傾向をもつ譚史、英雄抒情詩、歴史小説を書いた。代表作は「白銀公爵」「皇帝フョードル=ヨアノビチ」。(一八一七‐七五
  2. [ 二 ] ( Aljeksjej Nikolajevič Tolstoj アレクセイ=ニコラエビチ━ ) ソ連の作家。貴族の血をひき、はじめシンボリズムの詩人・作家として登場。革命後パリに亡命したが、一九二三年ソ連に復帰し、革命のなかに生きぬいた知識人の思想的遍歴を主題とした長編三部作「苦悩の中を行く」を完成した。(一八八三‐一九四五
  3. [ 三 ] ( Ljev Nikolajevič Tolstoj レフ=ニコラエビチ━ ) 帝政ロシアの小説家。ドストエフスキーとともに一九世紀ロシア文学を代表する。ヤースナヤ‐ポリャーナの名門の伯爵家に生まれ、農奴たちに同情し、有閑社会の生活を否定。既成の政治・社会・宗教・教育などに反抗して、当時のロシアの国家・社会の矛盾をリアルに描出し、ロシア文学の写実主義的伝統を受け継ぐとともに、求道的な内面の世界を描き、次々と大作を生み出して後代の作家に大きな影響を与えた。代表作は「幼年時代」「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」「復活」「クロイツェル‐ソナタ」など。杜翁。(一八二八‐一九一〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ(Lev Nikolaevich Tolstoy)
とるすとい
Лев Николаевич Толстой/Lev Nikolaevich Tolstoy
(1828―1910)

ロシアの文学者。8月28日(新暦9月9日)由緒(ゆいしょ)ある伯爵家の四男としてトゥーラ市近郊ヤースナヤ・ポリャーナに誕生。2歳で母を失い、9歳で父と死別。5歳のころ、長兄ニコライの話から、万人が幸福になる秘密の記された「緑の杖(つえ)」の探索や「蟻(あり)の兄弟」ごっこに熱中。これらはロシア現代史の起点となるデカブリスト貴族の乱(1825)に淵源(えんげん)する独創的な遊びであった。その痕跡(こんせき)は処女作『幼年時代』の「遊び」の章に初出し、その由来は『戦争と平和』のエピローグで、叔父(おじ)ピエールの革命思想に感動するアンドレイ・ボルコーンスキイの遺児ニコーレンカの描写に認められよう。これらの意義は最晩年の『想い出』にも強調され、生涯トルストイの体制批判と求道精神の原点となった。その一環として彼は死後の埋葬をも「緑の杖」ゆかりの森に指定した。

[法橋和彦]

文学の方法と特質

16歳、東方問題が時代の焦点であったのを受けて外交官を志望、後見人のもとからカザン大学アラブ・トルコ学科へ進むが、ルソーを愛読、哲学的思索に没頭して落第、翌年法学部に移り、新進の民法学者メイエルの感化を受け、自発的にモンテスキューの『法の精神』と照合してエカチェリーナ2世の『訓令』批判を書き残して「哲学と実践を統一」するため1847年4月に退学、兄妹5人で遺産を協議分割、ヤースナヤ・ポリャーナで地主生活に入る。所有農奴(男性数330)の生活改善運動に取り組みつつ、体育から医学に至る体系的な自習プランを超人的に実践するも3か月で挫折(ざせつ)、ここに至る間の生活心理は自伝的性格の作品『少年時代』(1854)、『青年時代』(1857)に続く『地主の朝』(1856)によく分析されている。以後22歳までの3年間を「非常に荒廃した生活のうちに送る」が、51年長兄ニコライとカフカスへ向かい、翌年現地で砲兵下士官として現役編入。ビバーク生活のなかで「夢想と現実を融合」する創作方法を確立、『幼年時代』(1852)を「頭でなく心で書くこと」に成功。自らを実験台として獲得した「魂の弁証法」、「村民の心に移り住むことのできる能力」と「清新な道徳的感情」(チェルヌィシェフスキー)は以後トルストイ文学の不変の特性となった。『襲撃』(1853)、『森林伐採』(1855)および戦記小説の金字塔たる三部作『セバストーポリ物語』(1855~56)は、カフカスにおける実戦参加やクリミア方面軍に志願転属して1855年の露土戦争に従軍、最激戦の第四稜堡(りょうほ)を死守した体験から書かれ、階級的な戦場心理の分析、死の刹那(せつな)における生の回帰的継続性、民族問題とジェノサイド、子供の目や自然保護からの戦争批判、戦争の正義・不正義の問題等々が総合的に考察された。またロシア外地たるカフカスへの旅やその地での生活は、のちに不滅の青春小説『コサック』(1863)に結実し、山岳民族出身の悲劇的英雄ハジ・ムラートに関する見聞は晩年に手がけられた同名の遺作として光彩を放っている。

[法橋和彦]

再度のヨーロッパ旅行

1855年11月、ロシア農奴制廃止の政治的引き金となったクリミア戦争から帰還して、ツルゲーネフをはじめ多数の文学者から歓迎されたが、首都の文学サロンになじめず、翌年には30年間のシベリア徒刑からモスクワへ帰ってきたデカブリスト老夫婦を主人公とする小説を構想。これが『戦争と平和』への端緒となる。57年、最初のヨーロッパ旅行で公開ギロチンを見物、恐怖の衝撃からパリを退散、帰途ルツェルンでの体験をもとに民衆芸術に酷薄な西欧ブルジョアジーの文化性を告発する短編に着手。58年アレクサンドル2世による農奴解放案を聞き、その欺瞞(ぎまん)性に激怒、「農民は土地なしで解放されない」と主張、同時に自らをデカブリストの革命的伝統にたつ貴族と規定、「下からの革命」を警告する手紙(未発送)を書く。59年には贅沢(ぜいたく)な有閑マダムの末期(まつご)の苦しみと老馭者(ぎょしゃ)のわびしい病死に重ねて、彼の墓標のために切り倒される1本の樹木の死を描き、三者の美醜を論じた短編『三つの死』を、また都会の社交文化における新婚生活の危機と田園の勤労生活における夫婦の友愛の成立を描く『家庭の幸福』を発表、60年には最初の教育論文『児童教育に関する覚書きと資料』、短編『牧歌』『チーホンとマラーニヤ』を脱稿して、6月教育事情視察のために二度目の外国旅行へ妹とたつ。南仏に長兄を見舞うも、9月20日肺結核で死去(37歳)。この兄の死の悲しみは、2年後の宮廷医ベルス家の次女ソーフィヤ18歳への結婚申込みとともに、後の『アンナ・カレーニナ』のレービンのプロットに詳しく描かれている。

[法橋和彦]

幾百万農民の世界観へ

1861年2月の農奴解放令布告に強い不信を抱きつつ、農地調停員として農民の利益を擁護、地主たちの反感を買い1年後に辞任。ツルゲーネフの偽善性を批判して決闘を申し込むほど神経過敏となる。8月、教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』刊行(予約読者少なく1863年1月休刊)。62年9月23日、34歳を過ぎて結婚。翌年から88年(60歳)初孫誕生までの25年間に妻に9男4女(うち夭折(ようせつ)4男1女)を産ませる。63年ツルゲーネフの『父と子』におけるニヒリズム、チェルヌィシェフスキーの『なにをなすべきか』における女性解放思想を「嘲笑(ちょうしょう)する目的」で喜劇『毒された家庭』を書く。69年完結の『戦争と平和』のエピローグにも女性の社会的進出に対する論争的意図がうかがえる。

 1870年代初頭よりピョートル大帝時代の小説を構想するが、現代との脈絡をみいだせず擱筆(かくひつ)、『アンナ・カレーニナ』の主題形成と並行して『ロシア語読本』の制作に精励、『鱶(ふか)』『飛びこめ』『カフカスのとりこ』など多くの起死回生の物語が、難産した『アンナ・カレーニナ』における死と生の二つのプロットの展開に活力を与えたと推察される。70年代末よりツルゲーネフとの友情を回復、『教義神学の批判』や『四福音書(ふくいんしょ)の編集翻訳』に着手、民話に注目、『懺悔(ざんげ)』によって特権的な貴族的生活を脱し「額に汗して営々と働く幾百万農民」の世界観に転機を求めた。84年には『わが信仰はいずれにありや』を脱稿、禁煙を始め、チェルトコフとともに民衆図書普及社「ポスレードニク」を創立。85年『ロシア思想』誌1月号は、82年のモスクワ国勢調査参加を資料とする『さらば我ら何をなすべきか』の掲載で発禁。ヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』を読み、土地私有廃絶を決意、家産を憂慮する妻との不和つのる。87年には飲酒と肉食を断つ。80年代後半には創作民話『イワンのばか』をはじめ、実在した不幸な優駿(ゆうしゅん)の一代記『ホルストメール』、権威ある法官の刻々の死を裸にして描いた『イワン・イリイーチの死』、姦通(かんつう)問題を正面から取り上げた『クロイツェル・ソナタ』、資本主義的諸関係の浸透する農村の悲劇を描く戯曲『闇(やみ)の力』、さらには『人生論』を完成、『芸術とはなにか』に取り組むなど広範な領域での力作を生み出したが、91年これらの著作権を放棄する手紙を公表、妻との確執を決定的なものにした。その秋リャザン、サマラ諸県に凶作飢饉(ききん)が発生、現地で難民の救済のため不休の活動を続け、翌年4月には187か所、毎日9000人に給食、14万余ルーブルの資金カンパが寄せられた。11月下旬グロート教授の紹介で小西増太郎を知り、老子『道徳経』の共訳を始める。

[法橋和彦]

専制政治への批判

1890年代後半のトルストイは、専制政治は戦争を引き起こし、戦争は専制政治を支える、戦争と闘いたいと思う人々は、もっぱら専制政治と闘うべきであると主張した。『愛国主義か平和か』『キリスト教と愛国主義』『カルタゴは破壊されなければならぬ』『愛国主義と政府』といった反戦的社会時評が政府と教会に対して礫(つぶて)のように投げられた。99年には兵役拒否のドゥホボール教徒たちを海外へ移住させる資金を得るために最後の長編『復活』が完成した。政府は国際的な世論を恐れてトルストイの自由を奪えなかった。そのかわり宗務院が1901年1月に彼を破門した。以後トルストイは古いロシアの終焉(しゅうえん)を全身で感じながら、ニコライ2世やストルイピン首相にあて、暴力と死刑と私有の政治を痛烈に批判する手紙を出し続けた。10年10月28日未明、医師マコビツキーを伴い家出。31日夕刻、アスターポボで下車。11月7日午前6時5分永眠。彼の死は稲妻のようにロシアにおける革命的転換の始まりを告げたといわれる。

[法橋和彦]

日本への影響

二葉亭四迷と同学の森體による『戦争と平和』の一部戯訳(1886)に続いて、明治20年代初頭に始まるトルストイの移入と伝播(でんぱ)は近代日本の文学のみならず、社会運動や宗教活動にも深い影響の跡を残している。

 森鴎外(おうがい)は処女作『舞姫』を発表するための跳躍台として、社会的不公正に憤激する若きトルストイの短編『リュツェルン』をレクラム文庫からとくに選び、『瑞西(スイーツル)館に歌を聴く』と題して訳出(1889)した。田山花袋(かたい)は『コサック』を英訳から(1893)、ロシアでトルストイと老子の『道徳経』を共訳して帰朝した小西増太郎は尾崎紅葉(こうよう)と組んで『クロイツェル・ソナタ』を原文から訳出(1896)した。小泉八雲(こいずみやくも)は東京帝国大学文科大学でいち早くトルストイの『復活』や『芸術論』を積極的に論じ、後任の夏目漱石(そうせき)も同じくトルストイの美学的見解に強い関心を示した。漱石は『英文学形式論』や理論的大著『文学論』のなかで、トルストイが芸術に下した定義を「大体において要領を得て居る」と述べている。『帝国文学』に優れたトルストイ論を発表(1904)した斎藤野の人(さいとうののひと)をはじめとする多くの逸材たちのトルストイへの注目もこの伝統に根ざしている。

 トルストイ初期戦記小説の秀作『筒を枕(まくら)に』(原題『森林伐採』)の名訳(1904)を出した二葉亭四迷を得て、『復活』を新聞『日本』に218回にわたって訳載(1905)した内田魯庵(ろあん)は、この時代もっとも早くからトルストイの翻訳紹介に尽くした功労者である。魯庵訳『めをと』(原題『家庭の幸福』)を読んだ国木田独歩は自らの破婚の悲痛な体験と重ねて、そのこみ上げる感想を『婦人新報』に発表(1897)した。

 独歩の友人でのちに社会主義者となる大阪天満(てんま)教会の牧師、百島操(ももしまみさお)もトルストイの宗教的民話の翻訳普及に尽くしている。植村正久、桑原謙三、丸山通一らキリスト者によるトルストイの宗教論と並んで、北村透谷(とうこく)の好評論『トルストイ伯』(1892)や、『破戒』執筆にあたって英書から『アンナ・カレーニナ』の構成を研究した島崎藤村(とうそん)、それと並んで若き日の河上肇(かわかみはじめ)がトルストイにひかれて『人生の意義』を翻訳したり、ト翁(おう)の社会主義観を論じた諸エッセイを書いている(1905~06)ことも注目に値しよう。

 このころ、兄の蘇峰(そほう)(1896)に続いて徳冨蘆花(とくとみろか)がヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ね(1906)、数年後の大逆事件に臨んではトルストイの非暴力主義を体して、幸徳秋水(しゅうすい)らに対する強権的な処刑を批判する講演(『謀叛(むほん)論』)を第一高等学校で行い、秋水記念の庵(いおり)を建てて帰農した。蘆花が秋水を弁護した最大の理由は、1904年日露戦争勃発(ぼっぱつ)の危機に際して『ロンドン・タイムス』に発表されたトルストイの非戦論『考え直せ』を秋水が堺枯川(さかいこせん)と共訳で『平民新聞』に一挙掲載した英断と労苦への共鳴にあった。当時『平民新聞』の読者であった学習院生徒、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)はこれを読んで志賀直哉(なおや)と兵役義務の賛否について論じ合っている。こうしたトルストイの存在がその後、若い白樺(しらかば)派の同人たちの多様な創造的実践を促す一つの大きな要因となった。魯庵訳『イワンのばか』(1906)が社会主義入門の書とまで喧伝(けんでん)されたのもこの時代に属する。その影響は漱石の『吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である』の馬鹿竹の話にも認められよう。

 早くからトルストイに親炙(しんしゃ)していたユニテリアンの社会主義者、安部磯雄(あべいそお)は戦火を超えてトルストイと反戦の手紙を交わし合った。内村鑑三の無教会主義の実践と絶対反戦の信条もこの時代に直接トルストイから受け継がれたものである。

 その内村をモデルの一人として登場させた有島武郎(たけお)の『或(あ)る女』が、『アンナ・カレーニナ』の悲劇を踏まえて、新しい女性の封建的な諸規制からの解放と経済的自立の志向を戦後の社会構造に密着して鋭く問題視しえたこととあわせて、木下尚江(なおえ)が戦中『火の柱』や『良人(りょうじん)の自白』において「天国を地上に経営する」人類の責務と反戦の思想を説いて広く世人の注目を集めるに至る下地にも、トルストイの主張と芸術的感化力がいかに大きく働いていたかが如実に知れよう。こうした時代を背景に、石川啄木(たくぼく)は大逆事件を機に社会主義文献を収集するかたわら、かつて『平民新聞』に訳載されたトルストイの非戦論を重病の床で筆写したのであった。

 明治がトルストイの死と接して大逆事件で終わり、「冬の時代」を経て、いわゆる大正デモクラシー期に入ると、トルストイのほぼ完全な全集が春秋社から、また個人作家研究誌としては世界でも類をみない規模で『トルストイ研究』(1916.9~19.1)が刊行され、広津和郎(かずお)の『怒れるトルストイ』をはじめとする優れた評論を生んだ。

 演劇界では島村抱月の手で松井須磨子(すまこ)主演の『復活』が帝劇の舞台に上り、『生ける屍(しかばね)』が続いて上演され、トルストイの名は民衆の底辺にまで浸透した。土木作業の現場で林芙美子(ふみこ)もカチューシャにあこがれて詩を書き始めた1人であり、『貧しき人々の群』で脚光を浴びた中条(宮本)百合子(ゆりこ)もトルストイの人道主義の理想に大きく影響されて成長した。蘆花に師事した前田河広一郎(まえだこうひろいちろう)たちを含めて、彼らの文学的出発からトルストイの存在を差し引くことはできない。同じころトルストイの作品に共鳴して弁護士を志し、生涯を労働者救援活動に捧(ささ)げた人に布施辰治(ふせたつじ)がいる。

 1920年代後半を盛期とするプロレタリア文学運動のなかでは、レーニンやプレハーノフらによるトルストイ主義批判が文学理論の活用として重視されたが、運動に対する徹底的な弾圧のすえに1933年(昭和8)5月、中央大学での滝川幸辰(ゆきとき)の学術講演「『復活』にあらわれたるトルストイの刑罰思想」が国体の本義に敵対する発言として政・軍・官の指弾を浴び、これを口実に大学の自治と研究の自由は奪われるに至った。

 この時期にトルストイの家出の真相をめぐって正宗(まさむね)白鳥と小林秀雄の間で闘わされた、いわゆる「思想と実生活」論争には、中国への侵略が拡大していく重苦しい時局へのいらだちが、言葉なき言葉として幾重にも屈折して内攻せざるをえないかの観を呈している。本多秋五による戦中の労作『戦争と平和』論が戦後日本のトルストイ観や研究にとって貴重な架橋となった。

[法橋和彦]

『原久一郎訳『トルストイ全集』全47巻(1949~55・講談社)』『中村白葉・融訳『トルストイ全集』全19巻(1972~74・河出書房新社)』『木村彰一他訳『トルストイ選集』全10巻(1966~67・筑摩書房)』『ビリューコフ著、原久一郎訳『大トルストイ』全三巻(1968~69・勁草書房)』『本多秋五著『トルストイ論』(1960・河出書房新社)』『ゼーガース著、伊東勉訳『トルストイとドストエフスキー』(1966・未来社)』『ヤンコ・ラヴリン著、杉浦忠夫訳『トルストイ』(1972・理想社)』『ソ連邦科学アカデミー編、小椋公人訳『トルストイ研究』(1968・未来社)』『法橋和彦編『トルストイ研究』(1978・河出書房新社)』『『文芸読本 トルストイ』(1980・河出書房新社)』『米川哲夫著『トルストイ』(1980・国土社)』『川端香男里著『トルストイ』(1982・講談社)』『法橋和彦監修『レフ・トルストイと現代』(1985・ナウカ社)』


トルストイ(年譜)
とるすといねんぷ

1828 8月28日、伯爵家四男としてトゥーラ市近郊ヤースナヤ・ポリャーナに生まれる
1844 外交官を志し、カザン大学へ入学、落第
1847 転科した法科を退学、故郷で地主生活に入るも挫折。3年間を都市の享楽にふける
1852 カフカスで砲兵隊勤務中に『幼年時代』を『同時代人』に発表
1854 再志願ののちクリミア軍に転属。『少年時代』
1855 ペテルブルグに帰還。『セバストポリ物語』(~1856年)
1856 故郷へ戻る。『地主の朝』
1857 ヨーロッパ旅行。『青年時代』
1859 『三つの死』『家庭の幸福』
1860 教育活動に傾注。長兄死す
1861 農奴解放令布告。農地調停委員に選ばれ、翌年辞任
1862 18歳のソーフィヤ・アンドレーエブナと結婚
1863 『コサック』。『戦争と平和』、1869年完結
1873 『アンナ・カレーニナ』に着手、1877年完結。『ロシア語読本』
1875 肉親の死が続く
1876 宗教的問題を考えだす
1878 ツルゲーネフと和解
1881 アレクサンドル2世暗殺される。ドストエフスキー死去
1882 『懺悔』
1884 『わが信仰はいずれにありや』
1885 『さらば我ら何をなすべきか』、民話『イワンのばか』
1886 『イワン・イリイーチの死』、戯曲『闇の力』
1887 『人生論』
1890 『クロイツェル・ソナタ』
1891 秋以降、飢饉救済活動に没頭
1895 『主人と下男』
1897 『芸術とは何か』
1899 『復活』
1900 アカデミー会員に選ばれる。『生ける屍』
1901 ギリシア正教会から破門
1904 日露戦争勃発。『考え直せ』
1908 『黙す能わず』
1910 10月28日、医師マコビツキーを伴って家出、11月7日、肺炎で死去


トルストイ(Aleksey Nikolaevich Tolstoy)
とるすとい
Алексей Николаевич Толстой/Aleksey Nikolaevich Tolstoy
(1883―1945)

ロシアの作家、最高会議議員、アカデミー会員。1882年(旧暦12月28日、新暦では83年1月9日)サマラ県ニコラエフスク市で伯爵家に生まれる。『奇人たち』(1911)、『びっこの公爵』(1912)などで零落する地主貴族の生活を描く。革命後1923年まで亡命。『ニキータの少年時代』(1922)その他を国外で発表。ソ連に帰国後、『アエリータ』(1924)、『技師ガーリンの双曲線』(1926)で文名を確立。1919年パリで書き始め、41年に完成した三部作『苦悩の中を行く』は革命前、革命期、国内戦と三つの時期を生き抜いた知識人の運命を描き出した長編である。未完の歴史小説『ピョートル1世』(第一巻1929、第二巻1934、第三巻1944)は豊富な史実を踏まえた記念碑的な作品で、未完とはいえ、この作家の最高の傑作といってよい。

[原 卓也]

『原卓也訳『びっこの公爵』(『ロシア文学全集13』所収・1957・修道社)』『原子林二郎訳『ピョートル大帝』全2冊(1940・鱒書房)』


トルストイ(Aleksey Konstantinovich Tolstoy)
とるすとい
Алексей Константинович Толстой/Aleksey Konstantinovich Tolstoy
(1817―1875)

ロシアの詩人、小説家。レフ・トルストイの遠縁にあたる伯爵で、ペテルブルグ生まれ。外交官として高い地位に上った。才能豊かな多作家で、歴史小説『白銀公爵』(1863)、16世紀末から17世紀初頭にかけての動乱時代(スムータ)を扱った悲劇三部作『イワン雷帝の死』(1866)、『皇帝フョードル・イワノビチ』(1868)、『皇帝ボリース』(1870)が代表作である。詩人としてはコジマ・プルトコーフの名で従兄弟(いとこ)のジェムチュージュニコフ兄弟とともに機知にあふれる風刺詩を書く一方、歴史に取材したバラードや、自然や恋を主題とするロマンスには歌曲として愛唱されるものが多い。

[島田 陽]

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改訂新版 世界大百科事典 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi
生没年:1828-1910

ロシアの小説家。伯爵家の四男として,母方ボルコンスキー公爵家の領地だったヤースナヤ・ポリャーナに生まれた。トルストイ家は14世紀にロシアに来たドイツ人インドリスを祖とし,その子孫にはロシア史に残る人物も多い。母方も名門の家柄で,ロシア建国の祖リューリクとつながりがある。幼くして父母を失い,叔母たちの後見のもとで育てられたが,外国人家庭教師による教育,貴族の社交に必要な趣味・教養を十分に与えられ,富裕な地主貴族として安穏な生活を送れる境遇にあった。しかし生得の二元性,すなわち〈生きる喜び〉〈肉の衝動〉を肯定する感受性豊かな楽天的性格と激しい理性的・破壊的な自己反省のピューリタン的傾向が不安と動揺にみちた一生を彼にもたらした。またトルストイは,自ら語っているように〈自分自身に逆らってまでも,常々時流に乗じた勢力に抵抗する〉という性格をもっていた。〈一般的傾向〉を自分の自立性をおびやかすものと考え,それに抵抗することを自分の行動様式とした。

 カザン大学を中退し,農地経営に没頭するが,不首尾に終わると一転して,原始的でルソー的理想を実現しているかに見えるコサックのもとで軍人生活を送り,クリミア戦争(1853-56)に従軍,その戦争記録《セバストポリ物語》(1855-56)で国家的栄誉を得る。2度西ヨーロッパに旅行するが,文明の〈悪〉を実感,ついでルソー風の,〈自然〉に基づいた農民教育の仕事に力を注ぐ。1862年のソフィア・ベルスとの結婚は充実した創作活動の日々をもたらすが,その一方で内心の虚無感,生の無意味さという観念が彼の心を支配するようになる。〈生きる喜び〉をおびやかす死の恐怖がトルストイを根底からゆるがした。1879年に書き始められ,〈生きる喜び〉を欺瞞(ぎまん)として断罪した《懺悔(ざんげ)》(1882年ジュネーブで刊行)は,トルストイのいわゆる〈回心〉の劇的な表現であるが,これ以後,道徳家的な面が強く現れることになる。〈山上の垂訓〉に基づき,文明の悪に抗して,オプロシチェーニエoproshchenie(簡素な農民的生活を送ること)を理想とした合理的でピューリタン的でアナーキズム的性格の濃いキリスト教--いわゆるトルストイ主義--の教義が生まれた。彼の教義の中でも〈悪への無抵抗〉という考え方はロシア独特のものであるが,その弟子筋のガンジーによって結実したといえる。

 真実の探求者,伝道者として,世界はトルストイの主張に耳を傾けたが,家庭内で自らの主義を実践しようとして妻と衝突し,自分の教説どおりに晩年を過ごそうと家出をしたが,その行半ばにして,中央ロシアの寒村の駅アスターポボ(現在はトルストイと改称)で肺炎のため死亡。

 トルストイの処女作は進歩派の《現代人》誌に1852年に発表された《幼年時代》である。自伝三部作の第1部をなすこの作品は,そのみずみずしい感受性と心理的リアリズムで世人の注目をひいたが,続いていくつかの短編,中編を発表して文壇での地位を不動のものとした。その中でも《コサック》(1853-63)は,文明に対する自然の優位というトルストイの持説が物語の中に織りこまれているという点で,作品の中に思想家がはっきりと姿を現している最初の注目すべき作品である。芸術的創作期の頂点の2作品,《戦争と平和》(1865-69),《アンナ・カレーニナ》(1875-77)についても同様のことがいえる。前者では対ナポレオン戦争の歴史絵巻を背景として,トルストイ自身の精神的模索が2人の主人公アンドレイとピエールに投影されている。後者はロシア貴族の生活を描いた社会小説であるが,副主人公のレービンはまさにトルストイの分身であり,人生の意味を求めて苦悩するが素朴な農民の知恵によって救われることになる。

 《懺悔》によって示された〈回心〉以降のトルストイは,神学に関する論文や政治的・道徳的パンフレットに多大の精力を注ぎ,時代の焦眉の急の問題と深くかかわり,さまざまな時事的発言を行った。なかでも日露戦争批判は世界的反響を呼び,日本の社会主義者たちにも多大の感銘を与えた。しかしこの間もトルストイの創作力は衰えたわけではなく,死の実像にせまる傑作《イワン・イリイチの死》(1886),自然主義的な農民劇《闇の力》(1886),カフカスを背景にした力強い物語《ハジ・ムラート》(1896-1904)などが書かれた。訴えるべきテーマをもって書かれた,傾向性の強い《クロイツェル・ソナタ》(1890),《復活》(1899)のような作品でありつつ読者を感動させるのは,その芸術家的な創造力である。

トルストイが思想家,予言者として世界の注目を集めていた時期は,1880年代から1910年(トルストイの死んだ年)にわたるが,これは日本の明治10年代から明治43年にあたる。1886年(明治19)《戦争と平和》の第1編の抄訳が《泣花怨柳 北欧余塵》(森体訳)の題名で出版されたのを皮切りに,作品の紹介,翻訳,批評が続々と現れ,徳冨蘆花や小西増太郎のようにヤースナヤ・ポリャーナを訪れる日本人も多くを数え,トルストイの一言一句,一挙手一投足が日本で話題の種となった。トルストイは日本人にとっては明治時代の〈日本の〉作家であるといってよい。トルストイ主義の忠実な信奉者であった武者小路実篤が語っているように,トルストイは単なる作家ではなく,思想家であり,人類の教師,人類の良心として尊敬され,その説く教義や主張は熱狂的に日本の読者によって受け入れられた。明治期にはキリスト教思想,社会主義思想の代表者,大正期には人道主義の予言者とみなされた。やがて文学や宗教思想の面ではドストエフスキー,思想・社会運動の面ではマルクス主義という強力なライバルが現れる。また高弟チェルトコーフVladimir G.Chertkov(1854-1936)によるトルストイの家庭悲劇の暴露(《晩年のトルストイ》,寿岳文章訳1926),1935年(昭和10)から37年にかけてのトルストイ日記の刊行によってトルストイの実像が赤裸々にさらされるに至る。日記の公表は,正宗白鳥と小林秀雄の〈思想と実生活〉論争を呼んだが,このころから従来のトルストイ崇拝のうわついた雰囲気が冷まされてくる。しかし社会主義全体への弾圧が強化されていく中で,拡散した無名のトルストイ主義者たちが,反戦思想を中心とするトルストイ的思想を第2次大戦中も守り続けたということにもみられるとおり,ヒューマニズムに徹し,理性,人道,調和の道を求めたトルストイの意義はいささかも小さくなっていない。
執筆者:


トルストイ
Aleksei Nikolaevich Tolstoi
生没年:1883-1945

ソ連邦の作家。詩集《空色の河のかなたに》(1908)で出発。十月革命前に《牧童》《女優》(ともに1910)など50余の短編のほか,長編《奇人たち》(1911),ドストエフスキーの影響の強い長編《びっこの公爵》(1912)などを発表して文名を確立した。革命後パリに亡命,短編《ピョートル大帝の1日》(1918),自伝的な中編《ニキータの幼年時代》(1922),SF仕立ての奇抜な小説《アエリータ》(1923)などを書く。1923年ソ連に戻って,推理小説の手法を用いた長編《技師ガーリンの双曲線》(1926),革命後の混乱した社会の中で生きる道を誤った女の悲劇を描く短編《毒蛇》(1928)などで作家としての力量を示した。

 代表作となったのは十数年かけて完成した大長編《苦悩の中を行くKhozhdenie po mukam》(1922-41)である。〈姉と妹〉(1922),〈1918年〉(1927-28),〈陰鬱な朝〉(1940-41)からなるこの作品は,革命を生きぬいた知識人の思想遍歴を聖母の苦難遍歴になぞらえて書いたもので,知識階級の三つの時期を描く。最初が20世紀初頭のデカダン派,シンボリスト,唯美派などの生活で,次が革命期,最後が国内戦とその結果である。彼はこの長編で第1次世界大戦,革命,国内戦,ウクライナのアナーキスト,マフノの反乱などの歴史の嵐の中にまきこまれた美しい姉妹とその恋人とが,生命や思想の危機をのりこえてついに再会するまでの苦難の歴史を描いた。メロドラマ的な要素も多いが,この時期の知識人の精神史を知るには最適の作品である。膨大な歴史小説《ピョートル1世Pyotr I》(第1巻1929,第2巻1934,第3巻1944,第4巻未完)で彼は新しい高みを示した。

 ロシアを西欧化しようとしたピョートルは,同時にロシアのスキタイ精神をも愛した。トルストイは皇帝のこの両側面を描きわけ,〈聖なる祖国〉の歴史を新しい角度から示してみせた。彼の作品には常にある種の通俗性がつきまとうが,ソ連における第一級の物語作家であることに間違いはない。
執筆者:


トルストイ
Aleksei Konstantinovich Tolstoi
生没年:1817-75

ロシアの小説家,詩人,劇作家。アレクサンドル2世の皇太子時代の学友で,ロシア宮廷でも高い位置にあったが,早くから文筆に手を染め,1840年代には幻想小説《吸血鬼》を書き,今日青少年の愛読書となっている歴史小説《白銀公爵》(1861)を書き始めた。50年代にはコジマ・プルトコフの名で,従兄弟のジェムチュジニコフ兄弟と共同して,今日でも評価の高い一連の風刺詩,パロディ,ノンセンス詩を共作した。多才な作家であったが,自然や愛を主題とする抒情詩人として最もよく知られている。シェリングやドイツ・ロマン派の影響を受け,政治的には自由主義の立場を貫いた。60年代,官を辞してからは,おもに外国とウクライナの自分の領地で暮らし,韻文劇三部作《イワン雷帝の死》(1866),《皇帝フョードル・ヨアノビチ》(1868),《皇帝ボリス》(1870)を書いた。この三部作は歴史劇の古典として今日もしばしば上演される。
執筆者:


トルストイ
Dmitrii Andreevich Tolstoi
生没年:1823-89

ロシアの政治家,伯爵。反動的政治で知られる。1850年代まではロシア皇帝ニコライ1世の子コンスタンティン大公を取り巻く自由主義的官僚グループに加わっていたが,60年代初めから〈強力な権力〉をめざすようになる。65-80年には宗務院長。66年より文相を兼任した。71年学制改革を行い,貴族層のための古典ギムナジウムを復活する。82-89年内相兼憲兵長官として一連の反動的政策を遂行した。とくに82年の検閲制度の強化,89年の地方主事制施行による中央権力の地方行政に対する支配力強化は有名である。82年科学アカデミー総裁に就任。《ロシアにおけるローマ・カトリシズム》(1876)などの著作もある。
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百科事典マイペディア 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ

ロシアの作家。ドストエフスキーとともに19世紀ロシア文学を代表,トルストイ主義の名で知られる独自の思想家としても大きな影響を残した。伯爵家の四男としてツーラ近くのヤスナヤ・ポリャーナの広大な荘園に生まれ,カザン大学を中退後,軍務について,カフカスで処女作《幼年時代》(1852年)を書きあげ,文壇に認められた。以後《少年時代》(1854年),《青年時代》(1856年),《コサック》(1862年)などを発表,1862年に宮廷医の娘で18歳のソフィヤと結婚し,文筆活動に専念した。《戦争と平和》《アンナ・カレーニナ》などの大作はこの時期に生まれた。やがて宗教的思想に自身の内面の矛盾からの救いを求めるようになり,《懺悔》(1882年),《わが信仰》(1884年)その他の宗教論文,《イワンの馬鹿》などの民話で,悪に対する無抵抗の思想を説いた。1898年に発表した《芸術とは何か》では,自作品を含め,世界の大文学を全面的に否定するに至る。しかし,宗教的転機以後にも,《クロイツェル・ソナタ》(1890年),《イワン・イリイチの死》(1886年),戯曲《闇の力》(1886年)などの作品があり,1899年には三つめの長編《復活》を完成した。晩年はソフィア夫人との家庭的葛藤(かっとう)に苦しみ,1910年10月に家出して,アスターポボという小さな駅で没した。日本の近代文学には,特に白樺派を通じて多大な影響を与えた。
→関連項目江渡狄嶺ガルボルククラムスコイクロイツェル・ソナタ芸術至上主義菜食主義写実主義人文主義セバストポリ徳冨蘆花馬場孤蝶レオンチエフレーピン

トルストイ

ロシア,ソ連の作家。貴族の出身。象徴主義詩人として出発,《びっこの公爵》(1912年)などの小説で文名をあげた。革命後亡命,ベルリンで自伝的な《ニキータの幼年時代》(1922年),SF的な《アエリータ》(1923年)を書き,1923年に帰国後は歴史小説《ピョートル1世》(1929年―1945年)と,革命期の知識人の運命を描いた三部作長編《苦悩の中を行く》(1920年―1941年)でソビエト作家の地位を確立した。ほかに推理小説ふうの《ガーリン技師の双曲線》(1926年)など。

トルストイ

ロシアの詩人,劇作家。貴族の出身で,いとこのジェムチュジニコフと〈コジマ・プルトコフ〉の偽名で戯文を発表。小説に《白銀公爵》(1863年),戯曲に《皇帝フョードル・ヨアノビチ》(1868年)など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ
Tolstoi, Lev Nikolaevich

[生]1828.9.9. トゥーラ,ヤースナヤポリャーナ
[没]1910.11.20. アスターポボ
ロシアの小説家。伯爵家に生れ,幼くして両親を失った。 1847年カザン大学中退。故郷に帰り,農民の生活改革を試みたが失敗。 51年カフカスで軍務についていた兄のもとに行き,美しい自然のなかで文学に開眼し,自伝3部作の『幼年時代』 Detstvo (1852) ,『少年時代』 Otrochestvo (54) ,『青年時代』 Yunost' (57) で新進作家としての地位を確立した。 57年最初のヨーロッパ旅行に出,ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。 62年結婚,文筆活動に専念し,二大名作『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を完成した。宗教論文『懺悔』や,『イワンのばか』をはじめとする民話を書き,のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い,私有財産の否定,非戦論,非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死』『クロイツェル・ソナタ』『復活』,戯曲『闇の力』などの文学作品を書いたが,最後まで安らぎは得られず,1910年家出,リャザン=ウラル鉄道の小駅,アスターポボ (現在のレフ・トルストイ駅) の駅長官舎で没した。

トルストイ
Tolstoi, Aleksei Nikolaevich

[生]1883.1.10. ニコラエフスク
[没]1945.2.23. モスクワ
ソ連の小説家。伯爵家に生れ,初め象徴主義的な詩を書いていたが,次第に 19世紀の写実主義の伝統に立戻り,『びっこの旦那』 Khromoi barin (1912) などの長編により小説家としての地位を確立。 1917年の二月革命を歓喜して迎えるが,十月革命に対しては批判的で,19年春,家族とともにパリに亡命,長編3部作『苦悩のなかを行く』の執筆を開始。しかし西欧資本主義の退廃に接し,祖国の土への郷愁にとりつかれて,23年に帰国。新生ソ連の生活を題材とした短編を書きはじめるが,ここでもネップ時代の卑俗な現実への幻滅を描いたため反革命作家と批判され,一時作品の発表を中断。その後歴史的テーマに関心を寄せ,未完の大著『ピョートル1世』 Pëtr I (29~45) ,戯曲『イワン雷帝』 Ivan groznyi (42~43) を書いた。

トルストイ
Tolstoi, Dmitrii Andreevich

[生]1823.3.13. モスクワ
[没]1889.5.7. ペテルブルグ
ロシアの政治家。伯爵。 1865~80年宗務院長としてロシア正教会を監督するとともに,非国教徒たる分離派に対してきびしい政策をとった。 66年より文相に就任し,大学の自治を制限したり,古典ギムナジウムを創設して,教育における反動政策を推進。 82~89年内相兼憲兵長官として,皇帝アレクサンドル2世暗殺後の反動政策に中心的役割を果し,貴族階級の特権擁護のために,ゼムストボ制度の手直しや革命運動の弾圧などを実施した。著書『ロシアにおけるローマ・カトリシズム』 Le catholicisme romain en Russie (2巻,1863~64) がある。

トルストイ
Tolstoi, Aleksei Konstantinovich

[生]1817.9.5. ペテルブルグ
[没]1875.10.10. クラスヌイログ
ロシアの小説家,劇作家,詩人。伯爵家の生れで,L.トルストイの遠い親戚にあたる。思想的には保守的ながらも,『ロシア国史』 Istoriya gosudarstva Rossiiskogo (1868) ,『ポポフの夢』 Son Popova (73) など腐敗した官僚制を風刺した詩や,歴史悲劇の3部作『イワン雷帝の死』 Smert' Ioanna Groznogo (66) ,『皇帝フョードル・ヨアーノビチ』 Tsar' Fëdor Ioannovich (68) ,『皇帝ボリース』 Tsar' Boris (70) などを残した。

トルストイ
Tolstoi(Tolstaya), Sonya(Sofia) Andreevna

[生]1844
[没]1919
ロシアの文豪 L. V.トルストイの妻。モスクワの医者ベルスの娘として生れ,1862年結婚。最初の 15年間は夫の手助けをし,13人もの子供をもうけて仲むつまじかったが,夫が文学から離れて宗教や社会活動に専念するようになると不和になり,たびたび別居した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「トルストイ」の解説

トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi

1828~1910

ロシアの作家。古い貴族の家柄に生まれた。軍隊に入って,カフカース戦争セヴァストーポリ籠城戦に参加し,その経験を作品とした。1856年軍籍を退いたあと,自分の領地において地主として暮らし,農業経営の改善や農民の教育に努めた。80年代から社会的発言を開始した。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの小説のほか,『イヴァンのばか』などの民話,さらに『懺悔』『さらばわれら何をなすべきか』などの宗教的作品をも執筆し,非暴力とキリスト教的隣人愛を骨子とする独自の社会哲学,平和主義を説いた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「トルストイ」の解説

トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi

1828〜1910
19世紀ロシア文学を代表する小説家
富裕な貴族の生まれ。カザン大学を中退して故郷に帰り,農民の生活改善に努力。1853年クリミア戦争に従軍し,その体験を『セヴァストーポリ物語』に書いて認められ,退官後は農奴解放や文学活動にはげんだ。専制国家の圧迫と社会悪に抗議し,社会悪の根源としての私有財産の否定に到達したが,その克服は暴力によってではなく,人間の道徳的再生によると考え,キリスト教的人間愛と悪への無抵抗を説いた。晩年は自己の現実生活と信念の矛盾に苦しみ家出したが,一寒村で病死。主著『戦争と平和』『アンナ=カレーニナ』『告白』『復活』など。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のトルストイの言及

【アンナ・カレーニナ】より

…ロシアの小説家レフ・トルストイの長編小説。1875‐77年刊。…

【児童文学】より


[旧ソ連邦]
 かつてロシアでは,A.S.プーシキンが民話に取材して《金のニワトリ》(1834)などを書き,エルショフP.P.Ershovが《せむしの小馬》(1834)を作り,I.A.クルイロフはイソップ風の寓話を,V.M.ガルシンは童話的な寓話を書いたが,いずれも権力に刃向かう声であった。F.K.ソログープは暗い影の多い不思議な小説を作り,L.N.トルストイはおおらかな民話と小品を発表した。革命後の新しい児童文学の父はM.ゴーリキーであったが,彼はとくに子どものものを書かずに,V.V.マヤコーフスキーやS.Ya.マルシャークやK.I.チュコフスキーにその実りをゆずった。…

【ドゥホボル派】より

…そしてロシア中央部からカフカスに強制的に移住させられ,1898年には約7500人がカナダに移住した。なお,かねてドゥホボル派の思想に共鳴していた文豪トルストイが,カナダ移住の費用を援助するため,ひとたび折った筆を再びとり,長編《復活》を書いたことはよく知られている。一部はキプロスに移った。…

【何をなすべきか】より

…この小説はロシアの幾世代もの青年たちを育てることになった。 1882年,トルストイは国勢調査の調査員としてモスクワの貧民街を訪れ,そこでの観察から始まる自分の思想の一大転換を《さらばわれら何をなすべきかTak chto zhe nam delat’》に書いた。これは86年に脱稿される。…

【非戦論】より

…そして,04年8月第二インターナショナル第6回大会に出席した片山潜とロシア代表プレハーノフは反戦を誓いあって握手を交わした。 また,トルストイが《ロンドン・タイムズ》(1904年6月27日)に寄稿した非戦論,《爾曹悔改めよ》は《平民新聞》(1904年8月7日)に〈トルストイ翁の日露戦争論〉として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。《平民新聞》は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は〈人々真個の宗教を喪失せるが為〉ではなく,〈列国経済的競争の激甚なるに在り〉とした。…

【復活】より

…ロシアの作家L.N.トルストイの長編小説。友人の法律家A.F.コーニから聞いた実話に基づき,1889年《コーニの話Konevskaya povest’》という表題で書き始められた。…

【平和】より

…彼はメキシコとの戦争や奴隷制に反対し,納税を拒否したため投獄されたこともある。ロシアではL.N.トルストイがクリミア戦争以来反戦平和を唱え,日本を含む世界中に影響を与えた。インド独立運動の指導者であったM.K.ガンディーもソローとトルストイの反戦思想を賞賛した。…

【ヤースナヤ・ポリャーナ】より

…ロシア連邦,モスクワの南方約190kmにある,L.N.トルストイの生地。ロシア語で〈明るい森の中の草地〉の意であるが,ヤースナヤは,トネリコの木を意味するヤーセンナヤyasennayaのなまりで,広葉樹を主体とする土地柄をよく現している。…

【唯美主義】より

…ルネサンスの建築家アルベルティは《建築論》の中で,美は部分と部分の調和ある有機的な相互関係である,と規定した。19世紀ロシアの作家L.N.トルストイは,唯美主義を否定しR.ワーグナーやR.シュトラウスを批判した《芸術とは何か》(1898)において,〈ルネサンス時代のカトリック教会の腐敗で信仰が失われた〉とルネサンスを否定したが,これは反唯美主義が本質的には西欧近代の否定に通じることを示している。これをうけて,フランスの悪魔主義の作家ペラダンは《トルストイに応える》を書き,〈美が生み出すのは感情を観念に転化する独自の歓び,つまり抽象的な動きである〉と反論した。…

※「トルストイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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