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マチス Matisse, Henri-Émile-Benoît

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マチス
Matisse, Henri-Émile-Benoît

[生]1869.12.31. ルカトー
[没]1954.11.3. ニース
フランスの画家。パリで最初法律を学んだが,画家を志し 1892年エコール・デ・ボザールで G.モローに師事。その後セザンヌ,スーラなどの影響を受け,さらに A.マルケ,ドラン,ルオー,ブラマンクらの画家と交わり,1905年サロン・ドートンヌにそれら友人とともに激しい原色を用いた作品を発表,フォービスムの指導者的存在となる。以来,絵画の平面性と色彩の強調を一体化することを課題とし,晩年は切り絵による大作でも知られた。 16年ニースに滞在,以後は冬をニースで過し,ムーア風の『オダリスク』連作を発表。 30年春にはタヒチ島を訪れ,33年アメリカでメリオン・バーンズ邸のために壁画『ダンス』を制作。 43年に南フランスのバンスに引退し,48~51年バンス礼拝堂の壁画,ステンドグラス,家具などのデザインに没頭した。また版画家,彫刻家としても知られた。ニースにはマチス美術館がある。主要作品は『赤のハーモニー』 (1908~09,エルミタージュ美術館) ,『大きな赤い室内』 (48,パリ国立近代美術館) など。

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デジタル大辞泉の解説

マチス(Henri Matisse)

[1869~1954]フランスの画家。フォービスムの代表的画家として活躍。のち、色彩・フォルム・描線単純化・装飾化によって独自の絵画空間を構築し、現代美術に多大の影響を与えた。マティス

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大辞林 第三版の解説

マチス【Henri Matisse】

1869~1954) フランスの画家。フォービスム運動をドラン・ブラマンクらと興す。のち、平面的な構成や純粋色の洗練された色彩世界を創造し、二〇世紀絵画を代表する独自の芸術を築き上げた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マチス
まちす
Henri Matisse
(1869―1954)

フランスの画家。12月31日、北フランスのノール県ル・カトー・カンブレジの母の実家に生まれる。1887年パリに出て法律を学び、翌年、法科資格試験に合格する。しばらくサン・カンタンの法律事務所の書記として働くが、91年、画家を志してふたたびパリに出、アカデミー・ジュリアンに在籍する。翌年G・モローの計らいでエコール・デ・ボザールのモローのアトリエに入る許可を得る。ここにはすでにルオーが学んでおり、さらに未来のフォーブの画家たち、マルケマンギャンやカモワンもこのアトリエに通うようになる。
 1896年、マチスは設立されてまもないソシエテ・ナシオナルのサロンに4点出品、うち1点は国家買上げになるなどかなりの成功を収め、そのままアカデミックな画家としての道を歩むかにみえた。しかしほどなく印象主義的手法を取り入れるようになり、近代絵画の主流に合流し始める。98年には、印象派の画家ピサロの勧めもあり、ロンドンでターナーを研究、ついでコルシカとトゥールーズに半年ずつ滞在して、地中海と南フランスの明るい光の下で制作した。さらに99年に発表されたシニャックのマニフェスト「ウージェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで」がマチスに大きな示唆を与えた。こうして98年から99年にかけて彼は印象主義を消化し、後期印象派に由来するさらにいっそう強烈な色彩の実験に乗り出す準備が整っていた。その結果、1900年前後のマチスの作品は、新印象主義的な筆触や色彩の大胆な対比など、一種のフォービスム的様相を呈している。しかし、それも01年ごろにはいったん終息に向かい、ほどなくいわゆる「暗い時代」が始まる。この時期、彼は色彩の問題から離れてフォルムに関心を向け、肉づけや構成に意を配るようになる。
 マチスがふたたび色彩への道を歩むようになるのは、1904年の夏を南フランスのサン・トロペでシニャックやクロスとともに過ごしてからのことであった。翌年のアンデパンダン展出品作『豪奢(ごうしゃ)・静寂・逸楽』は、モザイク状の鮮やかな色彩の単位で構成されており、以前よりもはるかに明快な新印象主義的スタイルを示している。同年夏、彼は南フランスのコリウールに滞在し、新印象主義の規則的な点描を超え、強烈な色彩を並置するフォーブのスタイルへと突き進む。同05年のサロン・ドートンヌはフォービスム誕生の場となるが、彼はこのとき『開かれた窓』『帽子の女』を出品。赤と緑、オレンジと青を基軸にして多彩な展開をみせる彼の彩色法は、緊張した画面からさながら強烈な光を反射するような効果を生み出す。
 しかし1907年ごろから、マチスは秩序と均衡のある晴朗な芸術を求めて新たな方向をとり始め、平坦(へいたん)な装飾的スタイルのさまざまな試みを重ねることになる。こうして生まれた『赤のハーモニー』(1908~09)は、フォーブのスタイルに最終的な別れを告げるものである。とはいえ、以前の成果が完全に捨て去られたわけでなく、ロシアの貿易商シチューキンの依頼による装飾画の記念碑的大作『ダンス』『音楽』(ともに1910)は、フォーブの遺産である激しく豊かな色彩で輝いている。10年代に入ると、幾何学的構成による抽象的・構築的傾向も現れるようになり、そこにはキュビスムの影響とともに、第一次世界大戦による厳しい内省的感情の反映が認められよう。
 1917年から30年ごろにかけては、通常「ニース時代」とよばれる。それまでの重苦しさから解き放たれたマチスは、この時期おもに南フランスのニースを制作の場として、優美で官能的なオダリスクをはじめ、いかにもくつろいだ作品を制作。画風は自然主義的なものに戻り、画面も小ぶりになるが、そこには「銀色の光」を創出してそのなかにデッサンと色彩を融合しようとする意図が認められる。やがて「ニース時代」の手法からの離脱が図られ、光と空間のより抽象的・非物質的感覚が求められるようになり、さらに単純化と純粋化が追究される。同時にデッサンと色彩が分離し、両者の葛藤(かっとう)が生まれることにもなるが、それも「色彩でデッサンする」切紙絵によって解消される。晩年のマチスの関心はおもにこの切紙絵に注がれ、有機的かつ抽象的な形態が切り抜かれて、ついには純粋な観念としてのみ存在するイメージにまで到達する。1948年に始まり51年に完成したバンスのロゼール礼拝堂の内部装飾は、聖なる至福の空間を生み出しており、マチス芸術の集大成とも考えられる。54年11月3日、ニースで没。[大森達次]
『J・ヤコブス解説、島田紀夫訳『マティス』(1975・美術出版社) ▽東野芳明編『現代世界の美術10 マティス』(1986・集英社) ▽大岡信解説『現代世界美術全集11 ボナール/マティス』(1972・集英社) ▽D・フルカド編、二見史郎訳『マティス 画家のノート』(1978・みすず書房)』

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