フランスの画家。写実主義を標榜したG.クールベや初期印象派のE.マネらと同世代であったが,姦しい画壇の動向には背をむけて,神話と伝説の世界を一人描き続けた。パリ生れ。父は建築家で,当時の典型的知的ブルジョアジーの家庭に育つ。一人息子(妹が一人いたが早世)に嘱望する両親は,早くから絵画への関心を示す彼に経済的精神的援助を惜しまなかった。20歳でエコール・デ・ボザール(国立美術学校)へ入学し,ピコFrançois Picotのアトリエに学ぶが,師の型にはまった新古典主義に基づく教育より,E.ドラクロアの情熱をうけ継ぐ若手画家T.シャセリオーに心酔,私淑する。1857年から4年間イタリアへ遊学。A.マンテーニャ,レオナルド・ダ・ビンチ,ミケランジェロらルネサンス絵画やポンペイの壁画などを模写研究する。64年《オイディプスとスフィンクス》をサロン(官展)に出品,画面構成の特異さで注目された。普仏戦争などのため,70年以後6年間はサロンに参加していないが,76年それまでに蓄えた内なる幻想を一気に吐露するかのように,《サロメ》《出現》《ヘラクレスとレルネのヒュドラ》を発表し,独自の神話・伝説解釈と幻想美で人々を魅了した。連作《サロメ》は,J.K.ユイスマンス,O.ワイルドら文学者や,A.ビアズレーをはじめとする世紀末の画家に〈男を滅ぼす魔性の女femme fatale〉の原型として,多大のインスピレーションを与えた。91年からエコール・デ・ボザール教授となり,自己の作風をおしつけることなく,生徒の個性を尊重する自由な教育方針で,多くの若手画家を育てた。モローを敬愛してその門下に集まった画家に,H.マティス,G.ルオー,A.マルケ,カモアンCharles Camoin,マンギャンHenri Charles Manguinらがおり,彼らは20世紀初頭,フォービスムを起こして新しい絵画動向を担った。生涯を送ったパリ,ラ・ロシュフーコー街の自宅は,死後,国に寄贈され〈モロー美術館Musée Gustave Moreau〉となった。ちなみに初代の館長は,愛弟子G.ルオーであった。
執筆者:隠岐 由紀子
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フランスの画家。建築家を父に、音楽家を母にパリで生まれる。1846年、エコール・デ・ボザールに入り2年間学ぶが、やがてドラクロワにひかれるようになる。さらに48年、早熟のロマン派の画家シャッセリオが完成した会計監査院の壁画から感銘を受け、彼を師と仰ぐとともに、56年のシャッセリオ夭折(ようせつ)まで親交を結んで深い影響を受けた。その間、52年にはドラクロワ的色彩の濃い『ピエタ』をサロンに初出品。しかし、自らの未熟さを悟り、57年から59年までイタリアに旅行、カルパッチョ、マンテーニャ、ミケランジェロなどを研究した。64年、『オイディプスとスフィンクス』をサロンに出品、このころから独自の画風を展開する。彼はそれまでのドラマチックなロマン主義的スタイルから離れ、静謐(せいひつ)な造形言語を用いて、神秘的・象徴的な世界をつくりあげる。主題はほとんどギリシア神話や聖書からとられ、人物は厳かな静けさをたたえ、色彩感覚は鋭く、マチエールは貴金属的であり、象徴的で装飾的な細部は豊かさを極めている。
1869年のサロンでは『プロメテウス』が激しい非難にさらされ、以来7年間出品を見合わせるが、76年のサロンには『出現』などを出品、好評を博し、いよいよ円熟の度を増していく。しかし、80年を最後にサロンへの出品は行われなくなり、自宅に隠棲(いんせい)してひたすら制作に励む日々が続く。88年には美術アカデミー会員に選出され、91年にはエリー・ドローネーの後任としてエコール・デ・ボザールの教授に迎えられる。教育者としては、画学生の個性を伸ばすことに意を尽くし、死の年までその職にあった。彼の教室からはマチス、ルオー、マルケらが輩出した。彼は神話や聖書に取材し、エロティシズムと倒錯的な美の世界を描いて象徴主義の代表的な画家となった。パリで没。没後パリの邸宅と作品は国家に遺贈され、モロー美術館として公開されている。
[大森達次]
『P・R・マチュー著、高階秀爾他訳『ギュスターヴ・モロー――その芸術と生涯』(1980・三省堂)』
フランスの女優。パリ生まれ。コンセルバトアール(パリの国立演劇学院)を卒業、1948年にコメディ・フランセーズの女優となり、同年より映画にも出演を始める。ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(1957)と『恋人たち』(1958)、フランソワ・トリュフォー監督の『突然炎のごとく』(1961)など当時のヌーベル・バーグの監督と作品に恵まれ、官能と知性にあふれた演技でフランスを代表する大女優の一人となった。代表作に『危険な関係』(1959)、『雨のしのび逢(あ)い』(1960)、『マドモアゼル』(1965)、『黒衣の花嫁』(1967)、『ニキータ』(1990)、『愛のめぐりあい』(1995)など。1979年には監督業にも手を伸ばし『思春期』(1979)を演出。フランスの映画界に重きをなした。
[畑 暉男]
『梶原和男編『ジャンヌ・モロー わたしはただひとつのメロディー』(1989・芳賀書店)』▽『マリアンヌ・グレイ著、小沢瑞穂訳『女優ジャンヌ・モロー 型破りの聖像』(1999・日之出出版)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…イギリスでは1850年前後からラファエル前派が,象徴に満ち満ちた中世伝説の世界を描いていた。一方,フランスのG.モローは,写実主義や印象主義と同時代を生きた画家であるが,〈見えないもの,感じるものだけを信じる〉という信条の下に神話・伝説の神秘的世界を描き続けた。彼は絵画を,文字で表記される音声言語に対して〈造形言語〉であると考え,自己の観念を表現する媒体として用いた。…
… グループと技法の形成は,1890年代に始まる。グループの中心は,自由な教育をあたえ,みずからも晩年の水彩等においてフォービスムの先駆けをなすような色彩と筆触を示したG.モローのアカデミー・デ・ボザール(国立美術学校)の弟子たち,すなわちマティス,マルケ,カモアンCharles Camoin(1879‐1964),マンギャンHenri Charles Manguin(1874‐1949)たちによって形づくられる。とりわけマティスは,後期印象派(とくにゴーギャン)と新印象派(とくにシニャックとクロス)から,形態のアラベスク,純粋色とその補色の関係を学ぶことによって,すでに世紀末にフォービスム的表現へと近接している。…
※「モロー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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