フランスの画家で、近代美術史上の巨匠の一人と目される。南フランス、エクサン・プロバンスの富裕な家庭に1月19日に生まれる。少年時代以後、ずっとエミール・ゾラと交友があった。父の希望でエクスの法科大学に進むが、改めて画家となる決意をし、1861年初めてパリに出る。以後のほぼ10年間が初期にあたる。この間に美術学校の入試に失敗、民間の画塾アカデミー・スイスに通ってピサロやギヨーマンを知り、やがてモネやルノワールとも交わる。この交友のなかでドラクロワ、クールベ、マネなど反官展的な立場の革新的な傾向に開眼し、厚くて重苦しいマチエールの静物画、肖像画などを描く。『黒大理石の置時計のある静物』や『アシル・アンプレールの肖像』が代表的である。
プロイセン・フランス戦争とパリ・コミューンの動乱期をマルセイユに近い漁村エスタックで過ごしたセザンヌは、1871年秋以降ピサロとの交友を復活、オベールやポントワーズで制作しながら印象主義の原則を教わる。オベールの医師ガッシェPaul Ferdinand Gachet(1828―1909)との友情も重要である。1874年第1回印象派展に当時の力作『首つりの家』など3点、1877年の第3回展に『ショケ像』など16点を出品して、印象派の中核的なメンバーの一人となる。初期作品と比較して画面はより小さく、しかしより明るくなり、筆触も小さくていねいに与えられ、ときには入念な色調分割も行われる。文学的な主題にかわって水浴図が登場したこと、視覚が冷静かつ客観的なものになったことも注目すべき変化である。以後セザンヌは印象派展に参加しなくなる。二度の出品に対する世評が芳しくなかったのと、サロン応募に関して印象派内部からの批判があったためである。むしろ彼は豊かな印象主義体験を基礎として「美術館の諸芸術のようにより堅固でより永続的な」芸術を樹立しようと考える。その努力が正面きって展開されるのが1880年代のことである。
1880年ごろ以降、自画像と夫人像が多くなる。水浴図も男女別々の構図で継続的に描かれ、『青い花瓶』に代表される静物画も色彩の美しさ、マチエールの変化、構図上のくふうなどの点で注目に値する。『エスタックの海』『松の木のあるサント・ビクトワール山』などの連作も、南フランスの明るくおおらかな大空間を平面性と奥行とのいずれをも犠牲にすることなく、みごとに把握した作品群である。この前後セザンヌは初期と同じくパリとエクスを往復しながら制作を続ける。1886年は、ゾラの小説『制作』の発表による二人の友情の終わり、妻オルタンスHortence Fiquet(1850―1922)との正式な結婚、父の死などによって重要な年である。ときに印象派の仲間たちと会いはするが、まったく作品を公表しないので、世間からはしだいに忘れられ、若干の人々だけが作品をタンギー爺(じい)さんJulien Tanguy(1825―1894)の店で見ることができた。だが、この店を通じて、セザンヌの影響はまずゴーギャン、E・ベルナール、そしてナビ派へと及んでゆく。
1890年から数年の間に『赤いチョッキの少年』や『トランプをする人びと』などの連作、『温室のセザンヌ夫人』といった名作が次々と描かれる。1895年末に画商のボラールAmbroise Vollard(1866―1939)がパリで開いたセザンヌ展は当時の若い画家たちを驚倒させた。印象派に発しながらもっとはるかに知的で、しかも新鮮な野性味あふれるセザンヌ芸術が初めて世に知られ始め、ピサロやドガなども感動を抑えきれないほどであった。この前後からセザンヌは水彩画を多作するようになる。制作が簡便なためと色彩の透明感のせいで、さらに水彩の技法の作用が油絵にも現れるようになる。絵の具は薄くのばして塗られ、薄い絵の具の層が複雑に重なり合ってきらきらと輝くダイヤモンド・カットのような効果をみせる。油絵でも水彩でも塗り残しの余白が多くなるが、その余白さえ一種の表現力をもって有効に働く。晩年の作品の多くにみられるこの技法は、物の形を複数の視点からみる構図上のくふうと相まって、キュビスムや抽象美術などに甚大な影響を及ぼした。20世紀美術はゴッホやゴーギャン、スーラらから受ける以上に、セザンヌに多くの不可欠のものを負っているといっても過言ではない。1901年、エクス郊外のローブにアトリエを建て、名声もあがり訪問者も増えたが、1906年10月15日、戸外で制作中に雷雨にあって昏倒(こんとう)、22日に死去した。
今日セザンヌの作品はニューヨークのメトロポリタン美術館やパリのオルセー美術館をはじめとして世界中の美術館に分蔵、陳列されており、日本でも東京、倉敷、広島などで十数点が公開されている。
[池上忠治]
『ジョン・リウォルド編、池上忠治訳『セザンヌの手紙』(1982・美術公論社)』▽『渡辺康子解説『25人の画家 セザンヌ』(1980/新装版・1995・講談社)』▽『アンリ・ペリュショ著、矢内原伊作訳『セザンヌ』(1963/新装版・1995・みすず書房)』
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フランスの画家。後期印象派を代表する一人。印象主義の決定的な影響を受けるが,そのあまりに感覚的で,しまりのない画面にあきたらず,〈印象主義を,美術館の美術のように堅固で持続性のあるものにする〉ことを目ざし,自然を前にした際の,刻々と変化する〈感覚sensation〉そのものを,厳密に構築的でありながらも晴朗な画面のうちに〈実現réalisation〉しようとした。また,〈自然を円筒,球,円錐によって処理する〉(エミール・ベルナールあての手紙。1904年4月15日)といったセザンヌの分析的な思考は,キュビスムの画家たちに根底的な影響を与えたばかりではない。自然を〈深さ〉として実現するその自在な色彩処理は,抽象絵画の展開,とりわけ抽象表現主義において本質的な役割を果たしている。
フランス南部,エクサン・プロバンスに生まれ,同地で没。父は成金の銀行家で,およそ芸術には縁遠い人物であったが,この父のもとで抑圧されながらも彼は一生,生活に困ることはなかった。最初エクサン・プロバンスの大学で法律を学んだが,1861年親友のゾラに刺激されてパリに出て行く。まったくの独学で,アカデミー・シュイスに通うかたわら,バロックの画家たち,ドラクロア,クールベらの模写を通じて自己形成していったが,エコール・デ・ボザール(国立美術学校)不合格(1863),相次ぐサロン落選(1844-69)など不遇な時代がつづいた。このころの作品はおおむね,生来鬱屈した複雑な性格の持主であったセザンヌの,暗い情念,性的抑圧に根ざした,厚塗りの,ロマンティックで陰鬱なものである。69年モデル女のフィケHortense Fiquetを知り,翌年父親にはないしょでいっしょに暮らしはじめる(正式に結婚したのは1886年)。またこのころから印象派の画家たちと接触し,とくにピサロからは多くの教示をうける(1874,77年,印象派展に参加)。こうして,《首つりの家》(1873)のような,静謐な風景が描かれる。とはいえ,この作品にすでに明らかなように,印象主義的な色彩理解のもと,あくまでも自然に即しながらも,古典主義的な秩序感覚を画面に取り戻す方向にむかう。色彩と形は互いに支え合いながら--〈色彩が豊かになれば,形は充実する〉と,のちに彼は言っている--幾何学的ともいうべき強固な世界を築きあげていく。それはしかし,印象主義全盛の当時にあって,セザンヌの孤立をますます際だたせるものでしかなかった。こうして82年以降,郷里のエクサン・プロバンスに引きこもり,その画面も,自然をより内面的に再構築したものになっていく。風景も静物も人物も,その内的構造を明らかにしつつ,重なり合う色彩の輝きのうちに秩序づけられる。純粋絵画ともいうべきこれらの作品には,一見したところなんの主観的な意味づけもないように思える。しかし,たとえば彼の描く果物はときに,その性的コンプレクスを反映してか,女体のようになまめかしい。また,不動のようにみえる画面そのものも,彼自身の屈折した感情のうねりをおもわせる一種の動勢--形態の差異,ゆがみ,傾斜--によって震動している。こうして,80年代前半から頻繁に描かれるサント・ビクトアール山は,セザンヌにあって,生動する自然の大いなるイメージであるばかりか,孤高で気位の高い彼自身の象徴として現出してくる。86年ゾラと絶交。この痛手は,暗い室内で2人の人物が向きあっている《トランプをする人々》(1890-92)に影を落としている。こうした内奥性は晩年に特徴的なものであり,80年ころから描かれる一連の,森の中で《水浴する人々》にしても,しだいに重苦しいものになってゆく。この傾向は最晩年にますます強まり,暗い小さな色面を構築的に重ね合わせただけの,ほとんど抽象絵画ともいうべき,事物そのもののような画面が登場することになった。
セザンヌは,いわば絵画の始源を問いつづけた。それだけに生前はなかなか正当な評価を得られず,画商ボラールによって最初の個展(150点出品)が開かれたのは,1895年のことであった。
執筆者:本江 邦夫
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1839~1906
フランスの画家。印象派を出発点として,対象を単純化された幾何学的形態としてとらえようとする独自の作風をつくり出す。生前は不遇であったが,立体派などの運動に大きな影響を与えた。
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…1905年イタリアに渡り,ローマでカロリュス・デュランに師事した後,パリでR.コラン,プリネーに学び,彫刻の修業もする。07年のセザンヌの回顧展に感銘を受け,以降アカデミックな様式を離れ,後期印象派の作風に親しむ。10年帰国し,滞欧作70点を発表。…
…(3)主題 主題の選択においては,一世代前の写実主義の画家たちが宗教画,神話画,歴史画に背を向けたのを受けて,彼らは特に同時代の風俗や,肖像,静物といった市民的なジャンル,身辺のありふれた風景などをその主題として取り上げた。
[グループ展]
印象派のグループとなる画家たちが知り合ったのは,1863年ころグレールCharles Gleyre(1806‐74)のアトリエ(モネ,シスレー,ルノアール,バジール)であり,それにアカデミー・シュイスAcadémie Suisseでかねてからモネと知り合っていたピサロ,セザンヌが合流した。ピサロを通じてモリゾも参加し,彼らはマネやバジールのアトリエ,またブラッスリー・デ・マルティール,ゲルボア,ヌーベル・アテーヌといったカフェで出会い,批評家たちとも親交を結び,戸外に制作に出かけるなど,しだいにグループを形成していった。…
…〈キュビスム〉の名は,1908年にG.ブラックが描いた風景画中の家が立方体(キューブ)に近い形態に簡略化されていたことに由来し,本来嘲笑的な呼称であった。 20世紀の初頭,印象主義の諸特徴を温存しながらも自然の構造を概念的にとらえようとしたセザンヌの芸術への注目が,パリの若い画家たちの間に急速に高まった。ピカソが1907年に完成した《アビニョンの娘たち》を皮切りに,彼らは事物の細部や情緒的ニュアンスを捨てて,印象派の見失った対象の基本的形態や量感を強調する傾向を強めていった。…
…日本では,〈後期印象派〉という訳語はすでに大正期にみられたが,適切とは言えず,〈印象派以後〉と理解すべきものである。展覧会の出品作家は,マネを特例として,ゴーギャン,セザンヌ,ゴッホ,ルドン,ナビ派(ドニ,セリュジエ),新印象主義の画家たち(スーラ,シニャック,クロスHenri‐Edmond Cross),フォービスムの画家たち(マティス,マルケ,ブラマンク,ドランら)といった,印象主義から出発し,それをこえようとした雑多な画家たちであり,そこには表現主義的な傾向が顕著とはいうものの,格別の枠組みがあるわけでもなく,〈Post‐Impressionists〉は,フライ自身も言うとおり,あくまでも便宜的な呼称にすぎなかった。この呼称が主として英語圏でしか用いられないのはこのためである。…
… こうした状況が一変するのは19世紀の半ば以降であり,静物画は親しみやすい画種としてフランスなど先進各国で成熟した市民層の支持を受けるかたわら,〈絵の主題と価値は無関係である〉とする〈芸術至上主義〉の立場からも,画家が題材の束縛を受けず最も自由に創作できる分野として脚光を浴び,〈純粋絵画〉を志向する先進的な画家の間でとくに愛好される分野の一つとなった。この見地からとくに重要なのはセザンヌであり,〈リンゴ一つでパリを驚かせたい〉という彼の発言は,かつての歴史画に代わる近代絵画の中核としての静物画の意義を如実に語っている。20世紀にはいるとキュビスムなど,この分野に取り組む画派も登場して,静物画の重要性はいっそう増した。…
…1898年からアカデミー・カリエールで学ぶが,そこでマティスと出会い影響を受ける。マティスとともに,セザンヌ芸術の重要性を最も早く認識した画家で,1903‐14年ごろの作品にはその感化が各所にうかがえる。しかし,05‐06年には,ブラマンクとともに最も鮮烈な色彩を用いる典型的なフォービスムの画家であった。…
…ふるえる手で,没するまで,汎神論的世界観にもとづく《四季》の連作(1660‐64)や,幻想的な寓意的風景画を残す。フランスでは時代を超えて長く敬愛され,新古典主義の画家のみならず,E.ドガや〈自然にならってプッサンをやり直し〉たP.セザンヌなどの手本ともなった。 義弟ガスパール・デュゲGaspar Dughet(1615‐75)も画家で,プッサンを崇敬し,ガスパール・プッサンGaspar Poussinと名のった。…
※「セザンヌ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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