南北戦争後のアメリカ・リアリズム文学を代表する小説家の一人。本名クレメンズSamuel Langhorne Clemens。ヘミングウェーは〈すべての現代アメリカ文学はマーク・トウェーンの《ハックルベリー・フィンの冒険》という1冊の本に由来する〉と述べたが,真にアメリカ的な文学伝統は,彼のこの代表作によって確立された。旧大陸の文化伝統から遠く離れた南西部ミズーリ州の名もない開拓村に生まれた彼は,アメリカ国民独自の体験と性格を新鮮なアメリカ英語で描いた。生前から国の内外で大衆的な人気を保つ国民的な文学者であっただけでなく,現在でもホイットマンと並ぶ最もアメリカ的な文学者として高い評価を受けている。
いまだ文明に汚染されていない南西部の大自然の中で,冒険好きな少年として育った彼は,教育らしい教育は受けず,アメリカの大動脈ミシシッピ川の蒸気船のパイロットとなり,船上で人間観察のまたとない機会を得た。筆名マーク・トウェーン(水深二尋(ひろ)つまり12フィート)は,蒸気船の安全航行水域を意味する。1861年,南北戦争の勃発によって水路が閉鎖されると,心機一転,極西部ネバダに赴き,そこで最初は銀鉱探しや投機に熱中したが,やがてジャーナリズムに身を投じ,西部のたくましいユーモア文学の名手として人気を呼ぶ。ことに65年,ニューヨークの新聞に発表した《ジム・スマイリーとその跳ね蛙》という〈ほら話(トール・テール)〉の傑作によって彼の名前は全国的に知れわたった。その後,ある新聞の特派員としてヨーロッパ聖地観光旅行団に参加し,そのときの見聞記を,69年,《無邪気な外遊記》として発表。それまでのアメリカ人のヨーロッパに対する卑屈な態度をかなぐり捨てて,旧大陸の腐敗した偽善的な社会と文化を批判し,粗野であっても健全なアメリカの文化とデモクラシーを擁護したこの旅行記は,彼一流のユーモアと相まって,空前のベストセラーとなり,一躍人気作家となった。
翌70年,東部の富裕な炭鉱主の令嬢と結婚。こうして,東部の上流社会の一員となり,表面的には恵まれた家庭人,アメリカ随一の人気作家として旺盛な創作活動を繰り広げ,《苦難を乗り切って》(1872),《トム・ソーヤーの冒険》(1876),《王子と乞食》(1882),《ミシシッピ川上の生活》(1883),《ハックルベリー・フィンの冒険》(イギリス版1884,アメリカ版1885)など,中期の最も充実した作品を次々に発表した。しかし,西部育ちの野性的な彼と,上品な趣味と教養をもった妻との間には大きな隔りがあったうえに,東部社会の〈お上品な〉文化伝統や,彼がC.D.ウォーナーと共作した《めっき時代》(1873)で描いた当時の金銭万能主義,政界の腐敗,道徳的な堕落などに違和感を覚え,しだいに人間と社会に懐疑的になっていった。さらに90年代には,無謀な新案特許への投資の失敗なども加わって,彼の人間観はますます暗くなる。そして96年,長女を突然脳膜炎で失ったあと,妻の死など,個人的な不幸がうち重なり,彼は救いようのない決定論的な厭世観,虚無思想にとりつかれた。そうした思想は,1906年,匿名で発表した《人間とは何か》,ついに未完のまま遺稿として残された《不思議な少年》(不完全な形で,死後1916年出版)に表明されている。
彼は半世紀前,アメリカ人の若々しい精神とたくましい生活体験を,くったくのない新鮮な文章で謳歌するきわめて楽観的な作家として現れ,そのような作家として当時の一般読者に迎えられた。こうした初期の楽観主義から晩年の虚無思想に至る生涯は,まさに19世紀後半から20世紀初頭にかけてのアメリカ社会の変貌を象徴する。バーナード・ショーは,かつて,マーク・トウェーンの著作が将来のアメリカ研究家にとって不可欠となるだろうと予言したが,彼の生涯と作品は,アメリカを知るうえで最も重要な意味をもつ。
執筆者:渡辺 利雄
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…リアリズムの傾向は,ストー夫人の《アンクル・トムの小屋》(1852)や,17世紀セーレムの魔女事件をホーソーンのように神秘的に提示するのでなく,実証的に扱おうとしたJ.W.デ・フォレストの《魔女の時代》(1856‐57)に始まり,その後およそ100年間,アメリカ文学の中心を占めることになる。最初の本格的リアリズム作家はクーパーのようなロマンス作家を敵視したマーク・トウェーンであった。彼のデビュー作《カラベラス郡の有名な跳び蛙》(1867)は西部開拓民の間に伝わる〈ほら話tall tale〉の語りの伝統を巧みに文学化した短編である。…
…52年のストー夫人の《アンクル・トムの小屋》はむしろ社会的な事件であったが,それよりも65年のドッジ夫人M.M.Dodgeの《ハンス・ブリンカー(銀のスケート靴)》は,児童文学上の事件であった。彼女の写実的傾向はついに,L.M.オルコットの《リトル・ウィメン(若草物語)》(1868),《リトル・メン》(1871),クーリッジS.Coolidgeの〈ケーティもの〉のような,健全な家庭小説を新たに開拓し,ついにアメリカ的なマーク・トウェーンの《トム・ソーヤーの冒険》(1876),《ハックルベリー・フィンの冒険》(1884)にいたった。バーネットF.H.Burnettの《小公子》(1886),ウィギンK.D.Wigginの《少女レベッカ》(1903)はこの明るい精神の所産である。…
…またレッドパスJames Redpathのような講演斡旋業者も現れた。この頃から文学的コメディアンliterary comedianと呼ばれる人たちのユーモア講演もはやり,ビリングズJosh Billings,ナズビーPetroleum V.Nasby,ウォードArtemus Wardなどが活躍,その大立者のマーク・トウェーンは国民的ヒーローとなった。プロの巡回講演はしだいに衰えたが,74年に発足したショトーカ運動と呼ばれる文化運動によって,その〈教育〉的な面を受け継がれたともいえる。…
…過去や未来を訪れるための空想的な装置で,H.G.ウェルズ《タイム・マシン》(1895)にはじめて登場する。しかしウェルズ作品の主眼は文明批評にあり,その点では機械によらぬ時間遡行を扱ったマーク・トウェーン《アーサー王宮廷のヤンキー》(1889)と同様に,タイム・マシンの純論理的分析を行ったものではなかった。その後,一部の科学小説作家は,過去の改変による未来への影響という〈タイム・パラドックス〉に着目し,ここにタイム・マシンはSF文芸の一翼をになう大きなテーマに成長した。…
…マーク・トウェーンの代表的な少年冒険小説。1876年刊。…
…1859年,金と銀の鉱脈コムストック・ロードの発見によって町が建設され,ブーム・タウンとして大繁栄し,1870年代中ごろには人口は最高の2万5000人に達した。ビクトリア様式の豪邸が建ち並び,マーク・トウェーンが,町の新聞《テリトリアル・エンタープライズ》のレポーターとして活躍した。80年代の鉱山の衰退とともにゴースト・タウン化し,今日では訪れる観光客が多い。…
…マーク・トウェーンの小説。イギリス版1884年,アメリカ版85年刊。…
…そのほか,文学作品に描かれたミシシッピ川は枚挙にいとまがないほどである。 しかし,その中でとりわけミシシッピ川と縁が深い文学者といえば,この川のほとりで生まれ育ち,この川を舞台に不朽の少年冒険小説《トム・ソーヤーの冒険》《ハックルベリー・フィンの冒険》などを書いたマーク・トウェーンであろう。彼はまた青年時代,ミシシッピ川の蒸気船の水先案内人をしていて,その思い出を《ミシシッピ川での生活》に記している。…
※「マークトウェーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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