ムルタトゥーリ(その他表記)Multatuli

改訂新版 世界大百科事典 「ムルタトゥーリ」の意味・わかりやすい解説

ムルタトゥーリ
Multatuli
生没年:1820-87

オランダの文学者。本名はダウエス・デッケルEduard Douwes Dekker。遠洋航路船長の子としてアムステルダムに生まれ,しばらく商館に勤務したのち,1838年父の帆船で東インドに赴いた。東インド植民地の政庁職員としてジャワ,スマトラ西岸,スラウェシなどに勤務し,アンボン島の副理事官,軍司令官に就任したのち,52年2年間の休暇をえて帰国。56年1月,ジャワ,南バンテンのルバックLebak郡の副理事官に任ぜられたが,4月辞職。若いころから詩作に従事し,ロマン主義やルソーの思想に傾倒し,正義の実現を願望した。当時ネーデルラント王国はベルギーの独立(1830)による財政困難と経済的破綻を改善するため,ジャワ島に苛酷な強制栽培制度を導入し,巨利をあげていた。ダウエス・デッケルがみた植民地の現実は苛酷な搾取と住民の悲惨な窮乏であり,現地人支配者の頂点に立つオランダの植民地官吏の不正と横暴であった。彼は帰国後貧困のうちに,彼自身を主人公とした小説マックス・ハーフェラール》をムルタトゥーリの筆名で発表し(1860),ルバック郡住民の惨状を描写して強制栽培制度を弾劾し,オランダ人の良心に衝撃を与えた。この小説をきっかけとして,強制栽培制度は自由主義的,人道主義的な強い批判を浴びしだいに廃止され,オランダは自由主義政策にもとづく,より合理的な収奪をめざす新しい植民地支配へと脱皮した。79年以後ドイツに住み,《理想》(全7巻。1862-77)などを発表した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のムルタトゥーリの言及

【オランダ】より

…とはいえ,イギリス,ドイツ,フランスのような文化大国に囲まれてそれらの影響下にあったことは否定できない。1860年,E.ダウエス・デッケルがムルタトゥーリの筆名で《マックス・ハーフェラール》を発表して東インド植民地における過酷な搾取の実態を批判して衝撃を与え,85年詩人クロース,フェルウェー,批評家L.ファン・デイッセルらが《新道標Nieuwe Gids》を創刊して新文学建設の旗手になった。〈80年代の運動〉と呼ばれる文芸復興以後,100年の間オランダは優れた詩人,散文作家,劇作家を多数輩出したが,残念ながらオランダ語という言語の壁に阻まれて作家も作品も国際的な知名度は高くない。…

【オランダ文学】より


[19~20世紀]
 1837年ポットヒーテルにより,自由主義に基づく国民文学の振興を旗じるしに《道標Gids》誌が創刊されると,民族的ロマン主義運動が盛んになり,ボスボーム・トゥサーン夫人Anna L.G.Bosboom‐Toussaint(1812‐86)が三部作《レスター伯》(1846‐55),《デルフトの呪術師》(1870)などの優れた歴史小説を書いた。一方,ベーツは写実的ユーモア小説の傑作《カメラ・オブスキュラ》(1839)を書き,またムルタトゥーリは自国の植民政策の非人道性を告発した小説《マックス・ハーフェラール》(1860)を発表し,その熱情的理想主義と斬新なスタイルは近代オランダ文学に絶大な影響を与えた。19世紀後半におけるオランダ社会の急速な近代化と自由主義の伸展に呼応して,文壇に新風を吹きこんだのが〈80年代派Tachtigers〉と呼ばれるクロースフェルウェーエーデンホルテルらを中心とする若い詩人たちである。…

※「ムルタトゥーリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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