ルソー(読み)るそー(英語表記)Jean-Baptiste Rousseau

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルソー」の意味・わかりやすい解説

ルソー(Jean-Jacques Rousseau)
るそー
Jean-Jacques Rousseau
(1712―1778)

18世紀フランスを代表する思想家、小説家。

[原 好男 2015年6月17日]

模索時代

ジュネーブに6月28日、フランス系スイス人の時計職人の子として生まれる。誕生と同時に母を失う。父親は子育てにあまり熱心ではなかった。1728年、ルソーはジュネーブを出奔、バラン夫人Mme de Warens(1700―1762)の庇護(ひご)を受け、カルバン派の新教徒からカトリックに改宗、以後、1742年パリに向かうまで、自立の道を求め、さまざまな仕事を試みるが、成功しなかった。この間の努力の軌跡として、自然科学、教育などの分野の論文、詩、音楽、演劇などが残っている。

 1750年『学問芸術論』がディジョンアカデミーの懸賞論文募集で入賞するまで、1743年から1744年の、ベネチア駐在フランス大使の秘書を務めたのを除いて、パリで秘書や家庭教師をしながら、音楽を主とした活動を続けた。また、ディドロコンディヤックなどと知り合いになり、当時としては最新の思想に触れ、ディドロ、ダランベールが計画する『百科全書』の音楽の項目の執筆を担当することになる。音楽とのかかわりは一生続くが、代表的な作品は、1752年フォンテンブロー宮殿において、ルイ15世とポンパドゥール夫人の前で上演された『村の占い師』である。1745年、一生の伴侶(はんりょ)となり1768年に結婚するテレーズ・ルバスールThérèse Levasseur(1721―1801)と知り合い、同棲(どうせい)を始める。テレーズとの間に5人の子供が誕生、すべて孤児院へ送られる。捨て子は当時珍しいことではなかったが、この事件は、将来、ルソーの心の重荷となる。

[原 好男 2015年6月17日]

著作活動

ルソーの名前を世間の人々にあまねく知れ渡らせることになる『学問芸術論』(1750)は偶然のきっかけで執筆された。バンセンヌの牢獄(ろうごく)に入れられているディドロに面会に行く途中、雑誌に掲載されていた、懸賞論文の題目、「学問芸術の進歩は、風俗の腐敗に寄与したか、それとも純化に寄与したか」を目にしたことに始まる。後年、ルソーはこのときのことを回想し、「別の世界を見、別の人になった」といっているように、『学問芸術論』でとったルソーの立場は、それまでのルソーの生き方から生まれてくるとは思えないものであった。1754年にはジュネーブに帰国。のち市民権を回復し、新教徒に戻る。

 学問、芸術、技術の進歩は人間を堕落させ不幸にするというルソーの『学問芸術論』の主張は、やはりディジョンのアカデミーの懸賞論文応募作品で、1755年に出版される『人間不平等起源論』においては、人類の歴史の歩みのなかで示されることになる。同年『百科全書』第5巻に「政治経済」の項目を執筆。この作品は、のちに『政治経済論』として、1758年独立して公刊される。『学問芸術論』と『人間不平等起源論』における主張は、進歩を謳歌(おうか)する当時の時代思潮百科全書派の思想と対立するものであるとともに、ルソー自身の生き方を問い直すものともなり、楽譜の写譜で生活の糧(かて)を稼ぐことにし、1756年にはパリを離れる。

 このパリ北郊での隠棲のなかで、『演劇に関するダランベール氏への手紙』(1758)、『新エロイーズ』(1761)、『社会契約論』(1762)、『エミール』(1762)が書かれる。『演劇に関するダランベール氏への手紙』は、『百科全書』の第7巻に含まれる「ジュネーブ」の項目において、執筆者のダランベールがジュネーブに劇場の建設を提案したのに対して、反論を展開したものであるとともに、「序文」のなかで、最大の親友であったディドロとの決別を公表する。

 『社会契約論』は、『人間不平等起源論』が不平等をその存続の基盤とする社会およびそこでの人間のあり方を告発していたのに対して、人間の平等を基盤にした社会をどのようにして創出するかを論じたもので、その影響はフランス革命から現代のカストロによるキューバ革命にまで及ぶ。『エミール』は、不平等な社会のなかで人間が自立して生きていくには、いかなる教育を与えて育てればよいかが示されている。『社会契約論』と『エミール』では、ルソーの関心はまったく別の方向に向かっている。前者の着想が『人間不平等起源論』以前にさかのぼれることからも、後者のほうが、パリを離れて以来のルソーの考えをよく表すものとなっている。

[原 好男 2015年6月17日]

逃亡者

『社会契約論』および『エミール』は発刊後パリやジュネーブなどで、社会の秩序を乱し、キリスト教の教えを破壊するという理由で禁書処分を受けた。ルソー自身にも逮捕状が出され、スイス、イギリス、フランスと各地をさまよい、逃亡者として放浪の生活を送る。深まる孤独のなかで、被害妄想に悩まされながら、世間の自分に対する誤解を解こうと、1765年ころから『告白録』の執筆を始め、1770年完成とともに、ひそかな許可を得て、パリに戻り、朗読会を行うが、期待していたような反応は得られなかった。そのため、さらに自伝的作品『ルソー、ジャン・ジャックを裁く――対話』(1772~1776年執筆)を書き、未完の絶筆『孤独な散歩者の夢想』(1776~1778年執筆)において、孤独な現状を確認し、過去の幸せな時期を回想しながら、1778年7月2日オアーズ県エルムノンビルで生を閉じる。

[原 好男 2015年6月17日]

ルソーと日本

明治維新後、自由民権運動とともに中江兆民による翻訳もある『社会契約論(民約論)』のルソーが、明治後期には、自然主義の文学者島崎藤村などに『告白録』のルソーが、教育界には『エミール』のルソーが、影響を及ぼしてきた。

[原 好男 2015年6月17日]

音楽家としてのルソー

自ら「音楽は恋と並ぶもうひとつの情熱であった」(告白録)と述べているように、ルソーは生来音楽家であることを公言し、終生写譜家の職に甘んじた。幼少から音楽に関心を示したが専門教育は受けず、青年時代にアヌシーでバラン夫人から手ほどきを受けた以外は、ほとんど独学で音楽を習得した。

 1742年にパリで発表した『音楽新記号案』は、五線譜の煩雑さを解消するための数字譜の提案であるが、これは今日なお命脈を残すものの試論に終わった。この年から翌1743年にかけてのベネチア旅行により、イタリア音楽の魅力に開眼し、また初の劇作品であるオペラ・バレエ『優雅なミューズたち』(1743~1745)を作曲した。1750年ごろから友人ディドロの要請で『百科全書』の音楽項目を執筆し始め、これらをまとめて1768年に『音楽辞典』として出版した。これは18世紀の音楽思想を知るための重要な原典の一つとなった。

 1752年から1754年まで、パリの音楽論壇を二分するいわゆる「ブフォン論争」Querelle des Bouffonsが起こるが、ルソーは、このイタリア音楽対フランス音楽の優劣論争におけるイタリア派の領袖(りょうしゅう)として、ラモーらに対して過激な論陣を張り、『フランス音楽に関する手紙』(1753)においてフランス音楽を鋭く糾弾した。その一方で幕間劇(インテルメッツォ)『村の占い師』(1752)を作曲、ルイ15世の御前で初演し大成功を収めた。この一幕オペラはその後80年間オペラ座のレパートリーになり、また曲中のバレエ場面の器楽曲は『むすんでひらいて』の原曲として知られる。音楽作品としては未完のオペラや器楽曲など若干が残されている。ルソーの音楽思想は、その後にいろいろな形で波紋を投げかけた。

[船山信子 2015年6月17日]

『『ルソー全集』14巻・別巻2(1978~1984・白水社)』『カッシーラー著、生松敬三訳『ジャン=ジャック・ルソー問題』(1974・みすず書房)』『グレトゥイゼン著、小池健男訳『ジャン=ジャック・ルソー』(1978・法政大学出版局)』『吉澤昇他著『ルソー 著作と思想』(有斐閣新書)』『新堀通也著『ルソー再興』(1979・福村出版)』『中川久定著『甦るルソー』(1983/特装版・1998・岩波書店)』『海老沢敏著『ルソーと音楽』(1981・白水社)』



ルソー(Henri Rousseau)
るそー
Henri Rousseau
(1844―1910)

フランスの画家で、いわゆる日曜画家、素朴派の代表的存在。しかし、主題の含む象徴性、神秘性、技法の確実さなどさまざまな点で、単なる素朴派を超え、19世紀末から20世紀初頭にかけての美術史のなかで重要な芸術家とみることができる。5月21日マイエンヌ県のラバルに生まれ、高校(リセ)中退後アンジェの法律事務所で働き、1863~68年軍務につく。68年の父の死とともにパリに出て、71年、最初の妻クレマンスの縁故でパリ市入市税関の雇員となる。「税関吏ルソー」の通称はこのことに由来する。早くから絵画に興味をもったルソーは、84年には国立の諸美術館での模写の許可を受け、86年からはアンデパンダン展に出品する。アンデパンダンへの出品は、1899年、1900年の2年を除き、死に至るまで続いている。1888年クレマンス死去、93年には税関を退職し、貧しい年金生活を補うため、子供たちに音楽と絵を教える塾を開きつつ、絵画に専念する。翌94年のアンデパンダン出品の『戦争』(パリ、オルセー美術館)は、最初の主作品となり、97年の『眠るジプシー女』(ニューヨーク近代美術館)へと続く。1900年以前の絵の大半は失われたと推定されるが、この二作品は、技法の完璧(かんぺき)さ、主題の独自性において、すでにルソーの独創的な才能を示している。

 ルソーの描く主題は、パリジャンの日常生活、肖像、静物など多岐にわたったが、もっともルソー的な世界となる異国情緒性、神秘的象徴性に満ちた密林を主題とする作品は、1903年の『虎(とら)に襲われた斥候』(バーンズ財団)に始まり、07年の傑作『蛇使いの女』(オルセー)へと展開する。この時期、1899年に再婚したジョゼフィーヌを亡くし、依然として貧困であり、しかも悩み多い恋の連続、為替(かわせ)詐欺事件に巻き込まれての拘留、裁判といったことすらあったが、詩人アポリネールをはじめロベール・ドローネー、ピカソたちとも知り合い、のちに素朴派の名称で日曜画家たちを世に紹介することになる批評家ウィルヘルム・ウーデたちとも知り合う。ピカソが主宰した著名な「アンリ・ルソーの夕べ」は、ピカソのアトリエ「洗濯船」で1908年に開かれている。『詩人に霊感を与えるミューズ』(1909・バーゼル美術館)は、アポリネールの好意ある注文によって制作された。ピカソたちの好意は、単にお人よしな老画家への善意からだけではなく、事物を単純化し、明確で構成的な構図をもつルソーの世界に、20世紀が必要とする素朴な強さと、キュビスムに通ずる明確さを認めたためと考えられる。10年9月2日、足の壊疽(えそ)のためパリに没。

 伝記的にも作品解釈においてもまだ謎(なぞ)の多い画家ではあるが、想像力、象徴性という点では世紀末象徴主義と、形態の単純化と幾何学的構成という点では20世紀の前衛とかかわる画家というべきだろう。

[中山公男]

『酒井忠康編『現代世界の美術14 ルソー』(1985・集英社)』『宮川淳解説『現代世界美術全集10 ルドン/ルソー』(1970・集英社)』『岡谷公二著『アンリ・ルソー 楽園の謎』(1983・新潮社)』



ルソー(Pierre Etienne Théodore Rousseau)
るそー
Pierre Étienne Théodore Rousseau
(1812―1867)

フランスの画家。パリに生まれる。シャルル・レモン、ギヨン・レチエールのもとで修業する。早くからクロード・ロランや17世紀オランダ風景画に強い影響を受け、また同時にパリ周辺やフランス中部山岳地帯などを逍遙(しょうよう)し習作を重ねる。1831年サロン初入選。詩人ゴーチエらに認められ、風景画家としての評価を得る。しかし37年以降ふたたびサロン落選を繰り返す。その名声が定まるのは50年代以降である。ルソーはバルビゾン派の中心的な画家であり、ミレーらとも親密な関係にあった。1836年にバルビゾン村に定住しフォンテンブローの森を多く描いた。森の中の巨木などを通して自然の偉大さを訴え、構図は伝統的だが、描写は細やかな観察に裏打ちされており、筆触も生き生きと全面を覆っている。印象主義の先駆者ともいわれる。バルビゾンに没。

[宮崎克己]


ルソー(Jean-Baptiste Rousseau)
るそー
Jean-Baptiste Rousseau
(1671―1741)

フランスの詩人。パリ生まれ。18世紀において第一級の詩人として知られる。風刺詩のため1707年追放され、亡命生活を送り、敵であったボルテールからも同情され、貧困のうちにブリュッセルで死ぬ。作品は、伝統的な詩型式のうちに神話への暗示を多く含み、それが同時代の人々の高く評価するところであったが、のちには、逆に、あまりにも形式的すぎると考えられるようになった。

[原 好男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルソー」の意味・わかりやすい解説

ルソー
Rousseau, Jean-Jacques

[生]1712.6.28. ジュネーブ
[没]1778.7.2. エルムノンビル
フランスの作家,思想家。当時の人工的退廃的社会を鋭く批判,感情の優位を強調し,「自然に帰れ」と説き,ロマン主義の先駆をなした。思想,政治,教育,文学,音楽などの分野において根本的な価値転換作業を行い,近代思想に多大の影響を与えた。主著『人間不平等起源論』 Discours sur l'origine de l'inégalité parmi les hommes (1755) ,『新エロイーズ』 Julie,ou la nouvelle Héloïse (61) ,『社会契約論』 Du contrat social (62) ,『エミール』 Émile (62) ,『音楽辞典』 Dictionnaire de musique (68) ,死後刊行の『告白』 Les Confessions (82) 。

ルソー
Rousseau, Henri Julien Félix

[生]1844.5.21. ラバル
[没]1910.9.2. パリ
フランスの画家。素朴派の代表的画家。 1863年より公証人の事務員となり,同年から 68年まで兵役につく。 69年からパリの入市税関の雇員となり,いわゆる「日曜画家」として仕事の余暇に絵を描き,93年に退職して職業画家となった。 86年以降アンデパンダン展などに出品し,一般からは認められなかったが,ピサロ,ルドン,ドガ,ピカソ,トゥールーズ=ロートレックらの画家や詩人 A.ジャリに歓迎された。 97年に『眠るジプシー女』 (ニューヨーク近代美術館) を発表,その素朴で単純な形態と抒情的な幻想の世界はコクトーやアポリネールにも注目された。ほとんど独力でプリミティブな新様式を確立し,1900年以後多くの大作を描いた。また音楽にもすぐれ,彼の作曲したワルツ『クレマンス』はフランス音楽アカデミー賞を得た。主要作品は上記のほか『風景の中の自画像』 (1890,プラハ国立美術館) ,『蛇使いの女』 (1907,オルセー美術館) など。

ルソー
Rousseaux, Eugène

[生]1827
[没]1891
フランスの陶芸家,ガラス工芸家。パリでルイ・ソロンと共同の陶芸工房を営んでいたが,F.ブラックモン (1833~1914) が 1867年日本の北斎漫画に拠った絵付けのサービスセットを発表したことに触発され,その年よりガラス工芸に転向し,日本的なモチーフの作品を発表。一方,中国の乾隆ガラスや玉器にヒントを得て,かぶせガラスに浮彫を施したカメオグラスや,中国の玉 (ぎょく) を模した模玉器を作って 78年のパリ万国博覧会で注目を集め,84年の装飾美術中央連盟展でその地位を確立した。彼の中国・日本風な様式は,アール・ヌーボー運動の推進に大きく貢献し,また多くの弟子を育成してルソー派と呼ばれる一派を形成した。

ルソー
Rousseau, (Étienne-Pierre-) Théodore

[生]1812.4.15. パリ
[没]1867.12.22. バルビゾン
フランスの画家,版画家。 C.レモン,G.ルチエールに師事し,主として風景画を描いた。オーベルニュを旅行したのち,1831年サロンに初出品。 33年頃からフォンテンブロー地域を訪れ,40年代なかばにバルビゾン村に定住し,ミレーらとバルビゾン派を形成。メランコリックなロマンチシズムを漂わせた客観的自然を描き続けた。主要作品は『ティフォジュの谷』 (1841,シンシナティ美術館) ,『フォンテンブローの森の出口,日没』 (1848~49,オルセー美術館) ,『春の風景』 (52頃) など。

ルソー
Rousseau, Jean-Baptiste

[生]1671.4.6. パリ
[没]1741.3.17. ブリュッセル
フランスの詩人。傲慢な性格と痛烈な風刺詩のために敵が多く,国外追放を宣告されてスイス,ウィーンと放浪し,一時ひそかに帰国したのち,ブリュッセルで客死。生前はマレルブやボアローの後継者とみなされ名声を博したが,死後すぐに忘れ去られた。戯曲も数多く残し,性格喜劇『おべっかつかい』 Le Flatteur (1696) が有名。

ルソー
Rousseaux, André

[生]1896
[没]1973
フランスの批評家。 1936年以後『フィガロ』紙の文芸欄担当。カトリックの立場から批評を展開した。主著『20世紀の文学』 Littérature du XXe siècle (7巻,1938~61) ,『古典の世界』 Le Monde classique (42~51) 。

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