18世紀フランスを代表する思想家、小説家。
[原 好男 2015年6月17日]
ジュネーブに6月28日、フランス系スイス人の時計職人の子として生まれる。誕生と同時に母を失う。父親は子育てにあまり熱心ではなかった。1728年、ルソーはジュネーブを出奔、バラン夫人Mme de Warens(1700―1762)の庇護(ひご)を受け、カルバン派の新教徒からカトリックに改宗、以後、1742年パリに向かうまで、自立の道を求め、さまざまな仕事を試みるが、成功しなかった。この間の努力の軌跡として、自然科学、教育などの分野の論文、詩、音楽、演劇などが残っている。
1750年『学問芸術論』がディジョンのアカデミーの懸賞論文募集で入賞するまで、1743年から1744年の、ベネチア駐在フランス大使の秘書を務めたのを除いて、パリで秘書や家庭教師をしながら、音楽を主とした活動を続けた。また、ディドロ、コンディヤックなどと知り合いになり、当時としては最新の思想に触れ、ディドロ、ダランベールが計画する『百科全書』の音楽の項目の執筆を担当することになる。音楽とのかかわりは一生続くが、代表的な作品は、1752年フォンテンブロー宮殿において、ルイ15世とポンパドゥール夫人の前で上演された『村の占い師』である。1745年、一生の伴侶(はんりょ)となり1768年に結婚するテレーズ・ルバスールThérèse Levasseur(1721―1801)と知り合い、同棲(どうせい)を始める。テレーズとの間に5人の子供が誕生、すべて孤児院へ送られる。捨て子は当時珍しいことではなかったが、この事件は、将来、ルソーの心の重荷となる。
[原 好男 2015年6月17日]
ルソーの名前を世間の人々にあまねく知れ渡らせることになる『学問芸術論』(1750)は偶然のきっかけで執筆された。バンセンヌの牢獄(ろうごく)に入れられているディドロに面会に行く途中、雑誌に掲載されていた、懸賞論文の題目、「学問芸術の進歩は、風俗の腐敗に寄与したか、それとも純化に寄与したか」を目にしたことに始まる。後年、ルソーはこのときのことを回想し、「別の世界を見、別の人になった」といっているように、『学問芸術論』でとったルソーの立場は、それまでのルソーの生き方から生まれてくるとは思えないものであった。1754年にはジュネーブに帰国。のち市民権を回復し、新教徒に戻る。
学問、芸術、技術の進歩は人間を堕落させ不幸にするというルソーの『学問芸術論』の主張は、やはりディジョンのアカデミーの懸賞論文応募作品で、1755年に出版される『人間不平等起源論』においては、人類の歴史の歩みのなかで示されることになる。同年『百科全書』第5巻に「政治経済」の項目を執筆。この作品は、のちに『政治経済論』として、1758年独立して公刊される。『学問芸術論』と『人間不平等起源論』における主張は、進歩を謳歌(おうか)する当時の時代思潮、百科全書派の思想と対立するものであるとともに、ルソー自身の生き方を問い直すものともなり、楽譜の写譜で生活の糧(かて)を稼ぐことにし、1756年にはパリを離れる。
このパリ北郊での隠棲のなかで、『演劇に関するダランベール氏への手紙』(1758)、『新エロイーズ』(1761)、『社会契約論』(1762)、『エミール』(1762)が書かれる。『演劇に関するダランベール氏への手紙』は、『百科全書』の第7巻に含まれる「ジュネーブ」の項目において、執筆者のダランベールがジュネーブに劇場の建設を提案したのに対して、反論を展開したものであるとともに、「序文」のなかで、最大の親友であったディドロとの決別を公表する。
『社会契約論』は、『人間不平等起源論』が不平等をその存続の基盤とする社会およびそこでの人間のあり方を告発していたのに対して、人間の平等を基盤にした社会をどのようにして創出するかを論じたもので、その影響はフランス革命から現代のカストロによるキューバ革命にまで及ぶ。『エミール』は、不平等な社会のなかで人間が自立して生きていくには、いかなる教育を与えて育てればよいかが示されている。『社会契約論』と『エミール』では、ルソーの関心はまったく別の方向に向かっている。前者の着想が『人間不平等起源論』以前にさかのぼれることからも、後者のほうが、パリを離れて以来のルソーの考えをよく表すものとなっている。
[原 好男 2015年6月17日]
『社会契約論』および『エミール』は発刊後パリやジュネーブなどで、社会の秩序を乱し、キリスト教の教えを破壊するという理由で禁書処分を受けた。ルソー自身にも逮捕状が出され、スイス、イギリス、フランスと各地をさまよい、逃亡者として放浪の生活を送る。深まる孤独のなかで、被害妄想に悩まされながら、世間の自分に対する誤解を解こうと、1765年ころから『告白録』の執筆を始め、1770年完成とともに、ひそかな許可を得て、パリに戻り、朗読会を行うが、期待していたような反応は得られなかった。そのため、さらに自伝的作品『ルソー、ジャン・ジャックを裁く――対話』(1772~1776年執筆)を書き、未完の絶筆『孤独な散歩者の夢想』(1776~1778年執筆)において、孤独な現状を確認し、過去の幸せな時期を回想しながら、1778年7月2日オアーズ県エルムノンビルで生を閉じる。
[原 好男 2015年6月17日]
明治維新後、自由民権運動とともに中江兆民による翻訳もある『社会契約論(民約論)』のルソーが、明治後期には、自然主義の文学者島崎藤村などに『告白録』のルソーが、教育界には『エミール』のルソーが、影響を及ぼしてきた。
[原 好男 2015年6月17日]
自ら「音楽は恋と並ぶもうひとつの情熱であった」(告白録)と述べているように、ルソーは生来音楽家であることを公言し、終生写譜家の職に甘んじた。幼少から音楽に関心を示したが専門教育は受けず、青年時代にアヌシーでバラン夫人から手ほどきを受けた以外は、ほとんど独学で音楽を習得した。
1742年にパリで発表した『音楽新記号案』は、五線譜の煩雑さを解消するための数字譜の提案であるが、これは今日なお命脈を残すものの試論に終わった。この年から翌1743年にかけてのベネチア旅行により、イタリア音楽の魅力に開眼し、また初の劇作品であるオペラ・バレエ『優雅なミューズたち』(1743~1745)を作曲した。1750年ごろから友人ディドロの要請で『百科全書』の音楽項目を執筆し始め、これらをまとめて1768年に『音楽辞典』として出版した。これは18世紀の音楽思想を知るための重要な原典の一つとなった。
1752年から1754年まで、パリの音楽論壇を二分するいわゆる「ブフォン論争」Querelle des Bouffonsが起こるが、ルソーは、このイタリア音楽対フランス音楽の優劣論争におけるイタリア派の領袖(りょうしゅう)として、ラモーらに対して過激な論陣を張り、『フランス音楽に関する手紙』(1753)においてフランス音楽を鋭く糾弾した。その一方で幕間劇(インテルメッツォ)『村の占い師』(1752)を作曲、ルイ15世の御前で初演し大成功を収めた。この一幕オペラはその後80年間オペラ座のレパートリーになり、また曲中のバレエ場面の器楽曲は『むすんでひらいて』の原曲として知られる。音楽作品としては未完のオペラや器楽曲など若干が残されている。ルソーの音楽思想は、その後にいろいろな形で波紋を投げかけた。
[船山信子 2015年6月17日]
『『ルソー全集』14巻・別巻2(1978~1984・白水社)』▽『カッシーラー著、生松敬三訳『ジャン=ジャック・ルソー問題』(1974・みすず書房)』▽『グレトゥイゼン著、小池健男訳『ジャン=ジャック・ルソー』(1978・法政大学出版局)』▽『吉澤昇他著『ルソー 著作と思想』(有斐閣新書)』▽『新堀通也著『ルソー再興』(1979・福村出版)』▽『中川久定著『甦るルソー』(1983/特装版・1998・岩波書店)』▽『海老沢敏著『ルソーと音楽』(1981・白水社)』
フランスの画家で、いわゆる日曜画家、素朴派の代表的存在。しかし、主題の含む象徴性、神秘性、技法の確実さなどさまざまな点で、単なる素朴派を超え、19世紀末から20世紀初頭にかけての美術史のなかで重要な芸術家とみることができる。5月21日マイエンヌ県のラバルに生まれ、高校(リセ)中退後アンジェの法律事務所で働き、1863~68年軍務につく。68年の父の死とともにパリに出て、71年、最初の妻クレマンスの縁故でパリ市入市税関の雇員となる。「税関吏ルソー」の通称はこのことに由来する。早くから絵画に興味をもったルソーは、84年には国立の諸美術館での模写の許可を受け、86年からはアンデパンダン展に出品する。アンデパンダンへの出品は、1899年、1900年の2年を除き、死に至るまで続いている。1888年クレマンス死去、93年には税関を退職し、貧しい年金生活を補うため、子供たちに音楽と絵を教える塾を開きつつ、絵画に専念する。翌94年のアンデパンダン出品の『戦争』(パリ、オルセー美術館)は、最初の主作品となり、97年の『眠るジプシー女』(ニューヨーク近代美術館)へと続く。1900年以前の絵の大半は失われたと推定されるが、この二作品は、技法の完璧(かんぺき)さ、主題の独自性において、すでにルソーの独創的な才能を示している。
ルソーの描く主題は、パリジャンの日常生活、肖像、静物など多岐にわたったが、もっともルソー的な世界となる異国情緒性、神秘的象徴性に満ちた密林を主題とする作品は、1903年の『虎(とら)に襲われた斥候』(バーンズ財団)に始まり、07年の傑作『蛇使いの女』(オルセー)へと展開する。この時期、1899年に再婚したジョゼフィーヌを亡くし、依然として貧困であり、しかも悩み多い恋の連続、為替(かわせ)詐欺事件に巻き込まれての拘留、裁判といったことすらあったが、詩人アポリネールをはじめロベール・ドローネー、ピカソたちとも知り合い、のちに素朴派の名称で日曜画家たちを世に紹介することになる批評家ウィルヘルム・ウーデたちとも知り合う。ピカソが主宰した著名な「アンリ・ルソーの夕べ」は、ピカソのアトリエ「洗濯船」で1908年に開かれている。『詩人に霊感を与えるミューズ』(1909・バーゼル美術館)は、アポリネールの好意ある注文によって制作された。ピカソたちの好意は、単にお人よしな老画家への善意からだけではなく、事物を単純化し、明確で構成的な構図をもつルソーの世界に、20世紀が必要とする素朴な強さと、キュビスムに通ずる明確さを認めたためと考えられる。10年9月2日、足の壊疽(えそ)のためパリに没。
伝記的にも作品解釈においてもまだ謎(なぞ)の多い画家ではあるが、想像力、象徴性という点では世紀末象徴主義と、形態の単純化と幾何学的構成という点では20世紀の前衛とかかわる画家というべきだろう。
[中山公男]
『酒井忠康編『現代世界の美術14 ルソー』(1985・集英社)』▽『宮川淳解説『現代世界美術全集10 ルドン/ルソー』(1970・集英社)』▽『岡谷公二著『アンリ・ルソー 楽園の謎』(1983・新潮社)』
フランスの画家。パリに生まれる。シャルル・レモン、ギヨン・レチエールのもとで修業する。早くからクロード・ロランや17世紀オランダ風景画に強い影響を受け、また同時にパリ周辺やフランス中部山岳地帯などを逍遙(しょうよう)し習作を重ねる。1831年サロン初入選。詩人ゴーチエらに認められ、風景画家としての評価を得る。しかし37年以降ふたたびサロン落選を繰り返す。その名声が定まるのは50年代以降である。ルソーはバルビゾン派の中心的な画家であり、ミレーらとも親密な関係にあった。1836年にバルビゾン村に定住しフォンテンブローの森を多く描いた。森の中の巨木などを通して自然の偉大さを訴え、構図は伝統的だが、描写は細やかな観察に裏打ちされており、筆触も生き生きと全面を覆っている。印象主義の先駆者ともいわれる。バルビゾンに没。
[宮崎克己]
フランスの思想家,文学者。スイスのジュネーブに生まれた。父は腕のよい時計職人で,共和国ジュネーブの意志決定機関である総評議会のメンバーであった。ジャン・ジャックは生後すぐ母と死に別れた。出産が原因だったといわれている。父はまた母を亡くしたジャン・ジャックをただ愛するばかりではなかったようである。彼はまたこの父から市民としての誇りと祖国愛を学んだ。辛い徒弟時代を終える前にルソーはジュネーブを去り,放浪生活を経て,シャンベリーのバラン夫人のもとへ身を寄せた。夫人は彼にとって母であり,愛人であり,教師でもあった。1750年,ディジョン・アカデミーの懸賞論文(《学問芸術論》)に当選して一躍有名になり,パリで百科全書派の知識人たちと交際した。55年《人間不平等起源論Discourssur l'origine de l'inégalité parmi les hommes》《政治経済論》を出版,文人としての地位を確立したが,社交界の風習になじむことができず,自分の生活を改造しようとし,国王の年金授与も断って,パリを離れた。田舎で書き上げた小説《新エロイーズ》(1761)は世紀のベストセラーとなった。62年《社会契約論》(4月刊)の翌月出版された《エミール》の筆禍により,逮捕を避けてスイスに赴いたが,ジュネーブ政府もこの両書を発売禁止処分とした。スイスのモティエにいったん落ち着いたものの,村民の迫害を受け,66年イギリスに渡った。友人の哲学者D.ヒュームと折り合わなくなり,同年フランスに帰って《告白録》を書きはじめ,70年に脱稿した。長年連れ添ってきたテレーズとは1768年に正式に結婚した。彼女とのあいだに1745年から55年にかけてもうけた5人の子どもはすべて遺棄された。76年《ルソー,ジャン・ジャックを裁く--対話》を完成。78年,未完の《孤独な散歩者の夢想》を残し,エルムノンビルで急死した。
ルソーの仕事は上に挙げなかったものをも含めて,文学的著作の系列と政治的著作の系列とに大別されうる。《告白録》は前者を,《社会契約論》は後者をそれぞれ代表する作品である。もっとも,《エミール》のようにどちらの系列に属するとも決め難いものもある。古くからルソーは個人主義者であるか,それとも集団主義者であるかという論争が続いてきた。政治的著作だけを読むと,彼を全体主義思想の父たちの一人に数える解釈もある程度の説得性をもつように思われる。しかし,文学的著作においてはロマン派的個人主義の傾向が強い。
ルソーはあるところで〈人間は幸福であるために生まれてきた〉と記している。幸福とは心の平静が活気を保ちながら持続する状態である。人間はどうしたら幸福になれるかを,ルソーは生涯探求し続け,その探求が作品として結実した,といってよかろう。カルバンの本拠ジュネーブの禁欲主義的な雰囲気の中で育ったルソーは,自己の中の欲望を監視する他者の視線を恐れた。欲望の主体とその否定者とが自己の内部で葛藤し,自己の統一性が失われるからである。統一性の破綻は心の平静をかき乱し,人は不幸に陥る。幸福になるためには,フロイト風にいうと欲望を〈昇華〉し,他者の視線を恐れる必要のない状態に到達しなければならない。文学的著作はこの種の探求を行う系列である。とりわけ《新エロイーズ》においては,その探求が典型的に描かれている。《人間不平等起源論》は文学的著作とはいえないが,その中でルソーは,孤立しているために他者の視線による分裂をまだ知らない〈自然人〉の幸福を人類の出発点においた。
しかし,欲望を統制することだけが幸福への道ではない。自己が属している集団に自己をすっかり預けてしまって,個人性を放棄することによっても人は幸福になれる。そうなれば,自己の内部の分裂はなくなるからである。しかし,この道を進むためには,自己を譲渡する集団が統一性を保っていなければならない。もし集団の中に諸部分の対立があれば,集団に自己を預けた個人の内部に外部の分裂が持ち込まれ,こうして自己の統一性は失われるからである。そこでルソーは〈自然状態〉を仮構したように,完璧(かんぺき)な統一性をもつ〈社会状態〉を仮構した。この理想の〈社会状態〉においては党派間の対立はなく,市民すべては安心して自己を全体に譲渡することができる。各人が自己のすべてを譲渡して政治体を設立する行為,これをルソーは社会契約と名づけた。それゆえ《社会契約論》によって代表される政治的著作においては,外界の統一性をとおしての幸福の理論化が行われていると読むことができる。一方,文学的著作においては自己の内部の統一性が探求された。それゆえ内部の統一性をめざす個人主義者ルソーと,外部の統一性を理論化する集団主義者ルソーとは,ともに幸福の探求者であるから,彼自身にとっては仕事の二つの系列のあいだに矛盾はなかったのであろう。
ルソーは農業生産を基盤とする直接民主制の小国家を理想としていたから,当時としても彼のイデオロギーは時代に逆行していた。しかし父から受け継いだ自立的市民としての誇りや,あらゆる階級の人々に接した放浪生活の経験からくる公平の感覚が,そのイデオロギーを超えて,世界の抑圧されている人々に強く訴えてきた,ということができる。
日本でルソーの影響を受けた代表的な人物を挙げるなら,政治的著作をとおしては中江兆民,文学的著作をとおしては島崎藤村の2人である,と答える人が多数であろう。兆民は《社会契約論》を第2編第6章まで漢訳し,《民約訳解》として刊行した。国会開設を目標とする彼の政論は,この開設をもって〈社会契約〉とみなし,共和制の実現を期するものであって,本書の精読が基礎になっている。藤村は青年のころ《告白》を英訳で読み,以後何度も読み返した。《家》《新生》などの自伝的作品にあらわれている自我の主張や告白のスタイルは,日本的にデフォルメされてはいるがルソー的である。しかし,ルソーの日本への影響の記述を,特定の著名な人物の名を挙げることですますわけにはいかない。日本での彼の読者層は厚い。フランス語文化圏以外のところで全集が出版されたのは日本だけである(全16冊)。ルソーの思想を体系としては知らない読者も,彼の人格から発する放射線を受ける。こうして自由と独立への憧憬や,孤独と連帯のあいだの動揺などが,気分として直接に読者へ伝わってくるのである。《エミール》を読んだ教師たちが生徒の自発性を尊重する教育に情熱をいだいた場合も,その一例となるだろう。だがその場合,事物の背後にある必然の力を尊重するルソーの思想のもう一つの側面を,これらの教師たちが併せて理解していたとは限らない。ルソーの思想が体系として好意的に読まれた外部の文化圏としては,ほかにドイツがある。ここではカントやヘーゲルのような大思想家が,ルソーの思想を体系として吸収した。どうして日本とドイツなのか,それは答がまだ出ていない問題である。
執筆者:作田 啓一
フランスの画家。ラバル生れ。リセ中退後,兵隊生活,法律事務所見習をへて1871年パリで入市税関収税吏の職につき,かたわら趣味として絵を始めた。〈ル・ドゥアニエLe Douanier(税関吏)〉とか〈ドゥアニエ・ルソー〉と呼ばれるのはこのためである。84年に国立美術館における模写の許可を得,このころから本格的に絵と取り組み,86年以降没するまでほぼ定期的にアンデパンダン展に出品。93年入市税関を退職し年金を得て制作に没頭するようになる。しかし生活は苦しく,画材屋の借金に追われ,絵や音楽を教えて稼いだ。わずかながら絵が売れて,すこしは生活にゆとりができたのは最晩年の2年ほどにすぎなかった。生前はほとんど認められなかったが,F.É.バロットン,同郷の文学者A.ジャリらによって徐々に注目されるようになる。ピカソは1908年〈バトー・ラボアールBateau Lavoir(洗濯船)〉でルソーのために宴会を開き,またアポリネールは自分とローランサンの肖像を依頼している(《詩人に霊感を与える女神》1909)。素朴画家を代表するルソーは,正統的な形体把握,色彩用法,構図法にとらわれずに特異な画面を作りあげ,幻想的,夢幻的な絵画世界を作り上げた。画風や技法が時を追って展開,発展するということがあまりなく,主題で分けられるだけであり,それは初期の風景画と肖像画,街頭風景,異国風景,肖像,花と静物などである。なかでも最も優れているのが異国風景画で,ほんとうの熱帯の密林も知らずに写真などをもとにして描き,実際とは似ても似つかぬ空想の植物を表現している。他の素朴画家が絵を描くに際し,原初的な衝動の範囲を超えられなかったのに対して,彼は幻想の昇華,および無自覚的ながらも,絵画という表現を純粋に対象化できたことによって,素朴派を一歩踏み越える画家となった。
執筆者:千葉 成夫
フランスのバルビゾン派の画家。商人の子としてパリに生まれ,親戚の風景画家ポー・ド・サン・マルタンPau de Saint-Martinの影響で幼いころから自然に親しんだ。エコール・デ・ボーザール(国立美術学校)でも学んだが,パリ近郊の戸外での習作を多くし,またオランダ17世紀の風景画や,コンスタブル,ボニントンらの影響を受けた。初期にはロマン主義的な大胆な構図を特徴とする自然への愛情に満ちた作風で頭角を現した。1835年の《ジュラ山脈の牛の山下り》が革新的すぎてサロン(官展)に落選し,以後48年の二月革命まで入選せず,〈落選の大画家〉と渾名(あだな)された。47年からバルビゾンに定住し,フォンテンブローの森や付近の平原を描いて,自然に密着して生活した。作品はときに極端なまでに自然の細部描写を見せることもあるが,一方で大気の現象,光などに関心をもち,印象派を予告するような作風をも見せた。
執筆者:馬渕 明子
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1712~78
フランスの思想家。ジュネーヴに生まれ,徒弟生活と放浪ののち,1742年パリに出,啓蒙思想家と交わり,50年『学問芸術論』の成功で著述生活に入った。『人間不平等起源論』『新エロイーズ』『社会契約論』『エミール』などを発表。晩年は現実および空想上の迫害に苦しみ,悲惨な心境のなかで『告白』『対話』などの自伝的作品を書き,エルムノンヴィルの自然のなかでその生涯を終わった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…彼は一般意思を各個人の特殊意思とは区別して,全人類の一般的かつ共通の利益に基づくものとし,これによって自然法を根拠づけた。これに対してルソーは,《政治経済論》においてこれを単一の存在たる政治体の意思とし,さらに《社会契約論》において国家理論の中心概念として位置づけたのである。ルソーによれば,国家は各個人が自己を共同体全体に対して全面的に譲渡するという全員一致の契約によって設立される。…
…J.J.ルソーの教育論で,人間論の地平からの旧体制批判の書でもある。1762年に刊行されるとすぐにパリ高等法院に摘発された。…
…イギリスのJ.ロックも,当時の学校におけるスコラ的な古典知識のつめ込みに強く反対し,伝統的な修辞学や論理学より数学の教育を重視していた。 ロックや,それに続くルソーにみられるのは,家庭教育の重視である。人間にとって自由・平等が重要であると自覚した近代市民革命では,精神の自由を獲得するうえで教育は権利として重視され,その自由にとって学校という集団で行う教育はなじまないと考えられた。…
…その後,共和派内部では,独立派IndependentsとレベラーズLevellers(水平派)の対立が激化し,前者が勝利することになるが,その時期にレベラーズが,3次にわたって提出した〈人民協約Agreements of the People〉(1647)は普通選挙に基づく徹底した共和制を唱えている。またルソーは,構成員全員一致の社会契約によって成立した共同体のみを国家,共和国と呼び,一体としての人民をその主権者としたが,これは共和制理念と人民主権論との結びつきの,最も明確な理論的表現である。共和【吉岡 知哉】。…
…なおモンテスキュー,ディドロらに典型的な例が見られるように,非西欧社会へのとらわれのない見方が一部に定着しつつあることも注目に値しよう。とはいえ,なおブルジョア的個人主義にもとづく啓蒙の社会哲学の一面性,形式性は,ルソーを先駆とするロマン派の一連の共同体論による批判を呼びおこすことになる。
[経済思想]
新興市民階級の立場からする生産と流通,分配といった経済現象の分析が,ロック,ケネー,スミスらによって発展せしめられた。…
…さらに劇場という言葉は中世以来,庭や鏡などの言葉とともに集成や大成の意でしばしば書物の題名に用いられてきたが,これも同じ理由によるものである。【横山 正】
【人々にとって劇場とはいかなる場であったか】
1758年,ジュネーブ生れの哲学者ジャン・ジャック・ルソーは,彼の故郷の町に大きな劇場を建てるように勧める友人のダランベールに対して,私たちが必要としているのは〈陰気な顔をした少数の人を閉じ込めておく暗い洞窟〉のような劇場ではありませんと,長い反論を書き送った。 この《ダランベールへの手紙》におけるルソーの反劇場論の基礎には,古代ギリシアの哲学者プラトンの反演劇論がある。…
…ホッブズにおいては設立された政治社会の意思は君主の意思に体現されるため,君主の絶対性が結論されるが,自然状態における自然法の支配を前提とするロックは,政治社会の目的を自然権の保障とし,近代自由民主主義を基礎づけた。またルソーは政治社会の意思を一般意思と規定し,その現実化たる法の支配によって,自由と平等の理念の貫徹をはかった。このように,近代民主主義理論は治者と被治者の原理的同一性から出発しており,その区別を前提とする統治の観念との間に不断の緊張を生じる。…
…子どもの発達にとっても,この活動は重要な意義をもつ。文字による知識の注入に終始する教育に対し,工作=手の労働の意義に着目したのは,コメニウス,ルソーら一連の近代教育思想家であり,ルソーは《エミール》で〈事物を通しての教育〉を提唱し,これを受けてペスタロッチは生産労働と知的学習との結合の実践を進め,学校を読み書き学校にとどめず,事物にふれ,〈頭〉と〈手〉とを結びつける活動を通して子どもを可能なかぎり全面的に発達させる場に改めようとし,工作やこれに類する活動を尊重した。19世紀半ば以降,北欧に始まり,欧米諸国で公教育に工作を正規の教科として導入する動きが強まった。…
…フランスの思想家ルソーの自伝作品。作者の死後,第1部が1782年,第2部が89年に刊行された。…
…木綿やウールなど耐久性,伸縮性,吸汗性のある布が使われ,身体が自由に動かせ,着脱の容易な形が選ばれる。子ども服が大人の衣服と区別されるようになったのは19世紀半ば以降で,ルソーの《エミール》を契機として,子どもの生活と人権が社会的に認識されてからである。ルソーは当時の乳児の包帯状のおくるみ(スワドリングswaddling)と,大人を模倣した服装は,発育期の子どもの精神と肉体の成長を妨げると指摘し,子ども独自の服装を提唱した。…
…しかし1744年にニューベリーJ.Newberyがロンドンのセント・ポール大聖堂前に,世界で初めての子どものための本屋をひらいて,小型の美しい本を発行し,伝承歌謡を集めた《マザーグースの歌(マザーグース)》やO.ゴールドスミスに書かせたと思われる初の創作《靴ふたつさん》を送り出した。しかし18世紀を支配したJ.J.ルソーの教育説はたくさんの心酔者を出して,児童文学は型にはまり,C.ラムは姉メアリーとともにこの風潮に反抗して,《シェークスピア物語》(1807)などを書いたが,児童文学が自由な固有の世界となるには,ペローやグリム,アンデルセンの翻訳をまたなければならなかった。しばしば子どもたちの実態を小説に描いたC.ディケンズは《クリスマス・キャロル》を1843年にあらわし,E.リアは滑稽な5行詩による感覚的なノンセンスの楽しみを《ノンセンスの本》(1846)にまとめた。…
…これに対して,ロックはまず相互契約によって社会を構成した諸個人が,多数決によって選んだ立法機関に統治を委託すると説き,その目的を私有財産を含む個人の自由権の保障に求めることによって,権力に制限を加えた(《統治二論》1689)。 18世紀に入ると,社会生活の組織化が進み,また社会契約は歴史的事実でないという経験科学的批判が起こったが,その中でJ.J.ルソーはこの図式に新しい内容を与え,この理論の革命的意味を明らかにした。彼によれば,主権はつねに契約によって社会を構成した諸個人の全体すなわち人民にあり,この人民はそのまま立法機関として定期的に集合し,その意思すなわち一般意思を法として制定するが,その執行は別に政府を選んでこれにゆだね,しかも政府の存立は全面的に人民の信任に依存するのである(《社会契約論》1762)。…
…1762年,オランダで出版されたJ.J.ルソーの著作。ルソーは社会契約によって正当な政治体(国家)が成立すると考えたが,この契約は18世紀において国家成立の基本原理と一般に考えられていた人民と首長とのあいだの統治契約(首長が人民を保護する代りに人民は首長に服従するという契約)ではなかった。…
…伝統的な価値秩序に代えて新しい秩序を構成しようとしたホッブズは,自由とは〈障害の存在しないこと〉であると定義したが,それは自然権としての消極的自由とともに,契約による秩序の構成という積極的自由をも含意するものであった。そして,この第2の側面は,ロックにおいては,私有財産権の保障を基礎に,政治社会の構成員として秩序を自発的に形成することが〈人間の自由〉であるとされるようになるし,またルソーはよりラディカルに,政治社会の再構成の担い手になることこそが自由を意味するとし,さらに〈自由であるように強制する〉ことまで説くのである。このような自由概念の展開は,君主主権論から国民主権論ないしは人民主権論への転換と表裏をなすものであったといえよう。…
…そして第3は農業生産に余裕ができ,それゆえ,有用植物以外の植物つまり観賞用の植物の開発が行われるようになった段階である。 J.J.ルソーは《人間不平等起源論》で〈人間はオークの下でどんぐりを腹いっぱい食べ,食物を提供してくれたその同じ木の下を自分のねぐらとしていた。しかし小麦の出現とともに人類は堕落した〉と述べて原始生活を賛美したが,逆にボルテールは〈小麦を知ってしまっているわれわれを,再びどんぐりの時代へと連れもどすな〉ということわざを使って,時代に逆行する試みをいましめた(《哲学辞典》〈小麦〉の項)。…
…フランスの思想家J.J.ルソーが1761年に刊行した書簡体の恋愛小説。舞台は18世紀スイスで,貴族の令嬢ジュリーと平民の家庭教師サン・プルーとの身分違いの恋を描く。…
…教育を単に知識の教授に限定せず,子どもの性格に根ざし,子どもを主体的な生活者に育てようとする教育。その思想的源流はJ.J.ルソーに,実践的源流はJ.H.ペスタロッチに求めることができる。すなわち,ルソーは《エミール》(1762)で,当時のフランスの特権階級の教育がいかに人間の自然の発達をゆがめているかをするどく告発し,大地の上で額に汗して働く農民の生活こそが教育的機能を果たしている,と指摘し,〈農夫のように働き哲学者のように思索する〉人間の育成を教育の目標として示した。…
…だがこれは時代思潮の特質を語る概念でもあり,理性や秩序や調和を尊重する時代の反動として個人の感情や自由を謳歌する立場が生じるとき,これを総称するために用いられる。18世紀の啓蒙主義に対抗して現れたルソーの立場はその典型的な例であり,悟性偏重に反抗する19世紀のドイツ・ロマン主義の活動や,実証主義の時代を経て19世紀末から20世紀にかけて現れた〈生の哲学〉に流れる基調もこれに含められる。【細井 雄介】 そもそも〈センチメンタル〉なる英語がひろく用いられるようになるきっかけは,18世紀のイギリスの作家L.スターンの《センチメンタル・ジャーニー》(1768)であった。…
…母音を歌う合唱,古代ギリシアに由来するといわれるクロタル(古代風小型シンバル)などを加えた大編成の管弦楽は,この巨大な壁画を描くラベルの重要なパレットの役割を果たしている。同じ原作による作品として,他にグルックのフランス・オペラ《包囲されたキュテラ島》(1759),J.J.ルソーの未完のオペラ《ダフニスとクロエ》(1779)などがある。【小場瀬 純子】。…
…そこで,近代以降の国民国家とその自治体のような複雑・異質な大社会では,ごくわずかな例外を除いて,代表民主制が採用されているわけであるが,代表民主制に機能不全が現れるたびに,直接民主政治への郷愁・憧憬が繰り返し語られることとなる。ルソーが《社会契約論》において,代表民主制のもとでは国民は選挙のときにのみ自由であり,選挙のあとは奴隷であると批判し,〈カシの木の下の民主主義〉を称揚したのはその一例である。 これに対して,直接民主制のもう一つの形態である直接立法制とは,レファレンダム(国民投票ないし住民投票)の制度とイニシアティブ(国民発案)の制度とを総称したものである。…
…52年エジンバラ法曹会図書館司書,63年駐仏大使ハートフォード卿秘書,65年には代理大使を務める。66年ルソーを伴って帰国し保護に努めるが,ルソーから誹謗の張本人と誤解され確執に悩む。67年国務次官の職に就いた後,69年以降はエジンバラに定住,指導的文筆家として満ち足りた晩年を送る。…
… かくして近代平等主義の第3の契機は,ブルジョア革命によって真の自律性を与えられた資本制生産様式がその構造的必然として人間疎外と不平等とを生むことを論証し,私有財産制の否定に社会的平等の条件を見いだした社会主義思想である。すでに早く,《人間不平等起源論》において私有財産制に文明社会の悪の源泉を見いだしたJ.J.ルソーは,〈事物の力はつねに平等を破壊しがちであるから,法の力がこれを維持しなければならない〉(《社会契約論》)と述べていた。ルソーの直接の論難対象はアンシャン・レジームの身分制にあったとしても,後代の社会主義者にとって,〈事物の力〉を資本主義経済に,〈法の力〉を社会主義や共産主義の制度に読みかえることは容易であった。…
… しかしラモーのころ,時代は反古典主義の兆しをみせはじめていた。イタリアの喜劇一座によるペルゴレーシの幕間劇《奥様になった女中》の上演(1752)が,イタリア歌劇支持のJ.J.ルソーほか百科全書派をラモーたちフランス伝統派に挑戦させた一種の新旧論争であった〈ブフォン論争〉の火ぶたを切らせた。その際ルソーは自ら《村の占師》(1752)を作曲したが,これはオペラ・コミックに新しい道を準備したものといえるであろう。…
… フレーベルの教育思想の根底には,汎神論的色彩の濃い宗教観と特有なロマン主義的世界観・人間観が横たわっているが,それはいわば生涯のテーマであった〈生の合一〉という理念に集約的に表現されている。教育思想史上の系譜からいえば,J.J.ルソーの自然主義や消極教育論,ペスタロッチの基礎陶冶論や民衆教育の思想,フィヒテの国民教育論などからの影響を強く受けているが,それらをふまえ,19世紀前半から中葉にかけてのドイツにおいて,近代的な統一国民国家の形成という歴史的課題をも念頭におきつつ,自由で自立的な国民の形成へと通じる人間教育の課題を,とりわけ幼児教育の領域で実践的に追求し,独自な教育の理論と思想を結実させていった。それは児童神性論や受動的・追随的教育論,共同感情論,人間の連続的発達観などによって特色づけられるが,なかでも子どもの自己活動の原理にもとづく遊びと作業教育の理論には,現在なお学ぶべきものが多く含まれている。…
…また,逆に民族音楽学における民族科学ethno‐science的な側面を強調して,この方法論を前面に出した研究のみを〈民族音楽学〉と呼ぼうという向きもある。 ヨーロッパにおける民族音楽学的な関心の萌芽はすでにJ.J.ルソーにみられ,その《音楽辞典》(1768)には中国やペルシアを含む異民族の旋律が数曲採譜・収録されている。しかしこの背景には,それに先立つ数多くのヨーロッパ人の旅行家,探検家,宣教師,交易商人らによる東洋,アフリカ,新大陸の旅行記に記された異国の音楽に関する民族誌の存在があった。…
…そして,18世紀になって,観念体系の主軸に神に代わって〈人間〉を置く啓蒙思想がひろがるなかで,万人の〈人間性〉の完成と社会の〈進歩〉が人間としての理想とされた。たとえば,ルソーは,身分その他を超えてすべてのものに対して人間的であることを要請し,人間にとって〈人間愛以外になんの知恵があるか〉(《エミール》)と説き,カントは,理性的意志にもとづいて,隣人への愛を義務として自発的に実行することに真の道徳性をみた。このような人間性と進歩の理想は,友愛を人道主義的博愛(人間愛)として理念化し,教育や政治におけるイデオロギー的主導観念にまで高めた。…
…しかしこういう公論あるいは世論の解釈には,明らかに西欧市民国家の政治理論の影響がみられる。 西欧近代社会において世論opinion publiqueという語が初めてつかわれるのは,J.J.ルソーの《社会契約論》(1762)においてだとされている。そこでルソーは,世論を習俗や慣習と並んで〈国家の真の憲法をなすもの〉〈人民にその建国の精神(社会契約)〉を呼びさますものとしているが,それ以上の追求をしていない。…
…名称は,パリの南東郊,フォンテンブローの森のはずれの村バルビゾンに由来する。T.ルソーは1847年より,ミレーは1849年よりこの村に定住し,ほかにジャックCharles Jacque(1813‐94),ドービニー,ディアズNarcisse Diaz de la Peña(1807‐76)らが長期ないし短期間住んで,ともに風景画の制作に励んだ。バルビゾン派の起源は,フランス国内ではG.ミシェル,バランシエンヌP.H.de Valenciennes,コローらの風景画が,構成された理想風景からしだいに離れて,自然観察をもとに現実の風景美をたたえるようになったこと,さらにはこのような流れをさかのぼると17世紀オランダの風景画があり,自国のありのままの自然をうたいあげるロイスダール,ホッベマ,ファン・オスターデらの作品が彼らを魅了したことが考えられる。…
※「ルソー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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