ドイツの映画監督。フリッツ・ラングとともに〈表現主義の映画〉のもっとも重要な監督とみなされる。ドイツ西部のビーレフェルトに生まれ,ハイデルベルク大学で美術史と文学史を学んだのちベルリンへ出て,演劇界の重鎮マックス・ラインハルトのもとで俳優,演出助手として指導をうける。第1次世界大戦に戦闘機のパイロットとして従軍するが,スイスに不時着して,戦争終結までベルンのドイツ大使館の宣伝映画製作に従事した。
戦後,ドイツに帰って1919年に監督としてスタート,イギリスの作家ブラム・ストーカーの小説《吸血鬼ドラキュラ》(1897)を映画化した《ノスフェラトゥ》(1922)で,様式化されたセットを使わずにロケーションで恐怖と怪奇感を描きだし,異色の表現主義映画として世界に衝撃をあたえた。次いで,《最後の人》(1924)は,〈文学からの借りもの〉である会話や説明の字幕をいっさい排除し,カメラを自由奔放に駆使して〈視覚的なことば〉で全編をつづった画期的な作品となった。しかし,つづく《タルチュフ》(1925)と《ファウスト》(1926)が興行的に失敗し,27年,ウィリアム・フォックスの招きでハリウッドに渡り(アメリカでは《最後の人》がサイレント映画の最高傑作と評価され,ヒットしていた),ドイツ時代からの協力者であるカール・マイヤーの脚本とフォックスの財政的な支持を得,大がかりなセットだけで,移動撮影による映像美が映画史上の語り草になっているサイレント映画の最高峰の一つ《サンライズ》(1927)をつくった。ハリウッドにおける第4作《タブウ》(1931)は,ドキュメンタリー作家ロバート・フラハティとの共同で始まったトーキー作品だが,南太平洋の島民を描く方法をめぐって個性的な2人の意見が衝突し,結局,ムルナウ作品として完成した。この作品は興行的にも成功するのだが,その初公開の1週間前,ムルナウは自動車事故により42歳で悲劇的な死をとげた。
ムルナウの21本の作品のうち9本はネガもプリントも失われ,残存するもののうちでも数本は不完全なものでしかない。死後には,ドイツではほとんどその名は知られず,フランスでは《ノスフェラトゥ》と《タブウ》によって評価されてきたものの,アメリカではその悲劇的な事故死も無視され,忘れ去られた〈巨匠〉となったが,58年のブリュッセル万国博で《最後の人》が映画史上のベスト12の1本(第11位)に選ばれてから,再評価がされ始めた。
執筆者:柏倉 昌美
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ドイツの映画監督。本名はF・W・プルンペ。ビーレフェルトに生まれる。ハイデルベルク大学で美術史を学び、ラインハルトのもとで俳優を経験。第一次世界大戦下のスイスで宣伝映画の仕事に携わり、1919年にドイツ映画界に入る。表現主義的手法で一連の秀作を生み、1922年に野外撮影を駆使した『吸血鬼ノスフェラトゥ』を発表、ドラキュラ伝説を映画化したこの作品は、幻想映画の傑作となる。ついで老ドアマンの悲劇を描いた『最後の人』(1924)は、無字幕映画でありながら、自由に移動するカメラが主人公の心理を活写し、サイレント映画史上画期的な作品となった。1926年に渡米。都会の誘惑と農村社会の危機を題材にした『サンライズ』(1927)を発表、流麗なカメラワークによる情景描写が絶賛される。その後、ロバート・フラハティとの共作『タブウ』(1931)を信念の相違から独自に完成させるが、封切り直前にカリフォルニアで自動車事故により死亡した。
[奥村 賢 2022年6月22日]
サタン Satanas(1919)
ジェキル博士とハイド氏 Der Januskopf(1920)
フォーゲレット城 Schloß Vogelöd(1921)
吸血鬼ノスフェラトゥ Nosferatu, eine Symphonie des Grauens(1922)
燃ゆる大地 Der brennende Acker(1922)
ファントム Phantom(1922)
最後の人 Der Letzte Mann(1924)
タルチュフ Herr Tartüff(1925)
ファウスト Faust:Eine deutsche Volkssage(1926)
サンライズ Sunrise:A Song of Two Humans(1927)
四人の悪魔 4 Devils(1928)
都会の女 City Girl(1930)
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ロベルト・ウィーネ監督の《カリガリ博士》(1919)がその典型で,〈怪奇映画の真の青写真〉と呼ばれ,〈狂人博士―怪物―襲われる美女〉のパターンをつくった映画ともいわれている。次いでブラム・ストーカー原作《吸血鬼ドラキュラ》の初の本格的な映画化であるF.W.ムルナウ監督の《ノスフェラトゥ》(1922)が現れる。すでに,大戦1年目の14年に,《ノスフェラトゥ》の脚本を書いたヘンリク・ガーレンの脚本,シュテラン・ライとパウル・ウェゲナー監督で,ユダヤ伝説による《ゴーレム》の初の映画化が行われるなど,サイレント期のドイツ映画が,怪奇と幻想映画の源流であったのは確かである。…
…例えばフランスでは,アベル・ガンスが《鉄路の白薔薇》(1923)をつくり,グリフィスのモンタージュを視覚的なリズムによる心理的なモンタージュに発展させ,カール・ドライヤーは《裁かるるジャンヌ》(1928)で大胆なカメラアングルと,クローズアップを最大限に活用したモンタージュでそれまでの常識を破り,〈サイレント映画〉形式の一つの頂点を示した。また,ドイツ映画の黄金時代(古典時代)を代表するフリードリヒ・W.ムルナウの《最後の人》(1925)は,文学的な借物であるタイトル(字幕)を排除し,カメラを自由奔放に駆使して映画以外の手段では不可能な映画的表現を開拓した。映画を純視覚的な時間芸術に還元するドイツの〈絶対映画〉や,純粋に感性的で視覚的なリズムの芸術としてのフランスの〈純粋映画〉も現れた。…
…サイレント映画の最後の頂点を示す作品として映画史に記録されるF.W.ムルナウ監督による1927年製作のアメリカ映画。原作はH.ズーデルマンの《ティルジットへの旅》(1917)。…
…第1次世界大戦後の〈表現主義映画〉,そこから出発して国際的な評価を得たエルンスト・ルビッチ,フリッツ・ラング,F.W.ムルナウ,G.W.パプストといった監督たち,レニ・リーフェンシュタールのオリンピック記録映画によって代表される1930年代のナチス宣伝映画,そして国際的なスターとして知られるウェルナー・クラウス,コンラート・ファイト,マルレーネ・ディートリヒ,アントン・ウォルブルック,クルト・ユルゲンス,ホルスト・ブーフホルツ,ヒルデガルド・クネフ(アメリカではヒルデガード・ネフ),ロミー・シュナイダー,マリア・シェル,マクシミリアン・シェル,ゲルト・フレーベ等々の名が,〈ドイツ映画〉のイメージを形成しているといえよう。以下,第2次大戦後,東西二つのドイツに分割されて政治的対立の下に映画活動も衰退せざるを得なくなるまでの動きを追ってみる。…
…12年にはイギリスのハーバート・G.ポンティングがロバート・スコットの南極探険隊に同行して1時間30分の記録映画《スコットの南極探険隊》を撮って反響を呼んだが(のち1933年には《南緯九十度》の題でまとめた),それらは〈紀行映画〉と呼ばれ,いわゆる〈ドキュメンタリー〉の先駆は,フラハティがエスキモーのきびしい日常生活のたたかいを描いた《極北の怪異》(1922)とされる。フラハティはハリウッドのメジャー会社パラマウントに注目されて《モアナ》を撮り,つづいてW・S・バン・ダイク監督の《南海の白影》(1928)とF.W.ムルナウ監督の《タブウ》(1931)という2本の〈劇映画〉に協力させられるが,ハリウッドの商業主義と折り合いがつかず,イギリスに渡り,プロデューサーのマイケル・バルコンに完全な自由をあたえられて,北アイルランドのアラン諸島の孤島できびしい自然とたたかう人間の生活を描いた《アランMan of Aran》(1934)をつくり,ドキュメンタリーの先駆的開拓者としての業績によって,〈ドキュメンタリーの父〉と評されるに至った。
[第2次大戦前のドキュメンタリー]
アメリカでは,フラハティの作品のほか,のちに特撮怪獣映画《キング・コング》(1933)を製作するメリアン・C.クーパーとアーネスト・B.シェードサックのコンビが,遊牧イラン民族を描いた《地上》(1926)やタイの稲作農民を描いた《チャング》(1927),探険家マーティン・E.ジョンソン夫妻が野獣の生態を撮影した《アフリカ遠征》(1923)などがつくられた。…
※「ムルナウ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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