ファウスト(読み)ふぁうすと(英語表記)Faust

翻訳|Faust

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ファウスト」の意味・わかりやすい解説

ファウスト(ゲーテの悲劇)
ふぁうすと
Faust

15、16世紀のドイツに実在した人物ゲオルクまたはヨハネス・ファウストの名前と結び付いたファウスト伝説、およびとくにゲーテの悲劇『ファウスト』の主人公の名。また「ファウスト的人間」などのようにドイツ民族の特質を言い表す類型的概念としても用いられる。

 ゲーテの悲劇『ファウスト』は、ファウスト伝説を素材にしているとはいえ、それと厳密に区別されなければならない。この作品の執筆開始は『若きウェルテルの悩み』(1774)とほぼ同じ時期にさかのぼり、ワイマール移住直後の1775年12月に、ゲーテは早くもその一部を友人たちの前で朗読している。その後10年を経てローマに滞在中、ゲーテは作品を完成しようとして果たさず、90年に『ファウスト断片』として印刷に付してしまった。『ファウスト』全編の第一部が出版されたのは1808年のことであり、第二部は作者の死後(1832年3月22日没)、その年の秋に初めて公表された。ゲーテがもっとも苦心したのは、悪魔に魂を売って悲惨な最期を遂げる伝説上のファウストにいかにポジティブな近代的性格を賦与するかということであった。また第一部の個性的特徴と第二部の類型的特徴を内容・形式の面でいかに両立させるかということであった。

 ゲーテがこうして60年の歳月を費やして完成した悲劇『ファウスト』には、「献詩」「舞台での前戯」「天上の序曲」という三つの詩的な序章があり、これらのあと第一部の小世界、第二部の大世界において主人公の悪魔メフィストフェレスとの遍歴の旅が繰り広げられる。認識と活動の不一致に悩む近代人ファウストは「世界を奥の奥で統(す)べているもの」を究めえないことに絶望し毒杯を仰ごうとするが、復活祭の鐘の音で呼び覚まされた幼時の追憶によって自殺を思いとどまる。そしてその後メフィストフェレスを道連れに、市民の娘グレートヒェンとの恋愛、皇帝の居城での宮廷生活、古代ギリシアの神話的世界、専制君主としての干拓事業などを次々に体験していくのである。悪魔と結託しているためつねに罪過を犯さざるをえないファウストが最後に救われるのは、「よい人間はたとえ暗い衝動に促されても、正しい道を忘れることはない」という主のことばにみられるようなゲーテの偉大なオプティミズムのためである。永遠に努力するファウスト的人間がヨーロッパ人、とりわけドイツ人の原型であるというような見方はこのような人間観に根ざしているが、「ファウスト的衝動」の過大評価は、20世紀前半のドイツ現代史に多くの禍根を残すことになった。

[木村直司]

音楽

ゲーテの『ファウスト』を基にした音楽作品は数多く、それらの大半は19世紀中期に生み出されている。なかでも代表的なのは、フランスのグノーが1859年に完成した同名のオペラ(全五幕)である。バルビエとカレの台本によるこの作品は原作の第一部に基づき、美しい旋律と色彩豊かで洗練された管弦楽法により、フランス・オペラを代表する名作の一つに数えられている。マルガレーテの歌う「宝石の歌」はとくに有名で、のちに付け加えられたバレエ音楽も人気が高い。またアリゴ・ボイトが自らの台本を基に1868年に完成したオペラ『メフィストフェレ』は原作の第一部と第二部によるが、歌劇化にあたって多少手が加えられている。ワーグナーの影響を受けた効果的な舞台づくりは、ベルディ以後のイタリア・オペラに新しい方向を示したといえよう。なおオペラとしては、ほかにフェルッチョ・ブゾーニが未完のまま残し、弟子によって1925年に完成された『ファウスト博士』があり、またベートーベンもこの作品に基づいた歌劇を構想していたが、実現せずに終わった。

 歌劇以外にも『ファウスト』による作品は数多い。『ファウストの却罰(ごうばつ)』は、ベルリオーズが1846年に完成した独唱、合唱と管弦楽のための「劇的物語」(作品24)で、原作のフランス語訳を台本とし、「ハンガリー(ラコッツィ)行進曲」などの有名な管弦楽小品を含む。『ゲーテの〈ファウスト〉からの場面』は、ローベルト・シューマンが1853年に完成した合唱と管弦楽のためのオラトリオ。『ファウスト交響曲』はリストが1854年に作曲した三楽章からなる交響曲で、第一楽章「ファウスト」、第二楽章「グレートヒェン」、第三楽章「メフィストフェレス」と、各楽章に登場人物の性格があてられ、標題音楽的性格を強めている。また、マーラーが交響曲第八番変ホ長調「一千人の交響曲」(1906)の第二部テキストに、終幕の場を用いていることも珍しい例としてあげられよう。

[三宅幸夫]

『道家忠道訳編『ファウスト その源流と発展』(1974・朝日出版社)』『小塩節著『ファウスト――ヨーロッパ的人間の原型』(1972・日本YMCA同盟出版部)』『木村直司著『ゲーテ研究』正続(1976、83・南窓社)』『『ファウスト』全二冊(相良守峯訳・岩波文庫/手塚富雄訳・中公文庫)』


ファウスト(ロック・バンド)
ふぁうすと
Faust

ドイツのロック・バンド。バンド名のファウストはドイツ語で「拳骨」の意味。さまざまな実験が繰り返された1970年代ジャーマン・ロック・シーンのなかでも、表現がもっとも先鋭的であったバンド。彼らが行った通常の楽音以外の音(ノイズ)の積極的導入、複雑なエフェクト処理と卓抜したエンジニアリングによる新しい音響の創出、手法としてのサンプリング、カットアップ、コラージュ等々は、1980年代なかば以降ヒップ・ホップとエレクトロニクスを軸に更新を続け、ファウストの音楽は新しいスタイルの先例となった。

 1969年、二つの異なる実験音楽のバンドが合体してファウストは結成された。音楽・映画ジャーナリストであったウーベ・ネッテルベックUwe Nettelbeckが、「第二のビートルズをつくろう」とドイツ・ポリドール社を説得して巨額の資金を提供させ、1971年、ネッテルベックをプロデューサーにたてファウストのプロジェクトは具体的にスタートした。彼らは全員で、ブレーメンとハンブルクの間にあるビュンメという小さな町の廃校を改築したスタジオ兼住居に合宿しながら、自由にリハーサルやテープづくりを開始する。結成時のメンバーはウェルナー・ディーアマイアーWerner Diermaier(ドラム)、ジャン・エルベ・ペロンJean-Hervé Peron(ギター、ベース)、ハンス・ヨアヒム・イルムラーHans-Joachim Irmler(キーボード)、ルドルフ・ゾスナRudolf Sosna(ギター)、グンター・ビュストフGunter Wüsthoff(サックス)、アルヌルフ・マイフェルトArnulf Meifert(ドラム)の6人。これに、ポリドールのエンジニアだったクルト・グラウプナーKurt Graupnerが専属のサウンド・エンジニアとしていっしょに寝起きする形で、バンドが気ままに出すアイデアを丹念に記録し、編集していった。1971年にポリドールから『ファースト・アルバム』をリリースし、デビュー。無数のアイデアとフラグメントのつぎはぎからなるニヒルな音響群は、エンジニアが実際の演奏者と同等に「演奏する=音を操作する」という1990年代以降の状況を予言していた。だが、そのサウンドはあまりにも斬新すぎたため、1972年のセカンド・アルバム『ソー・ファー』では、「あまりにも遠く(so far)に行きすぎるな」というネッテルベックの指示で、4ビートなどノーマルな音楽語法の曲が大半を占め、ポップ・ミュージックとしての体裁を表面上は整えることとなった。しかし、細部に注ぎこまれた毒気とアナーキックな情動は隠しようもなく、ファースト・アルバム同様、このバンドがほかのロック・バンドとはまったく別の世界を目ざしていることを表していた。

 結局この2枚の商業的失敗によってポリドールから契約を切られたファウストは、イギリスで立ち上げられたばかりのバージン・レコードと新たに契約を結び、1973年には『ザ・ファウスト・テープス』The Faust Tapesおよび『』を発表。前者は、それまでに録りためていた音源を編集して、プロモーションのために超廉価でリリースされたものだが、ファースト・アルバムと同様の破壊性に満ちていた。後者は、バージンのマナー・スタジオで録音されたものだが、メンバーのあずかり知らぬ形で適当にまとめられており、またバンド内のモチベーションそのものの低下もあり、かなり毒が薄まっていた。結局これを最後に、ネッテルベックとグラウプナーはファウストを離れ、その後まもなくバンドも解体する。

 しかし、1980年代末期に、ディーアマイアー、ペロン、イルムラーが活動を再開し、『リアン』Rien(1995)や『ユー・ノウ・ファウスト』(1996)、『ラッビバンド』(1999)などを発表し、ライブも頻繁に行った。『リアン』を、シカゴ音響派の頭目ジム・オルークJim O'Rourke(1969― )がプロデュースしていることにも、ファウストの今日性、あるいは超時代性が示されている。

[松山晋也]

『明石政紀著『ドイツのロック音楽 またはカン、ファウスト、クラフトワーク』(1997・水声社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ファウスト」の意味・わかりやすい解説

ファウスト
Faust

ドイツの詩人,小説家,劇作家ゲーテの詩劇。第1部 1808年,第2部 32年刊。 24歳の頃にファウスト伝説に触発されて筆を起した『初稿ファウスト』 Urfaust (1775) から約 60年にわたって書き進められた畢生の大作。無限の探究精神をもったファウストは,あらゆる学問にも満足せず,悪魔メフィストフェレスと契約を結び,宇宙の神秘を探り人生を味わいつくして,「ある瞬間に向って,とどまれ,お前はいかにも美しい」と言いうるなら,魂を引替えにしてもよいとした。第1部は純真な乙女グレートヒェンとの恋と赤子殺しの罪による彼女の刑死をもって終る。第2部では大世界に乗出したファウストがさまざまな苦難を経て現世的な国家経営に満足を得て魂の救済も得る。ゲーテの思想と文学が混然と集約された代表作で,世界文学史上の傑作。

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