ラインハルト(読み)らいんはると(英語表記)Max Reinhardt

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラインハルト」の意味・わかりやすい解説

ラインハルト(Django Reinhardt)
らいんはると
Django Reinhardt
(1910―1953)

ベルギージャズ・ギター奏者。中南部リベルシー生まれのロマ民族。本名ジャン・バティスト・ラインハルトJean Baptiste Reinhardt。母親はダンサー、歌手。少年時代からヨーロッパ各地を移動生活しながら、12歳でバイオリン、ギター、バンジョーを習得、ダンス・ホール、カフェなどで演奏する生活をおくる。このころからパリにも赴(おもむ)き、ジャズを含めたアメリカン・ポピュラー・ミュージックに触れている。1928年、アコーディオン奏者のサイドマンとしてバンジョーを弾いているのが現存する彼の最初の音源。同年、彼らのキャラバンが火災を起こし左手に火傷(やけど)を負い、それがもとでギタリストにとって大切な左手の薬指と小指が自由に使えなくなるが、残りの指で弦を押さえる独特の奏法を編み出す。傷が治癒するとベルギー、フランスを行き来し、ギター奏者としてダンス・バンドのサイドマンなどに雇われるようになる。

 1931年、フランスのジャズ・バイオリン奏者ステファン・グラッペリStephane Grappelli(1908―1997)と知り合い、後に同じホテルのオーケストラで働くようになるが、それが縁で2人は気ままなセッションを重ねる。メンバーはこの2名に、ギター奏者であるジャンゴの弟ジョゼフ・ラインハルトJoseph Reinhardt(1912―1982)、ジャンゴの従兄弟のギター奏者ロジャー・チャプトRoger Chaput(1909―1994)、それにベース奏者のルイ・ボラLouis Vola(1902―1990)の5名で、彼らが楽屋で演奏するのを聴き、フランスのジャズ評論創始者ユーグ・パナシェHugues Panassié(1912―1974)がこのグループをファンに紹介するためのコンサートを開く。これがきっかけとなり1934年、グラッペリとの双頭バンド「フランス・ホット・クラブ五重奏団」が成立する。バンド名は1932年パナシェによって設立されたジャズ・ファン・クラブ「ホット・クラブ・オブ・フランス」にちなんで命名された。グループ設立後ただちにレコーディングが行われ、そのレコードを通じて翌1935年には世界的にその名を知られるようになり、ヨーロッパ各地を巡演する。彼らの演奏は、パリを訪れたテナー・サックス奏者コールマン・ホーキンズ、アルト・サックス奏者ベニー・カーターBenny Carter(1907―2003)らアメリカ人ジャズマンにも感銘を与えた。

 1939年グラッペリが五重奏団を離れ、1940年代はクラリネット奏者ユベール・ロスタンHubert Rostaing(1918―1990)が加わり、これに通常のピアノ・トリオがつく新たな5人編成で、バンド名も「ジャンゴ・ラインハルト・スーベニアーズ」と変わる。

 第二次世界大戦中もナチス占領下のフランスで演奏を続け、戦後1946年ピアノ奏者デューク・エリントンの招待でアメリカを訪れ、エリントン・バンドのゲストとしてコンサート・ツアーを行う。彼の演奏記録の集大成として『ジャンゴ・ラインハルト・オン・ヴォーグ』(1934~1952)などがある。

 彼のギター奏法はロマの伝統に根ざし、アメリカのジャズ・ギターの系譜とはまったく異質なところから出ており、そのためアメリカのギター奏者への影響はさほど大きくない。しかし天性のリズム感覚と奔放な即興演奏がもたらす音楽的躍動感は、ロマ特有の哀感に満ちたメロディをまさに「ジャズ」としてしまった。ヨーロッパでは圧倒的な影響力を持ったギター奏者である。

[後藤雅洋]


ラインハルト(Max Reinhardt)
らいんはると
Max Reinhardt
(1873―1943)

オーストリアの演出家。9月9日ウィーン郊外バーデンに生まれる。初めオットー・ブラームにみいだされて、ベルリンのドイツ座の老役(ふけやく)俳優になったが、無味乾燥な自然主義に飽き足らずに独立し、『どん底』や『サロメ』の演出で新傾向を示した。1905年にブラームからドイツ座を引き継ぎ、回り舞台を駆使したスペクタクル的な『真夏の夜の夢』で不動の地位を獲得した。また、ドイツ座に併設したカンマーシュピーレ(小劇場)では、ウェーデキントやストリンドベリの心理的な近代劇を上演した。舞台は観客に現実とは別のイリュージョンを与えるべきだと考え、抽象的・象徴的な舞台をつくりだし、すべての劇形式、劇空間を貪婪(どんらん)に追求した。サーカスを使って『オイディプス王』を上演したり、教会で中世劇や大規模な黙劇『奇跡』などを試み、欧米各地に巡業して成功を収めた。また『ばらの騎士』以来多くのオペラをも演出、1920年の野外劇『イェーダーマン』に始まるザルツブルク音楽祭を実現させた。第一次世界大戦中すでに表現主義演劇に着目し、ゾルゲの『乞食(こじき)』やゲーリングの『海戦』をいち早く上演している。戦後はピランデッロを発見したり、バーナード・ショー作品の新演出を行ったが、ドイツ座25周年の祝賀の際に「俳優に告ぐ」という演説を残し、ナチス前夜にベルリンを去り、さらにアメリカ亡命を余儀なくされた。アメリカでは映画の仕事にも手を染めたが困難が多く、晩年は不遇で、43年10月31日ニューヨークに没した。理論的著作は少ないが、克明な演出台本が残されている。

[岩淵達治]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラインハルト」の意味・わかりやすい解説

ラインハルト
Reinhardt, Max

[生]1873.9.9. バーデン
[没]1943.10.31. ニューヨーク
オーストリアの演出家。本名 Goldmann。 O.ブラームらに認められ,俳優としてドイツ座に出演したが,1903年演出に転じ,照明,音楽,音響などを駆使して,戯曲の文学性よりも視覚的要素を重視した想像力豊かな舞台をつくりだした。ウィーンにおける『オイディプス大王』 (1910) ,ロンドンの『奇跡』 (11) などのスペクタクル的舞台が有名であるが,1920年代にはウィーンおよびベルリンの劇場で,古典から現代にいたる多くの作品を演出した。ヒトラーの台頭後は海外で活動を続け,34年にはハリウッドで映画『夏の夜の夢』を演出。 38年以後はアメリカに永住した。

ラインハルト
Reinhart, Johann Christian

[生]1761.1.24. ホーフ
[没]1847.6.9. ローマ
ドイツの画家,エッチング (銅版画) 作家。ライプチヒとドレスデンで修業,1789年以降ローマ,ナポリで活躍した。シラーの影響を受け,牧歌調の英雄伝説的な風景を描き,エッチングも制作した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android