ラインハルト(読み)らいんはると(英語表記)Django Reinhardt

デジタル大辞泉 「ラインハルト」の意味・読み・例文・類語

ラインハルト(Max Reinhardt)

[1873~1943]オーストリア生まれの演出家。俳優から転じ、ベルリンのドイツ劇場支配人となり、古典から現代劇までを大胆な演出で上演、演出術の可能性を大きく広げた。

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精選版 日本国語大辞典 「ラインハルト」の意味・読み・例文・類語

ラインハルト

  1. ( Max Reinhardt マックス━ ) オーストリア生まれのドイツの演出家、劇場経営者。一九〇五年ベルリンのドイツ座支配人となり、以後新古典派、象徴派、表現主義などの戯曲演出に新機軸を開き、絢爛・雄大な舞台創造で一時代を画した。三八年以降はアメリカで活躍。(一八七三‐一九四三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラインハルト」の意味・わかりやすい解説

ラインハルト(Django Reinhardt)
らいんはると
Django Reinhardt
(1910―1953)

ベルギーのジャズ・ギター奏者。中南部リベルシー生まれのロマ民族。本名ジャン・バティスト・ラインハルトJean Baptiste Reinhardt。母親はダンサー、歌手。少年時代からヨーロッパ各地を移動生活しながら、12歳でバイオリン、ギター、バンジョーを習得、ダンス・ホール、カフェなどで演奏する生活をおくる。このころからパリにも赴(おもむ)き、ジャズを含めたアメリカン・ポピュラー・ミュージックに触れている。1928年、アコーディオン奏者のサイドマンとしてバンジョーを弾いているのが現存する彼の最初の音源。同年、彼らのキャラバンが火災を起こし左手に火傷(やけど)を負い、それがもとでギタリストにとって大切な左手の薬指と小指が自由に使えなくなるが、残りの指で弦を押さえる独特の奏法を編み出す。傷が治癒するとベルギー、フランスを行き来し、ギター奏者としてダンス・バンドのサイドマンなどに雇われるようになる。

 1931年、フランスのジャズ・バイオリン奏者ステファン・グラッペリStephane Grappelli(1908―1997)と知り合い、後に同じホテルのオーケストラで働くようになるが、それが縁で2人は気ままなセッションを重ねる。メンバーはこの2名に、ギター奏者であるジャンゴの弟ジョゼフ・ラインハルトJoseph Reinhardt(1912―1982)、ジャンゴの従兄弟のギター奏者ロジャー・チャプトRoger Chaput(1909―1994)、それにベース奏者のルイ・ボラLouis Vola(1902―1990)の5名で、彼らが楽屋で演奏するのを聴き、フランスのジャズ評論創始者ユーグ・パナシェHugues Panassié(1912―1974)がこのグループをファンに紹介するためのコンサートを開く。これがきっかけとなり1934年、グラッペリとの双頭バンド「フランス・ホット・クラブ五重奏団」が成立する。バンド名は1932年パナシェによって設立されたジャズ・ファン・クラブ「ホット・クラブ・オブ・フランス」にちなんで命名された。グループ設立後ただちにレコーディングが行われ、そのレコードを通じて翌1935年には世界的にその名を知られるようになり、ヨーロッパ各地を巡演する。彼らの演奏は、パリを訪れたテナー・サックス奏者コールマン・ホーキンズ、アルト・サックス奏者ベニー・カーターBenny Carter(1907―2003)らアメリカ人ジャズマンにも感銘を与えた。

 1939年グラッペリが五重奏団を離れ、1940年代はクラリネット奏者ユベール・ロスタンHubert Rostaing(1918―1990)が加わり、これに通常のピアノ・トリオがつく新たな5人編成で、バンド名も「ジャンゴ・ラインハルト・スーベニアーズ」と変わる。

 第二次世界大戦中もナチス占領下のフランスで演奏を続け、戦後1946年ピアノ奏者デューク・エリントンの招待でアメリカを訪れ、エリントン・バンドのゲストとしてコンサート・ツアーを行う。彼の演奏記録の集大成として『ジャンゴ・ラインハルト・オン・ヴォーグ』(1934~1952)などがある。

 彼のギター奏法はロマの伝統に根ざし、アメリカのジャズ・ギターの系譜とはまったく異質なところから出ており、そのためアメリカのギター奏者への影響はさほど大きくない。しかし天性のリズム感覚と奔放な即興演奏がもたらす音楽的躍動感は、ロマ特有の哀感に満ちたメロディをまさに「ジャズ」としてしまった。ヨーロッパでは圧倒的な影響力を持ったギター奏者である。

[後藤雅洋]


ラインハルト(Max Reinhardt)
らいんはると
Max Reinhardt
(1873―1943)

オーストリアの演出家。9月9日ウィーン郊外バーデンに生まれる。初めオットー・ブラームにみいだされて、ベルリンのドイツ座の老役(ふけやく)俳優になったが、無味乾燥な自然主義に飽き足らずに独立し、『どん底』や『サロメ』の演出で新傾向を示した。1905年にブラームからドイツ座を引き継ぎ、回り舞台を駆使したスペクタクル的な『真夏の夜の夢』で不動の地位を獲得した。また、ドイツ座に併設したカンマーシュピーレ(小劇場)では、ウェーデキントストリンドベリの心理的な近代劇を上演した。舞台は観客に現実とは別のイリュージョンを与えるべきだと考え、抽象的・象徴的な舞台をつくりだし、すべての劇形式、劇空間を貪婪(どんらん)に追求した。サーカスを使って『オイディプス王』を上演したり、教会で中世劇や大規模な黙劇『奇跡』などを試み、欧米各地に巡業して成功を収めた。また『ばらの騎士』以来多くのオペラをも演出、1920年の野外劇『イェーダーマン』に始まるザルツブルク音楽祭を実現させた。第一次世界大戦中すでに表現主義演劇に着目し、ゾルゲの『乞食(こじき)』やゲーリングの『海戦』をいち早く上演している。戦後はピランデッロを発見したり、バーナード・ショー作品の新演出を行ったが、ドイツ座25周年の祝賀の際に「俳優に告ぐ」という演説を残し、ナチス前夜にベルリンを去り、さらにアメリカ亡命を余儀なくされた。アメリカでは映画の仕事にも手を染めたが困難が多く、晩年は不遇で、43年10月31日ニューヨークに没した。理論的著作は少ないが、克明な演出台本が残されている。

[岩淵達治]

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改訂新版 世界大百科事典 「ラインハルト」の意味・わかりやすい解説

ラインハルト
Max Reinhardt
生没年:1873-1943

ドイツの演出家。オーストリアのバーデン生れ。俳優としてO.ブラームに発見され,1894年からベルリンのドイツ座に登場したが,やがてブラーム的な自然主義を離れて1902年に独立。象徴的,新ロマン主義的な新しい傾向を示す作品《どん底》や《サロメ》の上演に成功して,05年にはブラームに代わってドイツ座の監督となり,回り舞台を駆使した《真夏の夜の夢》で演出家としての評価を決定づけた。〈劇場の魔術師〉とよばれた彼は,感覚的でスペクタクル的な演出によって,当時の禁欲的な自然主義にあきた観客をイリュージョン的な雰囲気に巻き込んだが,一方では演劇に〈真の演劇性〉を回復することを目ざし,新しい演劇空間の発見に努めた。06年に彼がドイツ座に併設した室内劇場(カンマーシュピール)は,いわゆる小劇場運動の嚆矢(こうし)であったし,また,観客と舞台の交流をはかるために狭い額縁舞台の枠をとりはずして,サーカス小屋,寺院,野外などでの上演も試みた。また,黙劇,オペラ,映画などにも手を染め,A.ストリンドベリ,F.ウェーデキント,表現主義の初期作品などの舞台化にも成功した。一時は私立劇場の側からベルリンの演劇界に君臨し,外国でも数多く客演した。

 第1次大戦後も5000人劇場を開場し,H.vonホフマンスタールと協力して〈ザルツブルク祝祭劇場〉を創始した。戦後全盛をきわめた表現主義演劇の抽象的,政治的な傾向には批判的で,一時はウィーンのヨーゼフシュタット劇場に移り,ここで俳優を中心とする対話劇の伝統を守ろうとした。のち,ふたたびベルリンにも戻って,二都を活動の場としたが,時流からみるとやや保守的な立場におしやられた。1933年にナチスが政権に就くと,ユダヤ人の彼はドイツを離れざるをえなくなり,ドイツ・オーストリア合併の時期までウィーンで活動を続け,38年にアメリカに亡命した。映画《真夏の夜の夢》を監督した以外はアメリカでは十分な活動の場をもつことができず,不遇のうちに世を去った。
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百科事典マイペディア 「ラインハルト」の意味・わかりやすい解説

ラインハルト

ドイツの演出家。オーストリア,バーデンの生れ。俳優としてブラームに師事,1903年演出に転じ,1905年《夏の夜の夢》で成功。大劇場でホフマンスタールシェークスピアを上演する一方,室内劇場(カンマーシュピール)を創設し,イプセンハウプトマンなどの近代劇を紹介。大規模な舞台と生気ある演出で〈劇場の魔術師〉とよばれた。1905年ドイツ座支配人,1920年ホフマンスタールとともにザルツブルク音楽祭を創始,ドイツ劇壇の帝王的存在であった。1938年米国へ亡命。
→関連項目千田是也バティペルツィヒ民衆劇場ムルナウリーフェンシュタールルーシェ

ラインハルト

ベルギー出身のジャズ・ギター奏者。ジャズ界に影響を与えた数少ないヨーロッパのジャズ・ミュージシャンの一人。18歳のときに火事で左手を負傷し,小指と薬指が不自由となった。後に独自の運指によるギター奏法を編み出して,S.グラッペリらとのフランス・ホット・クラブ五重奏団Quintette du Hot Club de Franceでジャズの新境地を開いた。ジプシーの音楽に根ざしたギター・スタイルは,米国のジャズ界に新しい刺激を与え,1946年にはD.エリントンに招かれて渡米を果たしている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラインハルト」の意味・わかりやすい解説

ラインハルト
Reinhardt, Max

[生]1873.9.9. バーデン
[没]1943.10.31. ニューヨーク
オーストリアの演出家。本名 Goldmann。 O.ブラームらに認められ,俳優としてドイツ座に出演したが,1903年演出に転じ,照明,音楽,音響などを駆使して,戯曲の文学性よりも視覚的要素を重視した想像力豊かな舞台をつくりだした。ウィーンにおける『オイディプス大王』 (1910) ,ロンドンの『奇跡』 (11) などのスペクタクル的舞台が有名であるが,1920年代にはウィーンおよびベルリンの劇場で,古典から現代にいたる多くの作品を演出した。ヒトラーの台頭後は海外で活動を続け,34年にはハリウッドで映画『夏の夜の夢』を演出。 38年以後はアメリカに永住した。

ラインハルト
Reinhart, Johann Christian

[生]1761.1.24. ホーフ
[没]1847.6.9. ローマ
ドイツの画家,エッチング (銅版画) 作家。ライプチヒとドレスデンで修業,1789年以降ローマ,ナポリで活躍した。シラーの影響を受け,牧歌調の英雄伝説的な風景を描き,エッチングも制作した。

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世界大百科事典(旧版)内のラインハルトの言及

【演出】より

…また,スイスの舞台装置家アッピアAdolphe Appiaは,照明と彫塑的な装置による俳優活用の演出を主張した。 20世紀に入るとドイツのM.ラインハルトは豊かな想像力と構成力によって絢爛,雄大な演出力を示したが,すぐれた俳優指導者でもあった。ドイツではさらに叙事演劇の先駆者E.ピスカートルが政治的直接行動をめざすプロレタリア劇場を創設(1920)したが,彼の協力者であるB.ブレヒトによって,ひきつづき叙事演劇による異化効果が探究された。…

【キャバレー】より

…ウィーンでは1901年にザルテンFelix Salten(1869‐1945)によって〈ユング・ウィーナー・テアター・ツーム・リーベン・アウグスティン〉が作られてから,独自の伝統ができた。ベルリンには同じ年にウォルツォーゲンErnst von Wolzogen(1885‐1934)が〈ユーバーブレットル〉を,M.ラインハルトが〈シャル・ウント・ラウフSchall und Rauch〉を作り,ミュンヘンには〈11人の死刑執行人〉ができて,ニューモードとして一時流行したが長続きしなかった。ただドイツの大道演歌Bänkelsangの伝統を活性化したウェーデキントは,ドイツ的キャバレー(カバレットKabarett)の源流をつくりだした。…

【ディートリヒ】より

…そのような身についた感情の欠如と無表情が,のちに映画監督ジョゼフ・フォン・スタンバーグの目をとらえることになる。はじめマックス・ラインハルトの演劇学校で学び,ドイツの雑誌でグレタ・ガルボと比較される人気女優になっていた1929年,スタンバーグに認められて《嘆きの天使》(1930)のローラ・ローラの役に抜擢(ばつてき)され,〈脚線美〉と〈退廃的な美貌〉で全世界の話題をさらった。パラマウントと契約してアメリカへ渡り,MGMのガルボのライバルとして売り出され,《モロッコ》(1930),《間諜X27》(1931),《上海特急》《ブロンド・ビーナス》(ともに1932),《恋のページェント》(1934),《西班牙(スペイン)狂想曲》(1935)と6本のスタンバーグ監督作品に出演した。…

【ドイツ座】より

…94年にはO.ブラームの経営に移り,その監督時代にはイプセン,ハウプトマンなど現代劇を演目の中心にすえた。1905年M.ラインハルトが監督になると,私立劇場ながらベルリンの演劇の中心となり,多くの名優をそろえ,シェークスピアから現代劇までの幅広い演目を誇った。近代の小劇場運動でも先駆的な役割を果たしている。…

【リーフェンシュタール】より

…〈ナチス映画〉を代表するドイツの映画監督,女優。ベルリンに生まれ,美術を学んだのちバレリーナとしてマックス・ラインハルトの指導をうけ,アーノルト・ファンク監督に認められて山岳映画(《聖山》1925,《死の銀嶺》1929,《白銀の乱舞》1931,等々)に主演,ハンガリー生れの映画脚本家・理論家ベラ・バラージュの協力をえて,イタリアのドロミティ地方の山岳伝説を題材にした《青の光》(1932)を監督,主演する。ヒトラーに信頼され,1933年にニュルンベルクで開かれたナチス党大会の記録映画《信念の勝利》,つづいて34年党大会の《意志の勝利》,36年のベルリン・オリンピック映画《オリンピア》(《民族の祭典》と《美の祭典》の二部作。…

※「ラインハルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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