ドイツの映画監督。ウィーンに生まれ、建築と美術を学ぶ。第一次世界大戦で負傷、入院中に脚本を書き始め、1916年映画界に入り、『混血児』(1919)で監督となる。のちに妻となるテア・フォン・ハルボウThea von Harbou(1888―1954)の脚本参加を得て、最盛期を迎える。愛と死の格闘を描く表現主義映画『死滅の谷』(1921)、世相を反映した犯罪映画『ドクトル・マブゼ』(1922)、壮大な民族叙事詩『ニーベルンゲン』二部作(1924)、機械化された未来都市の物語『メトロポリス』(1927)、トーキーの効果を発揮した恐怖の殺人劇『M』(1931)と、一連の秀作を発表、運命論的なテーマを展開し、ドイツ映画黄金期を築く一人となる。ナチス政権を嫌い、1934年渡米。異常な群集心理を扱った『激怒』(1936)、社会の不公正を描いた『暗黒街の弾痕(だんこん)』(1937)、西部劇の佳作『西部魂』(1941)などを発表。1963年にはゴダール監督のフランス映画『軽蔑(けいべつ)』に自らの役で出演した。
[奥村 賢 2022年6月22日]
混血児 Halbblut(1919)
黄金の湖 Der Herr der Liebe(1919)
死滅の谷 Der müde Tod(1921)
ドクトル・マブゼ Dr. Mabuse, der Spieler(1922)
ニーベルンゲン ジークフリート Die Nibelungen : Siegfried(1924)
ニーベルンゲン クリームヒルトの復讐 Die Nibelungen : Kriemhilds Rache(1924)
メトロポリス Metropolis(1927)
スピオーネ Spione(1928)
月世界の女 Frau im Mond(1929)
M M:Eine Stadt sucht einen Mörder(1931)
怪人マブゼ博士 Das Testament des Dr. Mabuse(1933)
リリオム Liliom(1934)
激怒 Fury(1936)
暗黒街の弾痕 You Only Live Once(1937)
真人間 You and Me(1938)
地獄ヘの逆襲 The Return of Frank James(1940)
西部魂 Western Union(1941)
マン・ハント Man Hunt(1941)
死刑執行人もまた死す Hangmen Also Die!(1943)
恐怖省 Ministry of Fear(1944)
飾窓の女 The Woman in the Window(1944)
外套(がいとう)と短剣 Cloak and Dagger(1946)
扉の蔭の秘密 Secret Beyond the Door...(1947)
無頼の谷 Rancho Notorious(1952)
復讐(ふくしゅう)は俺に任せろ The Big Heat(1953)
ムーンフリート Moonfleet(1955)
口紅殺人事件 While the City Sleeps(1956)
条理ある疑いの彼方に Beyond a Reasonable Doubt(1956)
大いなる神秘 王城の掟(おきて) Der Tiger von Eschnapur(1959)
大いなる神秘 情炎の砂漠 Das indische Grabmal(1959)
怪人マブゼ博士 Die 1000 Augen des Dr. Mabuse(1960)
『フリッツ・ラング、ピーター・ボグダノヴィッチ著、井上正昭訳『リュミエール叢書22 映画監督に著作権はない』(1995・筑摩書房)』▽『明石政紀著『フリッツ・ラング――または伯林=聖林』(2002・アルファベータ)』
イギリスの詩人、童話作家、民俗学者。スコットランド生まれ。7冊の詩集のほか、テニソンの伝記、メアリー・スチュアートをめぐる研究、小説など、60巻を超す著作がある。なかでも重要なのは『習慣と神話』(1884)、『宗教の起源』(1898)などの文化人類学的業績、ホメロスのオデュッセイアなどの英訳(ブッチャーSamuel Henry Butcher(1850―1910)らと共訳、1879、1883)や、『ラング童話集』全12巻(1889~1910)の集大成の仕事である。
[高橋康也 2016年10月19日]
神話、宗教、民俗の研究家ラングはまた童話の重要性を痛感して、『青色の妖精(ようせい)の本』(1889)を編集した。ペロー、グリム、ドノワ夫人Madame d'Aulnoy(1650/1651―1705)の著作物や、アラビアン・ナイトのほか、広くイングランド、スコットランド、北欧から集めて再話したこの本には、「眠れる森の美女」「美女と野獣」「ヘンゼルとグレーテル」「長靴をはいた猫」「ジャックと豆の木」「青ひげ」などの名作が含まれ、大成功を収めた。以後、巻ごとに色を冠した童話集が編まれ、英語圏の子供の多くはラング版によって世界中の童話・民話に親しむようになった。
[高橋康也 2016年10月19日]
『西村醇子監修『アンドルー・ラング世界童話集』全12巻(2008~2009・東京創元社)』
アメリカの女流写真家。ニューヨークのアーノルド・ゲンスのスタジオで写真を学び、ついでクラレンス・ホワイトに師事、1919年にはカリフォルニアで開業する。しかし、スタジオでの営業写真に飽き足らず、30年代からは社会に目を転じ、35年、ロイ・ストライカーが組織した政府の農政安定局(FSA)の記録事業にW・エバンズやベン・シャーンらとともに加わって、大恐慌後の不況で置き去りにされた農民の生活を、ヒューマニズムにあふれたカメラ・アイで記録した。FSA事業終了後も同種のドキュメントを続け、夫のポール・テーラーと共著で『出アメリカ記――侵食される人類の記録』(1939)を出版、女性のしなやかで強靭(きょうじん)なまなざしによってヒューマニズムを叫び続けた。
[平木 収]
ドイツおよびアメリカの映画監督。戦前のドイツの〈表現主義映画〉の代表的監督として,また戦後のハリウッドのスリラー映画の名匠として知られる。ウィーン生れ。建築と美術を学び,第1次世界大戦で負傷して入院中に書いた脚本がヨーエ・マイJoe May監督(1880-1954)によって映画化されたのち,プロデューサーのエーリヒ・ポマーに認められて映画界に入り,1919年にデッカ社の監督となる。敗戦後の〈時代の一つの記録〉といわれる《ドクトル・マブゼ(《マブゼ博士》)》(1922),民族的伝説を壮大に映画化した《ニーベルンゲン》(1924),未来都市を空想的に描いてSF映画の古典となった《メトロポリス》(1926)が世界的に注目され,また,少女殺しの実話をもとにした最初のトーキー作品《M》(1932)は,音と画面との対位法を効果的に用いた歴史的傑作とされているが,公開されてから3年後には,ナチスの禁止映画のリストに載せられた。そしてまた,《ドクトル・マブゼ》の第2部,ラングによれば〈ヒトラーが用いたテロリズムの方法を示す寓話〉であり〈ナチズムの秘密の理論を暴露しようとした〉《怪人マブゼ博士》(1932)は,ナチスによる禁止映画第1号となった。にもかかわらず,ヒトラーとともに《ニーベルンゲン》を激賞するゲッベルスに,宣伝省映画局長への就任を懇望されたラングは,ユダヤ人である自分を利用しようとする魂胆を察知してフランスへのがれ,《リリオム》(1933)をつくったのちアメリカへ渡った。
35年,ドイツ人亡命者として市民権をあたえられ,アメリカ民主主義の汚点である私刑(リンチ)の問題を中心に,アメリカ社会の矛盾や非情さを告発した三部作,《激怒》(1936),《暗黒街の弾痕》(1937),《真人間》(1938)をはじめ,西部劇(《地獄への逆襲》1940,《西部魂》1941,《無頼の谷》1952)やスリラー(《死刑執行人もまた死す》1942,《飾窓の女》1944,《外套と短剣》1946,《復讐は俺に任せろ》1953,等々)をふくめて《口紅殺人事件》(1956)にいたるまで,しばしば〈妥協〉をしいられながらも20本あまりの映画を撮って,〈亡命映画人〉としてハリウッドに足跡を残した。58年にヨーロッパへもどり,第1部《王城の掟》と第2部《情炎の砂漠》からなる二部作の冒険スペクタクル《大いなる神秘》(1959)を撮るが,それにつづく西独・仏・伊合作映画《怪人マブゼ博士》(1960)が最後の監督作品となった。ジャン・リュック・ゴダール監督《軽蔑》(1963)に〈フリッツ・ラング監督〉の役で出演したのちアメリカへ帰り,ビバリー・ヒルズで余生を送った。
執筆者:柏倉 昌美
アメリカの女性写真家。ニュージャージー州ホボケンに生まれた。フォト・セセッションの創立メンバーの一人であるC.H.ホワイト(1871-1925)の下で写真を学んだ。のちにサンフランシスコでスタジオを開き,E.ウェストン,A.アダムズらの〈f64グループGroup f64〉の写真家たちと親交を結ぶ。1935年からFSA(農地保全管理局)のスタッフ写真家となり,大恐慌で荒廃した農村地帯(特に移住労働者)のすぐれたドキュメントを撮った。それらの写真は,ときにJ.スタインベックの小説《怒りの葡萄》に比すべきものとも評され,厳しい現実に立ち向かう人間の悲惨な姿を正確にとらえたばかりでなく,尊厳にあふれたたくましさをも同時にとらえている。第2次大戦後は体を悪くして,あまり活動を行っていない。
執筆者:金子 隆一
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…S.ピープスの日記等には当時の古書の流通状況が語られている。やがてノディエ,ナポレオン,ディブディンT.F.Dibdin,ニュートンA.E.Newton,ラングA.Langらの愛書家(愛書趣味)が生まれ,古書を収集する趣味が流行するようになった。またブレーズW.Bladesのように古書を人類の知的遺産とみなし,これを保存するのは後続世代の義務だとする主張も現れ,古書の価値が広く認識されるようになった。…
…S.ピープスの日記等には当時の古書の流通状況が語られている。やがてノディエ,ナポレオン,ディブディンT.F.Dibdin,ニュートンA.E.Newton,ラングA.Langらの愛書家(愛書趣味)が生まれ,古書を収集する趣味が流行するようになった。またブレーズW.Bladesのように古書を人類の知的遺産とみなし,これを保存するのは後続世代の義務だとする主張も現れ,古書の価値が広く認識されるようになった。…
…1932年製作。《ニーベルンゲン》(1924)でドイツ表現主義映画を完成させたフリッツ・ラングのネロ社製作によるトーキー第1回監督作品。デュッセルドルフで起きた子ども殺害事件に取材し,小市民的な外見とおびえた表情の殺人狂(ピーター・ローレ)が強烈な印象を与えて,以後,映画に登場する社会から疎外された犯罪者像の原型となった。…
…さらにヨーロッパからハリウッドへ亡命あるいは移住してきた若い監督たちが,そのみずみずしいヨーロッパ感覚で,それまでアメリカ映画にはなかったまったく異質の心理的スリラーをつくって大きな刺激を与えたこともあった。オットー・プレミンジャー監督の《ローラ殺人事件》(1944),フリッツ・ラング監督の《飾窓の女》(1944),ビリー・ワイルダー監督の《深夜の告白》(1945),ロバート・シオドマク監督の《らせん階段》(1945)等々がそれである。 いわゆる〈セミ・ドキュメンタリー〉の手法を用いたスリラー映画も流行し,FBIの記録にもとづく《Gメン対間諜》(1945),実際の殺人事件を描いた《影なき殺人》(1947),集団脱獄事件を描いた《真昼の暴動》(1947),殺人犯の追跡を描いた《裸の町》(1948),FBIの記録による《情無用の街》(1948)などがつくられ,ルイ・ド・ロシュモントLouis de Rochemont(1899‐1978)のセミ・ドキュメンタリー・スタイルのニュース映画《ザ・マーチ・オブ・タイム》(1935‐51)に示唆されたといわれるこれらの映画の傾向は〈ニュー・リアリズム〉ともよばれた。…
…第1次世界大戦後の〈表現主義映画〉,そこから出発して国際的な評価を得たエルンスト・ルビッチ,フリッツ・ラング,F.W.ムルナウ,G.W.パプストといった監督たち,レニ・リーフェンシュタールのオリンピック記録映画によって代表される1930年代のナチス宣伝映画,そして国際的なスターとして知られるウェルナー・クラウス,コンラート・ファイト,マルレーネ・ディートリヒ,アントン・ウォルブルック,クルト・ユルゲンス,ホルスト・ブーフホルツ,ヒルデガルド・クネフ(アメリカではヒルデガード・ネフ),ロミー・シュナイダー,マリア・シェル,マクシミリアン・シェル,ゲルト・フレーベ等々の名が,〈ドイツ映画〉のイメージを形成しているといえよう。以下,第2次大戦後,東西二つのドイツに分割されて政治的対立の下に映画活動も衰退せざるを得なくなるまでの動きを追ってみる。…
…ドイツ映画。怪奇探偵映画の傑作として知られるフリッツ・ラング監督作品で,サイレント作品とトーキー作品2本(続編およびリメーク)がある。最初の作品は1922年製作,日本公開題名は《ドクトル・マブゼ》,原題は《Dr.Mabuse,der Spieler(賭博者マブゼ博士)》で,表現主義映画の代表作の一つに数えられている。…
…1926年製作のドイツ映画。フリッツ・ラング監督作品。1924年にアメリカを訪れたラングが,ニューヨーク港の船上からマンハッタンの摩天楼を望見してアイデアを得たという21世紀の未来都市の物語である。…
…それは複数の写真の組合せとキャプションとにより,視覚的な解説以上にテーマの内面的な真実へと迫ろうとする試みであった。〈フォト・エッセー〉という新しい方法への意識の確立は,すでに1937年のアイゼンシュテットによる《ワッサー女子大学》という組写真に対する,編集者の〈エッセイストとしてのカメラ〉という解説にも示されており,のちレナード・マッコムの,地方からニューヨークへ来て働きながらファッション・モデルになることを夢みる一人の女性の日常を追った《グウィンド・フィリングの私生活》(1948),フランコ政権下で昔ながらの伝統的な生活をする寒村の人々を描いたユージン・スミスの《スペインの村》(1951),アメリカのアイルランド系移民たちの姿を撮ったドロシア・ラングの《アイリッシュ・カントリー・ピープル》(1955)など,50年代を中心にして数多くの傑作が生まれた。《ライフ》はこれらの写真によって,いわゆるニュース写真では知ることのできない〈日常的な世界の中の隠された真実〉を読者に伝え,フォト・ジャーナリズムの新しいあり方を打ち立てたということができよう。…
※「ラング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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