精選版 日本国語大辞典 「モザンビーク」の意味・読み・例文・類語
モザンビーク
- ( Mozambique ) アフリカ大陸南東部にある共和国。モザンビーク海峡に面する。一六世紀中ごろにポルトガルの支配下にはいり、一九七五年独立。農業が主。首都マプト(旧称ロレンソ‐マルケス)。
翻訳|Mozambique
基本情報
正式名称=モザンビーク共和国República de Moçambique
面積=80万1590km2
人口(2010)=2185万人
首都=マプトMaputo(日本との時差=-7時間)
主要言語=ポルトガル語,マクア・ロムウェ語,スワヒリ語
通貨=メティカルMetical
アフリカ南部,インド洋に面する国。旧ポルトガル領東アフリカで,1975年6月25日独立した。国旗は右上より斜めに緑(国土),赤(革命),黒(アフリカ大陸),黄(地下資源)の4色より成り,それぞれの間に白線が入っている。また左上には銃,鍬,本を歯車の中にあしらった国の目的を示すマークがある。
執筆者:林 晃史
国土は南部アフリカ高原盆地の縁のいわゆるグレート・エスカープメントの外側に広がる開析の進んだ高原斜面と,アフリカ沿岸では最大級のモザンビーク平原によって構成される。前者では先カンブリア界の結晶質岩石が広く露出し,その縁辺の一部にはカルー系(上部古生界~中生界)もみられる。北部の広い高原はニヤサ高地(最高点はナムリ山の標高2419m)と呼ばれ,西高東低で,西端部はアフリカ大地溝帯の底部にあるマラウィ湖およびその南端から流出するシーレ川低地に臨む急斜面となっている。高原面はルジェンダ,ムワロ,ルリオなどの川によって開析されている。ザンベジ川下流部の南にあるマニカ高地(最高点はビンガ山の標高2436m)はザンベジ川の諸支流のほか,プングエ川,ブージ川によって排水される。またモザンビーク平原にはザンベジ,リンポポ両大河のほか,サベ川,シャンガネ川などが貫流している。海岸線は小屈曲に富み,水深が浅いという欠点をもつが,良港湾が少なくない。熱帯沿岸に特有なサンゴ礁は南緯15°以北と南緯20°~22°によく発達し,またマングローブ林も全海岸の河口部に広く分布する。
気候的には一般にサバンナ気候に属する。降水は1月または2月をピークとする夏の雨季に集中し,冬の乾季との対照は内陸に入るにつれて際だってくる。年降水量は地形,海岸からの距離などに支配され,ニヤサ高地南西部およびマニカ高地の国境付近の1800~2000mmを最高に,農耕に適する800mm以上の地域が高原部と沿岸帯を広く占めている。ザンベジ川沿岸低地は600~800mm,モザンビーク平原南部の内陸部は600mm以下となり,国境部では350mm前後を示す。気温は,沿岸で1月25~28℃,7月18~24℃,内陸高地で1月21~25℃,7月15~18℃と,緯度と標高に対応し,年較差は4~7℃程度にすぎない。植生は,古くからの人間活動による影響がみられ,比較的降水に恵まれた沿岸部に降雨林,高原の突出部に山地林がそれぞれ残っているほかはサバンナ型で,年降水量800mm以上ではいわゆる〈パークランド・サバンナ〉が展開し,より降水量の少ない内陸低地部では耐乾性低木の目だつ乾燥タイプとなる。またザンベジ川以北の河川沿いには,硬木類を交えた河辺林が発達している。
執筆者:戸谷 洋
ほとんどがバントゥー系のアフリカ人である。ほかに,ポルトガル人などの白人,混血,そしてインド系住民が少数居住している。
アフリカ人のうちではマクア・ロムウェ族Makua-Lomweが最も多く,国の人口の40%を占める。言語的には中央バントゥーに属し,ヤオ族Yaoに近縁で,中央部のザンベジ川からタンザニアとの国境のロブマ(ルブマ)川までの海岸地帯に居住している。北部には,タンザニア南部にまたがってマコンデ族Makondeが居住する。やはり中央バントゥーに属するマコンデ族は彫刻で知られている。黒檀に彫ったみごとな木彫は,1本の木にいくつもの像をつないで彫っているのが特徴で,誕生と死,愛と憎しみ,善と悪,理性と感情など,彼らの価値観が表現されている。アフリカを代表する工芸品として,観光客のみやげ物や輸出用にも生産され,最近では現代的なモティーフを彫る作家も生まれている。またタンザニアの支援も得て,マコンデ族は独立時にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO(フレリモ))の有力メンバーとして,積極的に活動した。
ジンバブウェにまたがり南部に居住するショナ族Shonaは,モロコシ,トウモロコシを中心に,シコクビエ,イネ,豆類を栽培する農耕民である。牛も飼育し,花嫁代償(婚資)として用いるが,女性は牛に近づくことも許されない。ショナ族は音楽でも有名である。南部のトンガ族Tongaは南アフリカ共和国のトランスバール州にまたがって居住している農牧民である。ミレットとトウモロコシを主食作物として栽培するほか,牛を飼育し,花嫁代償に用いるほか,経済的な重要性をもたせている。バントゥー系の諸部族と同じように,少年の成人社会への加入式の儀礼には割礼が施され,そのうえ,さらにむち打ちや断食などの厳しい試練が課せられる。最高首長paramount chiefをいただき,中央集権的な政治組織をもっていた。沿岸地帯に住むチョピ族Chopiは言語的にトンガ族と近縁であるが,熱帯森林に分布するツェツェバエのため,牛は飼育しない。トウモロコシやカフィール・コーンを主食作物として栽培する。村落の形態に特徴があり,聖なる木を囲んで住居を建てている。
ポルトガルは植民地時代に,いわゆる〈同化政策〉をとって,キリスト教を受容し,ポルトガルの言語や文化を身につけた同化民(アシミラード)をつくろうとした。一方,本国から海外移民を大量に送り込み,白人農場を開いて,アフリカ住民に強制労働の義務を課した。独立後,こうした体制は打破されたが,南ア共和国の鉱山や農園への出稼ぎ労働者が多く,一時は年間10万~20万人に達した。その後政府の抑制策により,この数は減ったが,雇用機会の減少で国の経済は苦しい。1980年代初めには干ばつのため,テテ州などで深刻な被害が出た。
宗教はキリスト教とくにカトリックが普及し,人口の約30%が信仰している。イスラム教徒は海岸地帯を中心に10%を占めている。その他の住民は伝統的な部族固有の宗教を守っている。公用語はポルトガル語であるが,マクア・ロムウェ語も言語人口が多く,よく普及している。さらにスワヒリ語が海岸地域に浸透している。
執筆者:赤阪 賢
原住民はサン(ブッシュマン)であるが,7世紀ころよりバントゥー系のアフリカ人諸部族が北方より南下し定住した。14世紀ころにはショナ族の一部のカランガ族Karangaのモノモタパ王国(ムウェネ・ムタパMwene Mutapa)が,現在のモザンビークとジンバブウェにまたがる広い領土を支配した。モノモタパ王国はアラブとの金交易で繁栄し,海岸部にはアラブが定着した。15世紀末の大航海時代に喜望峰を回ってポルトガル人が初めてこの地を訪れ,アラブを駆逐するとともに内陸に進出し,アフリカ人諸王国を征服していった。
17世紀にはポルトガル人の入植が進み,彼らは大農園主(プラゼイロ)となって多くのアフリカ人を農園労働者として使用した。プラゼイロは形の上ではポルトガル王によってモザンビークの土地を与えられた(プラゾ制度)のであるが,彼らはアキクンダと呼ばれる私兵を常雇用し,一種の独立国家を形づくった。18世紀には多くのアフリカ人が奴隷として当時ポルトガル領であったブラジルに送られ,のちにはフランス領のレユニオン島やマダガスカル島にも送られた。奴隷の主要積出港はケリマネQuelimaneであった。
ポルトガル人農園主の支配に対し,19世紀半ばにチェワ族などの反乱が起こったが鎮圧された。1884-85年のベルリン会議によってヨーロッパの列強によるアフリカ分割が行われ,モザンビークはポルトガル領東アフリカとなった。これ以後ポルトガル政府はニヤサ会社,モザンビーク会社,ザンベジア会社の三大特許会社に商業,鉱業利権,徴税権を与えて開発にあたらせたが,彼らの支配の中心はアフリカ人に対する強制労働と徴税であった。この支配に対し1911年にバルウェ族の反乱など各地で抵抗が起こったが,軍隊によりことごとく鎮圧された。一方,南アフリカのトランスバールで産する金の搬出と必需品の輸入のため,モザンビークのロレンソ・マルケス(現,マプト)港とトランスバールのヨハネスバーグを結ぶ鉄道が1890年代に建設され,その見返りに毎年金鉱山へ10万人のモザンビーク人を労働者として提供する協約が結ばれ,モザンビークと南アフリカとの関係が深まった。
1933年にポルトガル本国で制定された〈植民地法〉により,ポルトガルの植民地では〈同化政策〉が実施されたが,事実上は差別の導入であった。また1928年には民間での強制労働を禁じたが,完全には実行されなかった。さらにアフリカ人の食糧生産を犠牲にしての綿花の強制栽培など,植民地支配はますます強化された。
1951年にモザンビークの政治的地位は植民地から海外州に変わったが,ポルトガル本国との結びつきはいっそう強まった。62年モンドラーネEduardo Mondlane(1920-69)を議長に結成されたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)は,隣国タンザニアを基地として64年から武力闘争を開始し,翌年には国土の20%に当たる北部を解放した。モンドラーネは69年に郵便爆弾によって暗殺され,代わって議長にはマシェルSamora Moïsés Machel(1933-86),副議長にはドス・サントスMarcelino dos Santos(1931- )が選ばれた。70-71年にはFRELIMOは中国,ソ連の援助を受け,ザンベジ川の南に進出した。そして74年4月,ポルトガル本国のクーデタによって成立した新軍事政権は植民地解放を宣言し,モザンビークは75年6月25日に独立を達成した。
独立憲法は,権力はFRELIMOによって指導される労働者と農民に属するとし,国家目標として,(1)植民地的・伝統的遺制の一掃,(2)人民民主主義の拡大,(3)経済自立,(4)独立と統合の防衛,(5)植民地主義,帝国主義への闘争の継続,をあげ,経済面では国有化,生産の集団化を掲げた。そして国家組織としては,(6)立法機関である人民議会(定員250),(7)共和国大統領(FRELIMOの議長であり,かつ国家元首),(8)行政機関としての閣僚評議会,(9)裁判所,がある。政党はFRELIMO一党しか認めなかった。FRELIMOは独立後,社会主義建設を目標としてきたが,77年2月に首都マプトで開かれた第3回党大会において公式にマルクス・レーニン主義を掲げ,自らをその前衛党と規定した。
社会主義建設を目ざすマシェル政権に対し,独立直後からポルトガル人入植者を主体とする反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)が武力闘争を開始し,各地で破壊活動を行ったが,その背後ではローデシア,次いで南ア共和国政府が武器援助をした。このため84年3月,モザンビークは南ア共和国と不可侵条約を結んだが,RENAMOの破壊活動は続いた。
86年10月,マシェル大統領の乗った飛行機が墜落し,大統領ほか数名の閣僚が死亡した。同年11月,シサノJoaquin Alberto Chissano(1939- )が後任の大統領に就任した。89年7月のFRELIMO党大会はマルクス主義からの離脱を決定した。
モザンビークは独立直後の1975年9月に国連に加盟し,同年7月にはアフリカ統一機構(OAU)のメンバーにもなった。またアフリカ開発銀行,非同盟諸国運動にも参加し,南部アフリカ地域では,南部アフリカ解放闘争を支援するフロント・ライン諸国に1974年に加わり,また南ア共和国の経済支配から脱却する目的をもつ南部アフリカ開発調整会議(SADCC。1980設立。現在,南部アフリカ開発共同体(SADC)に改組)のメンバーでもある。
植民地時代に形成された二重経済構造は,独立後の新政府の社会主義建設計画によって急激に破壊された。政府の経済開発政策の基調は,農業を基礎とし,工業を発展のための起動力にすることにあるが,その方法は,(1)農業の社会主義化,(2)工業化の促進,(3)国家の経済介入の強化,(4)経済の計画化,(5)労働者階級の育成,にあった。
農業は基幹産業で,労働力人口の約90%が農業に従事し,輸出額の約80%は砂糖,植物油,カシューナッツ,綿花,コプラの五大農産物が占める。政府は農業の集団生産体制を導入し,そのため全国に約2000の共同体村をつくった。共同体村は通常250家族から成り,各家族は0.5haの自留地以外ではすべて共同生産を行い,生産物は労働に応じて配分される。またかつての大農園は国有化され,国営農場ないし協同組合管理となった。海岸線の長いモザンビークにとって漁業は重要な産業であり,人民漁業庁の設立によって協同組合方式が導入された。
製造業部門では,ポルトガル人所有のビール,セメント,金属・機械,化学,肥料,製糖などの会社がすべて国有化された。金融部門でも国有化は進み,国立モザンビーク銀行が設立され,独立前約20社あった民間保険会社も国営公社の下に統合された。その他,国営貿易公社,国営電力公社,国営石油公社が設立され,経済の重要部門はほぼ国有化された。また国内流通組織でも国家の介入は強化され,卸売部門では中央供給委員会が設立されて流通・輸送を統轄し,小売部門では人民店が設立された。これら国営企業では,(1)役員会,(2)経営審議会,(3)労働者会議,の三つの機関の設置が義務づけられ,(1)(2)のメンバーには労働者の代表も必ず入り,労働者の発言権が高まった。
政府は80年,社会主義化を目ざす十ヵ年計画(1981-90)を発表したが,その翌年から84年にかけ,サイクロンによる洪水の被害,次いで大干ばつに見舞われ,計画は挫折した。そのため83年の第4回FRELIMO党大会で計画の失敗を認め,国営農場の小農化へ方向転換した。それにもかかわらず,北部を除くほぼ全国土でのRENAMOの破壊活動により生産は妨げられた。社会主義化の失敗,内戦による軍事支出の増大により経済危機に陥ったモザンビークは,87年,IMF,世界銀行の融資条件(コンディショナリティ)を受け入れた経済復興計画(PRE)の実施に踏み切った。
従来モザンビークの貿易収支の赤字は貿易外収支(観光収入,南ア共和国およびローデシア産商品の輸送運賃収入,出稼ぎ労働者からの送金)によって相殺されてきたが,独立以後は貿易外収入が激減し,赤字は拡大している。おもな貿易相手国はアメリカ,南ア共和国,ポルトガル,日本である。独立後,西側先進国の直接投資は行われなかったが,国連および国際機関を通じての援助がしばしば行われた。
執筆者:林 晃史
アフリカ南東部,モザンビーク共和国北部の港町。人口1万3000(1960)。モザンビーク海峡に面し,大陸から5kmほど離れた小島にある天然の良港であるが,高温多湿の土地である。対岸のルンボが内陸のマラウィと鉄道で結ばれているが,その北方約50kmに新しいナカラ港があるため,この港の重要性は低い。古くからアラブの港であったが,1508-10年にポルトガルが城塞を築き,キリスト教会や関税を取る建物を建てた。1907年までポルトガル領東アフリカの主都,その後30年までニヤサ州の州都であったが,現在は16世紀初頭の歴史的建造物の残る古い港町にとどまっている。
執筆者:西野 照太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アフリカ南東部、インド洋のモザンビーク海峡に面する国。北はタンザニア、マラウィ、ザンビア、西はジンバブエ、南は南アフリカ共和国、エスワティニ(旧、スワジランド)と、六つの国と国境を接する。面積79万9380平方キロメートル、人口3125万5000(2020世界銀行)。首都は、国土の南端に位置するマプート。正式名称は、モザンビーク共和国Republic of Mozambique。
[寺谷亮司 2022年3月23日]
地勢は、インド洋沿いに2500キロメートルを超える海岸線をもち、ビーチとサンゴ礁の浅瀬がみられる。内陸に向かって海抜高度は増し、ジンバブエ国境の国内最高峰ビンガ山の標高は2436メートルである。
国土は、南部アフリカ最長のザンベジ川によって二分される。南部は、海岸平野が広く発達し、海岸には砂州やラグーン地形が卓越する。北部は、海岸平野が比較的狭く、平均高度1000メートルの丘陵や台地が広がる。河川は西から東に流れ、代表河川は北部のルリオ川、中部のザンベジ川、南部のリンポポ川である。ザンベジ川のテテ上流に建設されたカホラ・バッサ・ダム(カボラ・バッサ・ダム)には長さ240キロメートル、最大幅30キロメートルのダム湖があり、その水で発電される電気は南アフリカ共和国に送電されている。
気候は、暖流のモザンビーク海流が沖合を南流するため、寒流のベンゲラ海流が北流するアフリカ西岸に比べて、高温多雨である。国土の大半はケッペン気候区分によれば、雨期・乾期が明瞭なAw(熱帯サバナ)気候に属する。雨期は11~4月であり、降水量は北部ほど多くなる。1~3月にはインド洋からのサイクロンが来襲し、河川流域では大規模な水害がしばしば発生する。とくに大きな最近の水害被害は、2000年2~3月に中部・南部、2019年3月に中部で発生した。
典型的な自然景観は、海岸部ではマングローブやヤシ類、内陸部は残丘地形としての孤立岩山を背景として、カシューナッツやバオバブなどの疎林や草原が広がるサバナ景観である。
[寺谷亮司 2022年3月23日]
原住民は狩猟採集民族のサンである。7世紀ころからバントゥー系の農耕アフリカ人諸民族が北方より南下して定住した。14世紀にはショナ族のモノモタパ王国が、現在のジンバブエとザンベジ川からサベ川に至るモザンビーク中部にまたがる広い領土を支配し、アラブ人との金交易で繁栄した。海岸部では、8世紀ころからアラブ人がモザンビーク島を中心に交易都市を建設したが、1498年にバスコ・ダ・ガマが来訪するなど、ポルトガル人によって駆逐された。
17世紀以降は、ポルトガル人の入植が進み、大農園主となってアフリカ人を強制労働させ、ポルトガルの支配が確立した。奴隷貿易は18世紀に最盛期となり、多くの奴隷が中部ケリマネ港からブラジル、フランス領レユニオン島、マダガスカルへ移送された。
1884~1885年のベルリン会議において、ヨーロッパ列強がアフリカ分割を話し合ったときに、モザンビークはポルトガル領東アフリカとなった。ポルトガル政府は、特許会社に商業、鉱業利権、徴税権を与えて、内陸部の開発にあたらせた。1886年にトランスバール(南アフリカ共和国)で金鉱脈が発見され、最短輸送ルートとしてロレンソ・マルケス(現、マプート)港の重要性が高まり、鉄道が敷設された。植民地首府は1898年に、北部のモザンビーク島からロレンソ・マルケスに移された。
ポルトガルの植民地支配に対し、1962年にモンドラーネEduardo Mondlane(1920―1969)を議長とし、ソ連(当時)と中国の支援を受けるモザンビーク解放戦線(FRELIMO(フレリモ):Frente de Libertação de Moçambique)が結成され、タンザニアを基地として1964年から武力闘争を開始した。1974年4月のカーネーション革命によって成立したポルトガルの新軍事政権は植民地の解放を宣言し、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として独立を達成した。しかし1977年から、ローデシア(現、ジンバブエ)や南アフリカ共和国の支援を受けたモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO(レナモ):Resistência Nacional Moçambicana)との戦闘が激化し、モザンビークは内戦状態となった。内戦は、100万以上の死者を出し、1992年の政府とRENAMOとの包括和平協定調印まで継続した。
[寺谷亮司 2022年3月23日]
1975年の独立後、権力を握ったFRELIMOは、一党制による社会主義路線を推進し、1977年の党大会では公式にマルクス・レーニン主義を掲げ、ソ連や中国との密接な関係を継承した。RENAMOとの内戦は長期化し、経済が疲弊して、東欧革命やソ連崩壊による東側諸国の勢力低下がみられるなか、1986年10月に、初代大統領マシェルSamora Moisés Machel(1933―1986)が飛行機事故で死亡し、翌月シサノJoaquim Alberto Chissano(1939― )が後任の大統領に就任した。
シサノは、1987年に世界銀行・国際通貨基金(IMF)の勧告による経済復興計画を容認して実施し、西側諸国との関係を強めた。さらに、1989年の党大会ではマルクス・レーニン主義を放棄し、1990年には複数政党制の導入を認め、国名をモザンビーク共和国に改称した。1994年10月、国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ:United Nations Operation in Mozambique。国連平和維持軍)の支援のもと、複数政党制による初の大統領選挙と国民議会選挙が実施され、与党のFRELIMOが勝利し、以後の選挙でもFRELIMOが政権を維持している。
モザンビークは任期5年の大統領を国家元首とする共和制をとっている。独立後の大統領とその任期をみると、初代マシェル(1975~1986)、2代シサノ(1986~2005)であり、1994年、1999年の第1回、第2回総選挙では、シサノが再任された。2004年の総選挙ではゲブーザArmando Emílio Guebuza(1943― )が大統領に選出され、2009年の総選挙で再選された。2014年の総選挙では、ニュシFilipe Jacinto Nyusi(1959― )が大統領に選出され、2019年の総選挙で再選された。
[寺谷亮司 2022年3月23日]
独立後のモザンビークでは農業を基盤とする社会主義国家の建設が目ざされたが、長い内戦によって耕地は戦場となり、ポルトガル人資本家や技術者の国外流出、干魃(かんばつ)や水害も多く、モザンビーク経済は疲弊し、世界最貧国の一つとなった。
農業は現在でも労働力人口の7割以上が従事する基幹産業である。主要な換金作物は、カシューナッツ、砂糖、コプラ、綿花であり、食糧作物としてのトウモロコシ、米、小麦は輸入に大きく依存している。
漁業も重要な産業であり、とくにエビは日本向けの主要輸出品の一つである。
内戦終了後の1990年代後半以降、モザンビーク経済は急速に発展し、1996年から2006年までの経済成長率は年平均8%を記録した。経済の成長要因は、安定した政治・社会情勢下での外国からの投資による資源の開発・活用である。その最大かつ代表的存在が、1998年に南アフリカ共和国や日本の三菱(みつびし)商事などの投資によって誕生したモザールMozal社であり、安価な電力を活用し、オーストラリアからの輸入アルミナを原料とするアルミニウム精錬事業を2000年に開始した。アルミニウムは現在もモザンビークの主要輸出品である。
日本企業は、中部・テテ州の石炭開発や北部沖合の天然ガス田開発事業にも参画している。ただし、北部沿岸のカーボ・デルカード州ではイスラム過激派の活動が活発化したことで、天然ガス開発事業は2021年に中断を余儀なくされた。
ブラジルと日本の政府開発援助(ODA)事業として2011年に開始され、北部内陸地域での大規模大豆栽培農業の確立を目ざした「プロサバンナ」事業も、小規模農家の生活を破壊するなどの批判によって、2020年に中止された。
近年の経済成長率をみると、2010年代前半は高率の7%台を維持したが、2016年以降は急落しており、観光産業の振興など、外国投資に依存しない経済・産業の確立が望まれる。
[寺谷亮司 2022年3月23日]
住民のほとんどは約40の民族に分かれるバントゥー系のアフリカ人である。ほかにはポルトガル人などの白人、インド人、混血の住民が居住している。
宗教はキリスト教、とくにカトリックが普及し、人口の約4割が信仰。イスラム教徒は北部沿岸部を中心に約2割を占め、その他の住民は伝統的な民族固有の宗教を信仰している。
公用語はポルトガル語であるが、マクア語、ショナ語などの各民族のバントゥー諸語が基本的に話され、北部沿岸部ではスワヒリ語も浸透している。
もっともよく知られた美術・芸術は、タンザニア南部からモザンビーク北部に居住するマコンデ民族によるダンスや黒檀(こくたん)使用の木彫品である。
[寺谷亮司 2022年3月23日]
日本とは1977年に外交関係を樹立した。在タンザニア日本大使館(1978~1985)、在ジンバブエ日本大使館(1985~1998)、在南アフリカ共和国日本大使館(1999)が業務を兼轄していたが、2000年1月に日本国大使館が開設された。
日本へはおもに石炭、チタン鉱、ゴマ、エビを輸出し、乗用車、バス・トラック、自動車部品、電気機器を輸入している。在留邦人数は124人(2020)。
[寺谷亮司 2022年3月23日]
『舩田クラーセンさやか著『モザンビーク解放闘争史――「統一」と「分裂」の起源を求めて』(2007・御茶の水書房)』▽『水谷章著『モザンビークの誕生――サハラ以南のアフリカの実験』(2017・花伝社)』
アフリカ南東部、モザンビーク北東部の港湾都市。本土より5キロメートル離れた同名の島に位置する。人口約1万5000。1498年バスコ・ダ・ガマが寄港し、1508年ポルトガルの基地となり、1907年までポルトガル領東アフリカの首都であった。モザンビーク最古の都市で、1511年に建設された聖セバスチャン要塞(ようさい)など植民地時代の景観を残している。1991年モザンビーク島は世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。
[林 晃史]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
アフリカ東南沿岸部の共和国。首都マプト(旧称ロレンソ・マルケス)。古くからインド洋交易市が点在していたが,16世紀初頭ポルトガルが侵入,一帯をアジア交易のために植民地化した。1884~85年のベルリン会議でポルトガル領東アフリカが成立。1951年ポルトガル海外州となったが,65年アフリカ人の武装解放闘争が始まり,75年独立。国の南部は,歴史,文化,出稼ぎ労働,港湾・鉄道網などで南アフリカ共和国との結びつきが強い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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