翻訳|Montmartre
フランスの首都パリ北部の地区(カルチエ)。標高130メートルの丘で、かつてはブドウ畑や風車の連なる田園地帯であったが、1860年パリに併合されて以後、多くの文人・画家が集まり、歓楽街として発展した。いまも一部に19世紀の名残(なごり)をとどめる古い町並みが残る。頂上に11世紀ロマネスク様式のサン・ピエール教会と、ビザンティン様式の白いドームをもつサクレ・クール大聖堂(1876~1919)が建つ。大聖堂前のテラスからパリ市街が眺められ、その西のテルトル広場には観光客相手の画家が集まる。南麓(なんろく)のピガール広場、ブランシュ広場一帯はキャバレー、ムーラン・ルージュ(赤い風車)をはじめとする歓楽街で、近くのモンマルトル墓地(1795開設)には、ハイネ、スタンダール、ゴンクール兄弟、小デュマ、オッフェンバック、ベルリオーズら芸術家の墓が多い。
[高橋 正]
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…パリに定住し制作した外国人芸術家の集団を指し,各時代にこうした集団が存在したが,この用語が用いられるのは,(1)13世紀,聖ルイ王の保護下に手写本彩飾画を制作した画派,(2)第1次大戦前後から第2次大戦前までの間の画家たち,そして(3)第2次大戦後の主として抽象的傾向の外国人画家たちに関してである。しかし,通常は,主として二つの大戦間のパリ,それもモンマルトル,モンパルナスで制作した外国人画家たちに用いられる。しかし,たとえばキュビスムにおけるピカソやフアン・グリス,あるいはシュルレアリスムのダリたちは,いずれも外国人画家であり,エコール・ド・パリに属するが,これらの明確な運動,グループに属したものを除外する場合が多い。…
…市街地はセーヌ川流域の南北に広がり,北を右岸(リーブ・ドロアト),南を左岸(リーブ・ゴーシュ)と呼ぶ。市の南北周辺はゆるい丘陵地となり,ビュット・ショーモン,ビュット・モンマルトル,ビュット・シャイヨー,モン・パリ,モンパルナスなどの丘がある。
【市街】
パリ市街は1859年まで1~12区の約15km2にすぎず,13~20区は郊外にあったが,現在はその全区域に加えて,パリ近郊3県のオー・ド・セーヌ,セーヌ・サン・ドニ,バル・ド・マルヌが,完全に市街地化して連なっている。…
…しかしいったん通過すれば平坦な土地が広がり,視野を遮るものはミレーの絵のように教会の尖塔だけというようになる。もちろん,一部には一つ上の地層が削り残されて(残丘),パリのモンマルトルの丘のようにかっこうの見晴し台になる。またパリ南方のボース平野のように石灰岩を基盤とする台地は透水性が高く,小河川が少ない。…
※「モンマルトル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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