リーグニッツの戦い(読み)リーグニッツのたたかい(英語表記)Battles of Liegnitz

  • リーグニッツのたたかい〔たたかひ〕

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

下シュレジエンのリーグニッツにおける戦い。 (1) ワールシュタットの戦いとも呼ばれる。 1241年4月9日,バトゥ (抜都)の率いるモンゴル軍の一隊がリーグニッツ近郊のワールシュタットにシュレジエン公ハインリヒの率いるポーランド=ドイツ連合軍を破り,ハインリヒを戦死させた。しかしヨーロッパ軍の激しい抵抗を受けたモンゴル軍は西進をあきらめて南下し,オゴデイの死後モンゴルへ戻った。 (2) 七年戦争末期の 1760年8月,フリードリヒ2世 (大王)の率いるプロシア軍がリーグニッツにエルンスト・ギデオン・フォンラウドンの率いるオーストリア軍を破った。この会戦は七年戦争のゆくえを決定づけるものとなった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

1241年に東ヨーロッパに侵入したモンゴル軍が、当時ポーランドに属していたシュレージエン州のリーグニッツLiegnitz(原語はレグニーツァ)の南東10キロメートルの地にあるワールシュタットWahlstattにおいて、これを迎え撃ったヨーロッパ軍を破った戦闘。ワールシュタットの戦いともいう。バトゥ指揮下の将軍バイダル(ペタともいう)は、1240年ごろからポーランドに侵入したので、シュレージエン公ハインリヒは、ドイツ軍、ポーランド軍その他からなる3万の軍隊を率いてワールシュタットで迎撃した。戦闘は1241年4月9日に行われたが、ヨーロッパ連合軍は大敗を喫し、ハインリヒは戦死した。当時のヨーロッパ史料によると、モンゴル軍は、戦場で倒れた敵軍の数を計算するために、死体ごとに一つの耳を切り取ったが、大きな袋9個にいっぱいになったという。この敗戦は当時のヨーロッパ、とくにローマ教皇庁に多大の衝撃を与え、モンゴルに対する十字軍を唱えることになった。

[佐口 透]

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