翻訳|Lesotho
基本情報
正式名称=レソト王国Kingdom of Lesotho
面積=3万0355km2
人口(2010)=189万人
首都=マセルMaseru(日本との時差=-7時間)
主要言語=ソト語,英語
通貨=ロティLoti(複数マロティMaloti)
アフリカ南部の内陸にある王国。周囲を南アフリカ共和国に取り囲まれているが,周囲をただ1国によって取り囲まれているのは,サンマリノ,バチカンとこの国の三つだけである。高峻(こうしゆん)な山地が多く,〈アフリカのスイス〉と呼ばれる。
南部アフリカの内陸高原盆地の縁となるドラケンスバーグ山脈のなかで最も高峻で,〈南部アフリカの屋根〉と呼ばれるバスト高地が国土の大半を占める。これはカルー系最上部の玄武岩床で保護され,深い峡谷に刻まれた台地で,北東部には最高のタバナ・ヌトレニャナ山(3482m)をはじめ幾つもの3000m級の平頂峰をならべ,オレンジ川本流の水源域となっている。北東と南東の国境の外側は,いわゆるグレート・エスカープメントと呼ばれる浸食崖のなかで最も比高が大きく傾斜も急な部分で,インド洋岸からの交通を大きく妨げている。一方,北西境(オレンジ川の支流カレドン川)から南西境にかけての幅30~65kmの低地域(標高1500~1800m)が,国民の生活の主舞台となっている。南緯28°30′~30°30′に位置するが,高さのため気温は低く,月平均気温は標高1500m付近で1月19℃,7月7℃,標高2500m付近で1月13℃,7月1℃を示し,冬には霜や雪をみる。5~8月の乾季がめだち,降水はインド洋からの風陰になるため,低地部では年平均700~800mm程度であり,バスト高地の一部で1200mmを超える。
執筆者:戸谷 洋
総人口は197万人(1996)だが,そのうち毎年10万人以上が南アフリカ共和国の鉱山や農場に出稼ぎに行っている。住民構成はほとんどがアフリカ人で,その約80%はソト族Sotho(Basotho)からなり,残りはズールー族である。さらに白人が2000人とカラード(混血)が若干,そしてアジア系住民,とくにインド人が数千人居住している。ソト族はバントゥー系の部族で,独立後も王国として伝統的な政治構造は維持され,王がそのまま元首となった。住民の70%はキリスト教徒(プロテスタント40%,カトリック30%)で,残りは部族固有の伝統宗教を信仰している。英語とソト語が公用語であり,ラジオ放送や新聞なども,両者が併用されている。ソト語は,コイサン語族に属する言語を話すサン(ブッシュマン)などとの接触により舌打音(クリック)をもつ点に特徴がある。なおズールー族もソト語を話す。
執筆者:赤阪 賢
この地域の原住民はサン(ブッシュマン)であったが,18世紀にバントゥー系のソト族が北方より移住してサンを追いやり,定着した。19世紀に入ってズールー族の侵攻を受けたが,ソト族の王モシュシュMoshoeshoe1世(1785ころ-1870)はタバ・ボシュウ(マセル近傍)に逃げ,ここの要塞に拠って国を守った。1835年以降南アフリカのボーア人のグレート・トレック(大移動)により絶えず国境を脅かされたため,王はイギリスの保護を求め,43年王国はイギリスの保護下に入った。68年正式にイギリス保護領バストランドBasutolandが成立した。71年バストランドはイギリス領ケープ植民地に併合され,ソト族の伝統を無視した支配が行われ始めたため,住民の反対が起こり,協議のすえ84年バストランドは再びイギリスの保護領となり,南アフリカ駐在のイギリス高等弁務官の管轄下に置かれることになった。イギリスはソト族の伝統的政治組織を存続させ,ピトソと呼ばれる民族評議会が1903年つくられた。
1955年民族評議会はイギリスにいっそうの自治を要求し,59年の憲法によって新しい民族評議会がつくられ,その構成員も半数は首長層,半数は選挙によることになった。同じころ,バストランド会議党(モケレ党首),バストランド国民党(ジョナサン党首)などの政党が結成された。61年民族評議会は独立を要求し,64年にロンドンで行われた制憲会議で独立が認められた。65年の総選挙で国民党が勝ち,ジョナサンが首相となり,翌66年10月4日モシュシュ2世(1938-96)を国王とするレソト王国が独立した。
独立直後,政治的実権を求める国王と首相との対立が起こり,国王は一時自宅に軟禁された。1970年1月に行われた独立後初の総選挙で与党国民党の敗北が明らかになると,ジョナサン首相は選挙の無効を宣言,憲法を停止し,野党会議党のモケレ党首らを逮捕した。さらに国王を再び軟禁したため,同年4月国王はオランダに亡命した。あまりの強行への国民の反発を恐れたジョナサンは,同年12月,政治に介入しないことを条件に国王の帰国を許可した。73年ジョナサンは新憲法の起草を目的に暫定議会を召集したが,会議党のモケレらはこれを拒否し,議員指名に応じた党員を除名した。しかし新憲法はなかなか制定されず,総選挙も実施されなかった。ジョナサン首相の独裁化に対し,会議党のモケレらはレソト解放軍(LLA)を組織して武力闘争を展開した。
86年1月レハンヤ将軍がクーデタを起こし,自らを議長とする軍事評議会が実権を握った。90年2月レハンヤ議長は,国王が評議会メンバーの交代を拒否したとして,国王からの全権剝奪を発表した。翌3月国王はイギリスへ出国,事実上の亡命をした。同年10月亡命中の国王は,軍政廃止,政治的民主化を要求したため,レハンヤ議長は国王を廃位し,代わって長男をレツィエLetsie3世(1963- )として即位させた。91年4月軍部内でクーデタが起こり,ラマエマ大佐が政権を掌握した。92年7月モシュシュ2世は帰国した。93年3月軍政から文民政への選挙が実施され,会議党が全65議席を獲得し,モケレ党首が首相に就任した。94年7月首相はモシュシュ2世の復位を検討しはじめたが,これに対しレツィエ3世は8月クーデタを起こし議会を停止させた。ただちに南アフリカ,ジンバブウェ,ボツワナが外交交渉を行い,9月モケレ政権は復活した。また翌95年1月にはモシュシュ2世が復位した。しかしモシュシュ2世は翌96年1月マルティ山塊で自動車事故のため死亡し,代わってレツィエ3世が復位した。
レソトの1人当り国民総生産は700ドル(1994)で,最も低い国の一つである。住民のほとんどは農耕と牧畜に依存しているが,土地が狭いうえに高地であるため,生産性は低い。耕地は全国土のわずか13%しかなく,トウモロコシ,小麦,モロコシ,豆類などの自家消費用作物を栽培している。羊,牛,ヤギの牧畜が盛んであるが,屠殺場がないため大半は南ア共和国に生きたまま輸出されている。1976年北東部のレッツェング・ラ・テライでダイヤモンドの富鉱が発見されたが,その採掘には南ア系のデ・ビアス社があたっている。製造業はほとんど発達していず,日用品は南ア共和国から輸入している。国内に雇用機会がないため,成年男子の多くは南ア共和国の鉱山に出稼ぎに出,その送金によって家計を賄っている家庭が多い。財政では歳入の50%以上を占めるのが,南部アフリカ関税同盟からの分配金である。内陸国レソトは南ア共和国の港湾を使用し,その関税業務を南ア政府に一任しているが,毎年その関税プールから分配金を得ている。オレンジ川源流にあたる北東部の地方に水力発電所をつくり,その電力と水を南ア共和国に売却するハイランド水資源計画が進められている。また南ア共和国への依存を減らす目的で,80年近隣の黒人9ヵ国とともに南部アフリカ開発調整会議(SADCC。1992年南部アフリカ開発共同体(SADC)に改組)結成に参加し,またECとの第2次ロメ協定に調印した。
執筆者:林 晃史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
南部アフリカの内陸にある王国。周囲を南アフリカ共和国に取り囲まれている。旧イギリス保護領バストランド。正式名称はレソト王国Kingdom of Lesotho。レソトとはソト人(バスト人)の国の意。面積約3万0355平方キロメートル、人口204万(2000推計)。首都はマセル。
[林 晃史]
南部アフリカ台地上にあり、国土の大半が海抜1820~3350メートルである。南東側が高く北西に低い。カレドン川とケーブ・サンドストーンテラスの間に全国土の約4分の1を占める西部低地がある。テラス部はレソト内の農業生産地域で、その東側の高地はオレンジ川の源流域でドラケンスベルク山脈の西側にあたる。年降水量は635ミリメートルで高地はとくに多い。雨期は10月~4月で、冬季には降雪もある。平均気温は低地で夏に約21℃、冬に7℃である。
[林 晃史]
18世紀バントゥー語系のソト人が北方より移動しカレドン川流域に定着した。19世紀初めズールー人の拡大(ムフェカネ)の影響を受けて首長モシュシュはマセル付近のタバ・ボシュウに逃れ定着し、やがて王国を形成した。1830年代ケープから北上してきたブーア人に絶えず国境を侵害されたため、王はイギリスに保護を求め71年バストランドはケープ植民地に併合され、84年正式にイギリスの保護領となった。イギリスは南アフリカ駐在の高等弁務官を通じて統治したが、重要な決定を除いて実際はソト人の王と首長の政治組織(ピトソ)によって行政が行われた。
1955年ピトソはイギリスに対しいっそうの自治を要求し、60年、首長層および選出議員よりなる民族評議会がつくられた。一方、政党活動も盛んになり、1952年モケレによりバストランド会議党(BCP)、59年ジョナサンによりバストランド国民党(BNP)などがつくられた。彼らはイギリスからの独立を要求し、64年のロンドン制憲会議、65年の総選挙を経て、66年10月4日立憲君主国レソトとして独立、BNP党首ジョナサンが初代首相となった。しかし独立後まもなく国王と首相との間で対立が起こり、ジョナサンは国王をオランダへ追放した。のち国王は政治不介入を条件に帰国が許された。
[林 晃史]
1966年独立憲法は上下二院制をとり、上院33名(首長任命22名、国王任命11名)と下院60名(すべて選出)からなったが、70年総選挙で野党バストランド会議党(BCP)が多数を占めることが明らかになると、首相のジョナサンはただちに選挙結果を無効にし、憲法を停止した。73年ジョナサンは新憲法起草のための暫定国民議会を開いたが、野党はジョナサンの独裁化に反対し、抗争が続いていた。ジョナサン政権は南アフリカ共和国の黒人解放組織アフリカ民族会議(ANC)を支持し、中ソに接近するなど南アと対決する政策をとっていたが、南アは86年1月、ANCゲリラ規制を口実にレソトを経済封鎖、同月、南アに支援されたレハンヤ将軍がクーデターを決行、ジョナサン政権を打倒して、国王モシュシュ2世に行政、立法権を与え、軍事評議会を発足させた。1989年2月、軍事政権は野党BCPのモケレ党首ら亡命グループの帰国を許した。一方、レハンヤは国王モシュシュ2世と対立し、国王の権限を剥奪(はくだつ)してイギリスに追放した。さらに亡命した国王が民政移管、複数政党制の導入を要求すると、90年11月、軍事評議会はモシュシュ2世を廃位し、かわって息子をレツィエ3世として即位させた。
しかし冷戦構造崩壊による民主化の影響はレソトにも波及し、1990年2月レハンヤは92年をめどに民政移管を目ざすタスクフォース(任務部隊)を任命した。1991年4月、軍部内のクーデターが起こり、レハンヤは失脚し、かわってラマエマ大佐が軍評議会議長となった。ラマエマは予定より1年遅れて93年3月、複数政党制の下で総選挙を実施し、BCPが全65議席を獲得、モケレ政権が発足した。しかし、翌94年8月、レツィエ3世のクーデターによりモケレ政権は倒れた。これに対し周辺国の南アフリカ、ジンバブエ、ボツワナがレツィエ3世の説得に当り、9月にモケレ政権は復活した。同政権はモシュシュ2世を95年1月に復位させたが、その1年後の96年1月モシュシュ2世は自動車事故で死去し、レツィエ3世が復位した。
[林 晃史]
1人当りの国民総所得(GNI)は580ドル(2000)と低く最貧国の一つである。主要産業は農業、牧畜であり、この両者で国内総生産(GDP)の約70%を占める。農業は、国土が山がちであるため可耕地は全国土のわずか13%に限られ、トウモロコシ、小麦、ソルガム(モロコシ)、豆類の自給用作物を栽培している。牧畜は盛んで、家畜の頭数は人口を上回る。鉱業は、近年開発が進み、1976年北東部のレッツェング・ラ・テライにダイヤモンドの富鉱が発見され、南アフリカ共和国系デビアース社が採掘にあたっている。オレンジ川源流域にあるため水資源は豊富で、87年、南アに送電するハイランド水利計画が着工された。工業化促進のため国家開発公社がつくられたが、衣料、再生タイヤ、織物、家具製造など小規模工業しか発達していない。
独立以来、レソトは、南アフリカ共和国の人種主義に反対し、政治的には対立しながらも、経済的には南アに依存していた。ほとんどの工業製品を南アから輸入しているほか、毎年多数のレソト成年男子が南ア金鉱山に出稼ぎに出ており、その送金が家計の重要な部分を占めている。さらにレソトは南部アフリカ関税同盟に加盟している。毎年この関税プールからの分配金のうち約1.7%をレソトが受け取っているが、このわずかの分配金がレソト国家財政の重要な部分を占めている。このような南アへの経済依存から脱却するため、1977年EC(ヨーロッパ共同体)とのロメ協定に調印し、さらに80年には南部アフリカ開発調整会議(SADCC、1992年南部アフリカ開発共同体SADCへ移行)、81年には東南部アフリカ特恵貿易地域(PTA、1992年東南部アフリカ共同市場COMESAへ移行)に加盟した。
[林 晃史]
住民のほとんどがバントゥー系ソト人で、宗教はキリスト教が人口の4分の3を占める。国立はレソト大学があり、初等教育の就学率は高い。
[林 晃史]
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南アフリカ共和国に囲まれた国。旧バストランド。バスト王国がブール人の侵略に直面してイギリスに保護を求め,イギリス保護領となる(1868年)。84年直轄保護領となり,1966年イギリス連邦内でレソト王国として独立。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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