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ローマ共和国 ローマきょうわこくLa Repubblica Romana

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ローマ共和国
ローマきょうわこく
La Repubblica Romana

(1) 第1回 (1798.2.15.~99.9.30.)  フランス革命ののち,ナポレオン1世の率いるフランス軍の占領に伴いローマ共和国の樹立が宣言されたが,第2次対仏大同盟に加わったナポリ王国軍の侵入によって倒された。 (2) 第2回 (1849.2.9.~49.7.3.)  ローマ教皇ピウス9世が 1848年 11月ガエタに亡命したあと,教皇俗権の廃止と共和制の樹立が宣言され,G.マッツィーニ,C.アルメッリーニ,A.サッフィの三頭政治が成立した。しかしフランスが教皇救援の口実のもとに軍事介入を開始し,G.ガリバルディの総指揮のもとに英雄的な防衛戦が展開されたが,結局はフランスの軍事力に屈し短命のうちに崩壊した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ローマ共和国
ろーまきょうわこく
Repubblica Romanaイタリア語

1849年イタリアのローマに樹立された共和政府。前年の11月、ローマでは教皇ピウス9世の反オーストリア民族戦線からの離脱後の混乱のなかで、ロッシ首相が急進派によって暗殺された。その後、急進派の圧力を恐れた教皇は、両シチリア国王の保護を求めて、ガエタに逃れた。無政府状態のローマを掌握した臨時評議会は、49年2月9日教皇の俗権の廃棄と共和国樹立を宣言し、アルメリーニなどの執行委員会を任命した。その後、共和国の全権はマッツィーニを主席とする三頭執政官にゆだねられた。共和政府が取り組んだ社会政策は概して穏和なものであったが、農業政策と憲法制定など注目すべき企図を含んでいた。フランスのルイ・ナポレオンは、オーストリアが教皇のためにローマ奪回の主導権を握ることを恐れ、4月チビタベッキアに派兵して共和政府と教皇との間の和解斡旋(あっせん)を申し出た。斡旋を拒否した共和国はフランス軍に包囲され、南からは両シチリア王国軍の攻撃を受けながらも1か月にわたって英雄的防戦を続けたが、ガリバルディと全国から集まった義勇兵たちの奮闘もむなしく、6月末ローマは落城し、7月3日フランス軍が入城した。[重岡保郎]
『森田鉄郎著『マッツィーニ』(1972・清水書院)』

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世界大百科事典内のローマ共和国の言及

【ローマ[市]】より

…教皇領内でも,ジャコバン分子の活動が活発化していく中で,教皇はフランスの国民議会が決定した教会憲法を退けたため,フランス国民軍の攻撃を何回か受けていくつかの教皇領を奪われた。さらに98年には,ローマをフランス軍に占領され,短期間ではあるが,カンピドリオにローマ共和国の成立を許し,ピウス6世はフランスのバランスに連行されて,そこで没した。 ローマ共和国の経験は,新しい教皇ピウス7世に,教会国家の社会問題に目を向けさせる契機になったし,北西ヨーロッパの都市に比して,ローマ市のまったく見劣りのする保健・衛生その他の公共サービスの改善に対して,多少は関心がそそがれるようになり,1809年のフランスの直接統治下において,このための努力がさらになされた。…

※「ローマ共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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