改訂新版 世界大百科事典 「ローマ劫掠」の意味・わかりやすい解説
ローマ劫掠 (ローマごうりゃく)
Sacco di Roma
イタリア戦争中の1527年に起こったローマの略奪。ゲオルク・フォン・フルンスベルク指揮下のドイツ人傭兵は飢えた集団となって,1526年11月アルプスを越え,当時ミラノを支配していた神聖ローマ皇帝軍のブルボン公がこれに合して,2万2000におよぶ暴徒となり各地で略奪を重ねながら,27年5月6日,ローマの城壁内に侵入した。教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に避難し,ローマ全市は暴徒の略奪,暴行殺人,破壊にゆだねられた。この背後にはルター派にふきこまれたローマ教会への復讐心や,ドイツ農民戦争のエネルギーがあった。またこの悲劇を招いた原因には,教皇の優柔不断や,ローマ貴族の不和がある。この事件により多くの人命が失われただけでなく,市内の文化財は破壊しつくされ,ローマにおけるルネサンスの運動は終焉したとされる。この事件を契機として,フィレンツェではメディチ家を追放して共和政が一時復活したほか,ベネチアもラベンナを奪った。
執筆者:永井 三明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報