一戸直蔵(読み)イチノヘ ナオゾウ

20世紀日本人名事典 「一戸直蔵」の解説

一戸 直蔵
イチノヘ ナオゾウ

明治・大正期の天文学者



生年
明治11(1878)年8月14日

没年
大正9(1920)年11月27日

出生地
青森県西津軽郡越水村吹原(現・木造町)

学歴〔年〕
東京帝大理科大学天文学科〔明治36年〕卒

学位〔年〕
理学博士〔明治44年〕

経歴
明治36年東京天文台助手となり、38年シカゴ大学付属ヤーキース天文台留学、天体物理学を学ぶ傍ら、変光星観測に従事。40年帰国、東京天文台観測主任となった。かたわら東京帝大講師を務め、41年日本天文学会の創立を推進、その機関誌「天文月報」の主筆を努めた。44年理学博士。東京天文台移転をめぐり赤城山頂を主張、三鷹移転案の寺尾台長対立、その間、台湾の新高山天文台建設の希望を持ち、2回渡台したが実らず、44年11月東大講師を解任され、46年天文台も退職。以後、独力科学啓蒙雑誌「現代之科学」を発刊、科学ジャーナリストとして活躍した。その間、海軍大学校早大、青山学院などで教鞭をとった。変光星研究の先駆者として天文学論文や著書がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「一戸直蔵」の解説

一戸直蔵

没年:大正9.11.27(1920)
生年:明治10(1877)
明治大正時代の天文学者,科学啓蒙家。青森県に生まれ,父親の反対を押し切って家出して第二高等学校に入学,東京帝大理科大学天文学科を明治36(1903)年に卒業,東京天文台に入る。38年から2年間私費でアメリカのヤーキス天文台に留学し,変光星観測にしたがう。帰国後東京帝大講師となり,雑誌『天文月報』の編集を始める。当時麻布の東京天文台の観測条件が悪化したので,移転の議が起こり,一戸は三鷹移転案に反対して,もっと条件のよい赤城山へ,さらに台湾の新高山の頂上ダイナマイトで爆破して天文台を据える案を抱き,実地に調査旅行している間に,意見の合わなかった寺尾寿台長に免職にされた。以後野に下って科学啓蒙誌『現代之科学』を創刊し,科学啓蒙の筆を執り,また日本のアカデミズム批判の論陣を張った。しかし,経営する雑誌の経営難と過労が高じて,44歳で「人生の最後とはコンナものだ」という言葉を残して病没する。

(中山茂)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一戸直蔵」の解説

一戸直蔵 いちのへ-なおぞう

1877-1920 明治-大正時代の天文学者。
明治10年生まれ。母校東京帝大付置の東京天文台にはいり,明治38年アメリカのヤーキス天文台に留学,帰国後同大講師となる。東京天文台の麻布から三鷹への移転に反対して赤城山頂設置を主張し,寺尾寿(ひさし)台長と衝突して辞職。大正2年「現代之科学」誌を創刊し,科学の啓蒙(けいもう)につとめた。大正9年11月27日死去。44歳。青森県出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android