一身田村(読み)いつしんでんむら

日本歴史地名大系 「一身田村」の解説

一身田村
いつしんでんむら

[現在地名]津市一身田いしんでん

志登茂しとも川が形成した沖積平野のほぼ中央に位置し、北は志登茂川を隔てて今井いまい田端たばた村と今井谷いまいだに村に接し、南はおおむね支流の毛無けなし川を境として大古曾おおごそ村と接する。東隣平野ひらの村および西隣窪田くぼた村との村界は古代条里制の里界線に相当していて、当村の元来の村域は、これらに囲まれた六町四方の条里制一里(三六町)の地域であった。「一身田」の地名は「三代実録」元慶二年(八七八)六月二日条に、皇女へ三河国に一身田を賜ったとの使用例もあって、天皇から親王・内親王その他勲功ある者に、その身一代を限って与えられる賜田に基づく。当村名の由来については「神鳳鈔」御筮清直書写本(神宮文庫蔵)奄芸あんげ郡一身田御厨の項に「□王殿一身田」との注記があり、この清直が判読しえなかった一字は「斎」である可能性があり、そう判読するならば、この地は伊勢神宮の斎王に対し一代を限って与えられた賜田となり、歴代斎王に逐次与えられたことから、当地の地名として定着したと考えられる。

考古学的遺物は、大正一二年(一九二三)毛無川南岸の旧一宮社跡へ一身田小学校新築の際、弥生中期の壺を発掘しており、昭和三六年(一九六一)専修せんじゆ寺門前の向拝前ごはいまえの地下一メートルの泥土層から弥生式土器片を出土している。律令制下に入ると、村内は志登茂川の旧河川敷と思われる北端部を除いて、全域に条里制遺構をとどめている。その方位は、奄芸郡条里の多くがそうであるように、南北線が北において東へ三〇度振れるもので、明治八年(一八七五)の地籍図をみると、縦横一町ごとに碁盤目に仕切られ、北西隅から東方へ順次「一ノ坪」「二ノ坪」「三ノ坪」「四五ノ坪」「六ノ坪」「七ノ坪」の小字名が順序正しく並んでいて、千鳥式坪並を示し、三重県内における典型的条里制遺構となっている。

この地が伊勢斎王に給与された一身田であったことは、前記のように推定され、「五鈴遺響」などに、斎王がここに居住したとの伝説を記しているのは、史実とはいえないまでも、この地と斎王との関係を示す伝承として注目されるし、鎌倉時代にこの地が神宮領荘園となったのも、それに関連する当然の成行きであったのかもしれない。「神鳳鈔」は「一身田御厨三十六丁」と記し、村域全部が荘園化したかのごとくである。応仁二年(一四六八)一一月日付内宮庁宣(内宮引付)の奥書に「件一身田御厨三町之内二町ハ、口入所渡シ、一町ハ神税ヲ可沙汰之旨、建武ノ御成敗ニ見」とあり、建武年間(一三三四―三八)以後御厨となっていた田積は三町で、文明八年(一四七六)一一月六日付御師蔵田国弘書状(同引付)によれば、内宮へ上分米二石、蔵田氏へ新寄進米七石が納められていたにとどまったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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