日本歴史地名大系 「一身田村」の解説
一身田村
いつしんでんむら
考古学的遺物は、大正一二年(一九二三)毛無川南岸の旧一宮社跡へ一身田小学校新築の際、弥生中期の壺を発掘しており、昭和三六年(一九六一)
この地が伊勢斎王に給与された一身田であったことは、前記のように推定され、「五鈴遺響」などに、斎王がここに居住したとの伝説を記しているのは、史実とはいえないまでも、この地と斎王との関係を示す伝承として注目されるし、鎌倉時代にこの地が神宮領荘園となったのも、それに関連する当然の成行きであったのかもしれない。「神鳳鈔」は「一身田御厨三十六丁」と記し、村域全部が荘園化したかのごとくである。応仁二年(一四六八)一一月日付内宮庁宣(内宮引付)の奥書に「件一身田御厨三町之内二町ハ、口入所渡シ、一町ハ神税ヲ可沙汰之旨、建武ノ御成敗ニ見」とあり、建武年間(一三三四―三八)以後御厨となっていた田積は三町で、文明八年(一四七六)一一月六日付御師蔵田国弘書状(同引付)によれば、内宮へ上分米二石、蔵田氏へ新寄進米七石が納められていたにとどまったようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報