日本大百科全書(ニッポニカ)「片岡仁左衛門」の解説
片岡仁左衛門
かたおかにざえもん
初世
(1656―1715)若女方(わかおんながた)豊島春之丞(とよしまはるのじょう)の弟で、初め三味線弾きだったという。のち山下半左衛門(1652―1717)の門に入り、1696年(元禄9)に大坂で座頭(ざがしら)の地位についた。座本を勤めたこともある。敵役(かたきやく)の随一と称されたが、晩年は立役(たちやく)に転じ、実事(じつごと)を得意にした。
2世
生没年未詳。初世の子。1716年(享保1)2世を継いだが早世。
3世
生没年未詳。初世の妹婿藤川繁右衛門(しげえもん)。2世が早世したため名義を預かり、家系上の3世となる。
4世
生没年未詳。藤川繁右衛門の養子で、初め2世藤川半三郎。1747年(延享4)4世を襲名。実悪(じつあく)の名手。
5世
生没年未詳。4世の養子。3世藤川半三郎と名のり、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)(1751~1772)のころ京都の敵役の第一人者となる。5世仁左衛門を襲名したとの説もあるが明らかでない。
6世
初世の門流であった2世三保木儀左衛門(みほきぎざえもん)が、血統の絶えた片岡の名跡(みょうせき)を預かったので、この人を6世に数える。
7世
(1755―1837)京都生まれ。俳名我童(がどう)。初世浅尾国五郎(?―1776)の弟で、2世浅尾国五郎。1787年(天明7)中絶していた片岡仁左衛門の名跡を再興、7世となる。立役、敵役、女方など芸域の広い名優で、関西劇壇の重鎮として活躍。
8世
(1810―1863)7世の養子。片岡我當(がとう)、2世片岡我童を経て1857年(安政4)江戸で8世を襲名、中村座で座頭になった。容姿に優れ、色立役を本領としたが、敵役、女方、所作事(しょさごと)もよくした。
9世
(1839―1871)8世の養子。2世片岡我當。1907年(明治40)11世仁左衛門が襲名にあたって、9世を追贈したもの。江戸に下って人気を獲得したが、大成をみずに早世した。
10世
(1851―1895)8世の三男。大坂生まれ。3世我童から1895年(明治28)仁左衛門の襲名披露をしたが、まもなく没した。
11世
(1857―1934)本名片岡秀太郎。8世の四男。江戸・浅草猿若町生まれ。3世我當から1907年大阪で11世を襲名。東京と大阪をしばしば往来し、非常に人気があった。関西にあっては初世中村鴈治郎(がんじろう)のライバルとして人気を二分して争い、仁左衛門襲名以後は東京に住み、劇壇の長老として重んじられた。芸域の広い俳優であったが、晩年はとくに老役(ふけやく)に枯淡の味をみせた。『桐一葉(きりひとは)』の片桐且元(かつもと)、『堀川』の与次郎などが当り役であった。
12世
(1882―1946)本名片岡東吉。10世の子。東京生まれ。4世我童から1936年(昭和11)12世仁左衛門を襲名。6世尾上梅幸(おのえばいこう)の没後、15世市村羽左衛門(うざえもん)の相手役として人気、実力を兼備した活躍ぶりを示したが、1946年(昭和21)3月16日食糧難の不幸な時代背景のもとで使用人の手にかかり不慮の死を遂げた。
13世
(1903―1994)本名片岡千代之助。11世の三男。東京生まれ。4世我當から1951年13世を襲名。大阪で「七人の会」に参加し、「仁左衛門歌舞伎」を主催するなど、上方(かみがた)歌舞伎の伝統を継承しようとする意欲を示した。1972年に重要無形文化財保持者に認定され、1981年に芸術院会員に選ばれた。著書に『役者七十年』(1976)、『菅原(すがわら)と忠臣蔵』(1981)など。実子に、5世片岡我當(1935― )、2世片岡秀太郎(1941―2021)、15世片岡仁左衛門がいる。
14世
(1910―1993)本名片岡一(はじめ)。12世仁左衛門の長男。1934年、5世片岡芦燕(ろえん)を襲名。さらに1955年5世片岡我童を襲名(本人は13世を名のっていた)、女方として活躍した。13世仁左衛門の没後、その遺志によって14世を追贈された。
15世
(1944― )13世の三男。本名の片岡孝夫(たかお)を芸名として長く舞台を勤め、1998年(平成10)、15世を襲名した。美貌(びぼう)で花のある立役として抜群の人気があり、平成歌舞伎の代表的俳優の一人として活躍している。2006年(平成18)芸術院会員となる。
[服部幸雄]
『(13世の本)渡辺保著『仁左衛門の風格』(1993・河出書房新社)』▽『(15世の本)片岡仁左衛門編著『十五代目片岡仁左衛門――片岡孝夫の軌跡』(1998・淡交社)』