七日町村(読み)なのかまちむら

日本歴史地名大系 「七日町村」の解説

七日町村
なのかまちむら

[現在地名]小国町七日町

桐沢きりさわ村の北。集落は渋海しぶみ川支流大坪おおつぼ川の両岸と北の上栗うえぐり川両岸に上栗がある。小国東組に属する。近世初めは高田藩領、天和元年(一六八一)幕府領、文久二年(一八六二)に八六石八斗余が長岡藩領、残り六七一石八斗余が幕府領となる。正保国絵図に七日町村高一三七石余と上栗村高七一石余がみえる。天和三年の越後中将御領覚では高七〇一石六斗余のほかに高二四石二斗余と高六石三斗余の新田がある。


七日町村
なぬかまちむら

[現在地名]高山市七日町・初田町はつだまち総和町そうわまち花岡町はなおかまち神田町かんだまちなど

高山町の西、みや川左岸に位置し、高山町を出た越中街道宮川に架かる弥生やよい橋辺りから当村に入る。長享二年(一四八八)七月に書写された桐生買地帳(宝幢坊文書)にみえる七日町屋は当地にあたると思われる。村名は毎月七の日に近隣に諸品を売りに出かけたことに由来するともいう(斐太後風土記)


七日町村
なのかまちむら

[現在地名]新津市七日町

阿賀野川と小阿賀野こあがの川の合流点付近に位置し、南は満願寺まんがんじ村。「北越太平記」慶長五年(一六〇〇)八月の条に越後一揆に際して「毛呂次郎右衛門、窪田与左衛門、戸井半左衛門を遣し、領内百姓共の人質を取せつつ新発田の城へ入させける。三人の者共七日町の宿を過て川を渡ける処に」とあり、当時すでに宿場を形成していたと思われる。正保国絵図に三〇四石余とあり、新発田藩領。


七日町村
なのかまちむら

[現在地名]矢島町七日町

矢島城下町の東南部、西は田中たなか町と用水溝で接し、南は荒沢あらさわ村と接する。戦国―織豊期は大井氏の城下町で、そのため元町もとまち村・九日町ここのかまち村・七日町村の地名が残ると推定される。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に村名がある。

正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)では三八〇石六斗八升八合。宝暦六年(一七五六)の御領分中覚書(矢島町史)に本田高三七二石七斗八升四合、新田高三〇石四斗五升四合、家数七四軒、人数二七三人とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android