三ッ谷村(読み)みつやむら

日本歴史地名大系 「三ッ谷村」の解説

三ッ谷村
みつやむら

[現在地名]彦根市南三ッ谷町みなみみっやちよう

普光寺ふこうじ村の南西、愛知川右岸に立地し、琵琶湖に面する。三谷・三屋・三ッ屋・三津屋とも書いた。慶長三年(一五九八)七月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に三ッ屋村とみえ、同所の高一千三六六石余が豊臣秀吉から浅野氏に与えられている。また同月の御蔵入目録(同文書)によると「三ツ屋村・しんかい」の小物成である葭米一二石余と米五石余が代官浅野長吉の管理下に置かれた。江戸時代に入って彦根藩領となり幕末に至る。慶長高辻帳では高一千二一〇石余、うち一二石余は小物成。新海しんがい村は別に高付されている。寛文八年(一六六八)村内を流れる川筋石橋を開け、船が通れるようにすることを藩から命じられているが、このときの取替手形(三ッ谷共有文書)には当村の本百姓とみられる四七名が署名している。

三ッ谷村
みつやむら

[現在地名]爾志にし郡乙部町字三ッ谷・字潮見しおみ

近世から明治三五年(一九〇二)までの村。突符とつぷ村の北に位置する。三ッ谷川・琴平ことひら川が西流し日本海に注ぐ。みつ屋村(元禄郷帳)、三谷村(蝦夷拾遺)などとも記される。享保十二年所附には三ッ谷村と村内の地名「むの崎 浦島岩」がみえる。「松前随商録」はヲウモナイ(大茂内)村の小名として「ミツヤ」をあげる。天明六年(一七八六)の家数四〇たらず、人数一三〇たらず(蝦夷拾遺)。「西蝦夷地場所地名等控」では家数二九・人数九三、産物は鰊・鮑・雑昆布など。

三ッ谷村
みつだにむら

[現在地名]清見村三ッ谷

ほん(川上川)大楢おおなら谷・谷の三谷が村域内で合流し、北は高山街道沿いに福寄ふくより村に通ずる。中世には美濃国郡上ぐじよう長滝ちようりゆう(現白鳥町)寺領の河上かわかみ庄への往還は檜谷沿いであったといわれ、国境大原おつぱら村への最短里程であるため昭和初期まで猟師道として利用された。真宗大谷派一念いちねん寺の文亀元年(一五〇一)本願寺実如下付の方便法身尊像裏書(飛州志)に「飛騨国川上郷三谷願主道了」とみえる。道了は同寺の開基。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳では川上郷に属し、高三七〇石余、田三一八石余・畑五一石余、物成高七四石余。同一八年郷帳の高三四三石余。元禄検地反歩帳の高一五〇石余、田二三町八反余・畑三町五反余。

三ッ谷村
みつたにむら

[現在地名]小松市光谷町みつたにまち

三谷みつたに川上流の山間部にあり、西の下流池城いけのじよう村・松岡まつおか村。「みつだん」ともよばれる。正保郷帳では高一四八石余、田方五町七反余・畑方三町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高八四石、免五ツ、小物成は山役三二五匁(三箇国高物成帳)。明治初年の本籍二〇戸、人数男五六・女四四、馬四、物産に枚木・杪・繭・生糸・炭がある(皇国地誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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