三口村(読み)みくちむら

日本歴史地名大系 「三口村」の解説

三口村
みくちむら

[現在地名]加西市三口町

善防ぜんぼう山を境に戸田井とたい村・西笠原にしかさはら村などの南に位置し、下里しもさと川の支流善防川流域に立地する。当地は西の姫路、南の高砂、北の北条ほうじようへ通じる道が交差し、地名の由来も三つの町に通じる街道の口にあたるので三口と称するという。鎮守若一王子にやくいちおうじ神社(現速玉男神社)水口みなくち王子神社とも称し、「みなくち」が本来の読み方とも思われる。善防山南麓は猫尾ねこおとよばれ、善防山ぜんぼうさん城の侍の居住した根小屋のあった山の尾の意であろう。中世西下郷にししもざと庄内一村であったとみられる。公卿吉田経俊の日記「経俊卿記」建長八年(一二五六)八月二日条には、三口村のことにつき播磨国法華ほつけ寺の僧が牒を求めたとの記述がある。


三口村
みつくちむら

[現在地名]金沢市三口町・問屋町といやまち二丁目・弓取町ゆみとりまち

浅野川の左岸諸江もろえ村の北に位置する。寛永一五年(一六三八)一二月、前田利常により当村のうち一町が黒津舟くろつぶね権現(現内灘町の小浜神社)に寄進された(「前田利常寄進状」小浜神社文書)正保郷帳では高四一一石余、田方二五町六反余・畑方一町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高四二二石、免七ツ(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数一四・百姓数一五、黒津舟権現領二六石余があった(高免付給人帳)


三口村
みつくちむら

[現在地名]武生市三ツ口みつくち

府中町の西南方にある小村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では、村高から推定して「五ケ村千福」に含まれていたらしく、正保郷帳から村名がみえ、田方四四石余・畠方九石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)給人地方渡名寄帳によれば藩士本多筑後の知行所

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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