三峰神社(読み)みつみねじんじや

日本歴史地名大系 「三峰神社」の解説

三峰神社
みつみねじんじや

[現在地名]大滝村三峰

雲取くもとり(二〇一七メートル)白岩しらいわ(一九二一メートル)妙法みようほうヶ岳(一三三二メートル)の三嶺を拝する地、妙法ヶ岳に連なる三峰山(一一〇二メートル)に鎮座し、妙法ヶ岳に奥社を祀る。伊弉諾尊伊弉冊尊の二神を祀り、旧県社。なお眷属神として大口真神(お犬様)を祀る。創建は不明であるが、元禄二年(一六八九)の当山縁起大略(三峰神社文書、以下断りのない限り同文書)によると、景行天皇の代に日本武尊が三峰山に登り、伊弉諾尊・伊弉冊尊を勧請、東国に行幸した景行天皇が三峰山に登って「三峯之宮」を号したといい、文武天皇三年(六九九)には伊豆に配流された役行者が三峰に往詣したという。天平八年(七三六)には病が流行、勅命により葛城好久が当社に奉幣し、大明神の号を授けられ、翌年、皇后は好久に命じて観音菩薩を三峰山に安置し、同一七年には月桂を山主に定めたとされる。天長年中(八二四―八三四)空海は十一面観音像を本地と定め、養和二年(一一八二)畠山重忠は願書を捧げ、後鳥羽天皇の代には郡司の奏により、方一〇余里の社領を寄せられたという。後醍醐天皇の代に神領を失い衰微したが、文亀二年(一五〇二)には行者道満が中興、天文二年(一五三三)竜栄が聖護宮に参して、三峰権現の号を賜わったという。

中世史料上、当社について確認できるのは中興とされる道満の代からである。天文二年七月の棟札銘には「三峯宮棟札」とあり、道満を中興として郡主藤田業繁が社殿を造営した旨が記されている。同一四年八月には児玉金屋こだまかなや(現児玉町)の住人中林次郎太郎が懸仏(社蔵)を寄進している。旧本殿に打ちつけてあった寛永六年(一六二九)の金銅製納札(社蔵)には「生国伊勢今武州江戸日本橋材木町住御当山始而参詣時奉拝(中略)奉納金札願主樋口平太家次」とみえる。ほかにも寛永年中奉納の銅板絵馬が残されており、同一二年三月銘の絵馬は関東郡代伊奈半十郎家臣河野藤重、同一六年二月銘の絵馬は舟都光重、同二〇年二月銘の絵馬は沢田知重、同年同月の絵馬は若林景次がそれぞれ奉納している。また明暦三年(一六五七)五月、盛岡藩主南部重直が洪鐘(社蔵)を献納している。寛文元年(一六六一)には本殿(現存)が四代将軍徳川家綱を大檀那、別当観音院六代竜誉を願主として再建された(棟札)

別当観音院は三峯山高雲こううん寺と号し、開基を光明皇后、開山を月慶(桂)僧都、中興開山を月観道満僧都とし、本地仏は十一面観音。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三峰神社の言及

【オオカミ(狼)】より

…また,山の神の使者とも仮の姿ともいわれてオイヌサマの名で信仰の対象ともなっている。とくに近世有名であったのは関東秩父の三峰神社,中部地方の山住大権現で,熊野地方の神社や但馬,若狭地方にもこれを守札に刷って出した社寺があり,修験道の信仰もその流布にあずかったらしい。また,各地の伝承にも足のとげやのどの骨を抜いてやったところ,その礼としてシカの片脚を庭においていったとか山道での群狼の追求から守ってくれたと語るものがある。…

【奥秩父】より

…荒川の豊富な水力資源を利用すべく進められた総合開発事業の基幹施設である多目的の二瀬ダムは1961年完成し,秩父湖も出現して新しい名所となった。国道140号線も舗装され,67年には県営三峰観光道路もつくられ,火難・盗難よけの神様として庶民に広く信仰された三峰神社への新しい観光ルートが開かれた。雁坂峠越えの甲州裏街道や十文字峠越えの信州往還の関門となった栃本関所跡(史),平賀源内が採金のため逗留(とうりゆう)した中津川の幸島家などの史跡にも富んでいる。…

※「三峰神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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