大滝村(読み)おおたきむら

日本歴史地名大系 「大滝村」の解説

大滝村
おおたきむら

面積:二七四・〇三平方キロ

昭和二五年(一九五〇)九月に徳舜瞥とくしゆんべつ村が改称して成立した有珠うす郡の村。胆振支庁管内の中央西寄り北部に位置し、東は白老しらおい郡白老町、石狩支庁千歳市、北は札幌市南区、後志支庁虻田あぶた喜茂別きもべつ町・留寿都るすつ村、虻田郡洞爺とうや村、南は有珠郡壮瞥そうべつ町に接する。南北に貫流する長流おさる川流域に沿って集落が発達し、支流三階滝さんがいたき川に村名の由来となった見事な三階滝があり、一帯は三階滝公園になっている。高台や丘陵地のほかは山岳地帯で、東側に徳舜瞥山(一三〇九メートル)・ホロホロ山(一三二二・四メートル)がある。長流川に沿って国道四五三号が走り、大滝市街北方で国道二七六号に接続する。近世はウス場所のうち。明治二年(一八六九)八月の国郡画定により、当村域は胆振国有珠郡に所属。大正四年(一九一五)四月に壮瞥村の一部を分割して徳舜瞥村が誕生。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]溝口町大滝

大山南西麓に水源をもつ白水しらみ川中流右岸に位置し、対岸は栃原とちばら村。福永ふくなが原の南西部にあたり、地質は火山岩塊・火山灰土が多い。「日野郡史」によれば、古くは大竹おおたけ村と称し、安永年間(一七七二―八一)の火災後に大滝村と改称したというが、正保国絵図に大滝村と記される。大山領で奥組(山手組)に属した。享保四年(一七一九)の徳川氏朱印状では高六二石余(鳥取県史)。宝暦七年(一七五七)の山手組定免平均帳(吉川家文書)によると高六五石余、免四ツ九厘、物成二六石余。


大滝村
おおたきむら

面積:三三〇・九八平方キロ

郡の南西端に位置し、村域は荒川最上流域、秩父山地に展開する。東は荒川あらかわ村、西は長野県南佐久みなみさく川上かわかみ村、南は東京都西多摩郡奥多摩おくたま町、山梨県北都留きたつる丹波山たばやま村・東山梨郡三富みとみ村・塩山市、北は両神りようかみ村・小鹿野おがの町・群馬県多野たの上野うえの村と接する。県下市町村のうちで最大の面積を有し、標高一〇〇〇メートルから二四〇〇メートル余の峰々に囲まれる。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]今立町大滝

越前和紙の特産地五箇ごか地方の一村で、権現ごんげん山西麓にあり、西は岩本いわもと村と接する。大滝神郷の中心として室町期にはすでに製紙業が盛んであったらしい。長禄四年(一四六〇)一二月吉日付の府中総社神領川野浦納所注文(刀禰家文書)に毎年正月一八日の引出物として「大滝さつし(雑紙)五てう、つくりかみなり」「大滝さつしつくりかみ三てう」と記されている。当時の普及の一面が知られる。また天正三年(一五七五)一〇月一二日付の、前田利家・佐々成政・不破光治のいわゆる府中三人衆から大滝神郷紙屋衆中に宛てた大滝神郷紙座定書(大滝神社文書)によれば、南は南条・敦賀両郡境の峠、北は足羽あすわ郡の浅水あそうず(現福井市)、東は越前・美濃国境、西は日本海岸に至る広範囲の専売区域が前代のとおり許容され、諸役や地下夫役も免除された。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]高野町大滝・あいうら

高野山の南方、有田ありだ川の源流にあたる御殿おど川が南流する谷間に集落がある。高野熊野街道の要衝の一。東は現奈良県、西は現花園はなぞの村。建保六年(一二一八)三月日の高野山所司愁状案(又続宝簡集)に「当山領花園之内大滝、久恵俟、阿左宇俟」とみえ、当地付近は高野山と吉野金峯山との係争地であった(花園村の→花園庄。天保郷帳が現花園村の中南なかみなみあたらし池窪いけのくぼ北寺きたでらの各村を「古者大滝村ノ内」とするように、中世は高野山領花園庄の内で、現花園村の東北部を含んだ広域の村であったと思われる。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]福岡町大滝

荒屋敷あらやしき村の南、小矢部おやべ川右岸の平坦地に立地。東部を岸渡がんど川が北流し、北部を唐俣とうまた川が北東流する。慶長一〇年(一六〇五)の大滝村検地打渡状(福岡町史)によると、田畑屋敷ともで七八町四反余、分米一千一七七石余。元和五年(一六一九)の家高新帳では役家数一三、大滝組に属した。なお同帳にみえるいのはな村(役家数五)はのち大滝村に含まれたと推定される(福岡町史)正保郷帳では高一千二〇六石余、田方七〇町一反余・畑方一〇町二反余。寛文三年(一六六三)の川西家高付帳(川合家文書)では役家数一八。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]垂井町大滝

敷原しきはら村の南西に位置し、村域より発する大滝川の上流には高さ一五メートルの不破の滝がある。南は新井あらい村。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳で荒井あらい村のうち高一六五石余とみえるのが当村と考えられ、改帳では西尾忠永(上野白井藩)領となっている。正保郷帳では稲葉正吉領(のち青野藩領)で、田高一二六石余・畑高三九石余、山年貢は米で四石。


大滝村
おおだきむら

[現在地名]大豊町大滝

南小川みなみこがわの北岸、川井かわい村の北、大平おおだいら村の北東に位置し、「土佐州郡志」は「東西八町南北十二町」と記す。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「南地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「大滝名」とみえ、検地面積三町四代三歩、うち田分四反二六代三歩、畠分五反二五代一歩、屋敷一一で二町二代五歩であった。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]真室川町大滝

釜淵かまぶち村の北東、南西流する塩根しおね(真室川)流域に位置する。古くはかわうち村地内であったが、寛永一七年(一六四〇)より庄司長左衛門が新田を開発、元禄一六年(一七〇三)川ノ内村より分れ一村となったが、同村の添郷であった(新田本村鑑)。明和三年(一七六六)には高三〇九石余・反別三五町二反余、文化元年(一八〇四)には高三〇九石余、うち田方二七〇石余、反別三五町二反余、うち田方二八町七反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)の新庄領総高控では竈数二六・人数一八一、駄馬一九。明治三年(一八七〇)の郷村高帳によると山運上銀二五匁余・威鉄砲運上銭三〇〇文を上納。村内に大日・山神・不動の堂社がある。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]小国町大滝

新原しんばら村の南、大滝川の上流山間にある。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録に「大たき在家四間」とあり、上郡山民部大輔に加恩として与えられた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一三六石余、免三ツ七分、家数一二(うち役家四、肝煎一)・人数六二、役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中、修正前の高は一六八石余。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣三。正保二年(一六四五)当村の八右衛門は東滝ひがしたき村・西滝村など四ヵ村の百姓欠落の主導者として磔刑に処せられた(寄合帳)。上杉領村目録によると高三三七石余、本免三ツ二分八厘九毛余。反別は田二二町二反余・畑六町一反余・屋敷一町一反余(文化八年改)、家数一五・人数八一、馬一九。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]川上村大字大滝

吉野川流域、西河にじつこう村の南に立地。この付近では岩壁が屹立して河岸に迫り、吉野川の水勢がきわめて激しく一面の岩畳を奔流していることから、大滝の名がある。「和州巡覧記」に「西河の滝 是吉野川の上也。大滝とも云。村の名をも大滝と云。清明が滝より五町ばかり有。此滝は、只急流にて大水岩間を漲落る也。よのつねの滝のごとく、高き所より流落にはあらず。岩間の漲ぎり沸事、甚見事也」と記す。

川上郷のうち。慶長郷帳では村高七二・三五石、幕府領(代官大久保長安)


大滝村
おおだいむら

[現在地名]上野市大滝

予野よの村の南。標高二五〇メートル前後の山中で、西の名張なばり川が大和国と境する。永禄一一年(一五六八)三月一四日、吉田兼右は「大滝九頭社神人」に神事以外の時は農作を行ってよいとの裁許状を与えている(兼右卿記)。この九頭くず大明神は「伊水温故」「伊賀国誌」「宗国史」が南のかつら村にあてており、永禄の当時は一村であったのかもしれない。元禄三年(一六九〇)新検を改め、本高五五四・二九石、平高六〇三石。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]朝日町大滝

北流する最上川左岸に朝日川が合流する地点の対岸にあり、北は雪谷ゆきたに村。正保郷帳では田方八七石余・畑方二七石余。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。東五百川ひがしいもがわ上郷かみごう組に属し、天明七年(一七八七)の松山藩左沢領村々大概書(松山町教育委員会蔵)によれば高一一五石余、田四町余・畑二町二反余、家数一七・人数七五、馬五で、御林二ヵ所・百姓持山八ヵ所があり、谷川が最上川に流れ下り橋四ヵ所、農間余業として男は薪を取り、女は蚕を飼い太布を織り、青苧を作る。


大滝村
おおだきむら

[現在地名]門前町大滝

浦上うらかみ村の西の谷間に立地。垣内に畠中はたけなかがある。中世は志津良しつら庄の内。大永元年(一五二一)から天文五年(一五三六)頃と推測される渓和尚志津良庄年貢帳(棘林志)に「畠中」とみえ、六五〇束の田地があった。天正一五年(一五八七)七月四日の年貢算用状案(刀禰文書)に、畠中村の前年分の荒高三五俵とみえる。正保郷帳では大滝畠中村とみえ、高五六石余、田方一町六反余・畑方一町一反余。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]益田市向横田町むかいよこたちよう

高津川中流左岸に位置し、東対岸は寺垣内てらがいち村、北は向横田村。後溢うしろえき川の中流と高津川左岸の平地との間に標高一五〇メートルほどの峻険な山が立ちはだかる。崖状の山と高津川で囲まれ、灌漑用水にも不便な陸の孤島であった。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。正保国絵図では高八四石余。


大滝村
おおたきむら

[現在地名]国後くなしり郡留夜別村大字大滝村

明治二六年(一八九三)から大正一二年(一九二三)までの村。留夜別村の西、南は秩苅別ちぷかりべつ村に接し、西から北はオホーツク海に面する。ルルイ岳(一四八六・三メートル)の北裾、北西端に位置してルロイ岬がある。明治二六年秩苅別村と留夜別村の各一部が分離して大滝村が成立。ショケベヲッチシ、ルロイ、シベトロヲンネトウトショロなどを包含している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「大滝村」の解説

大滝村(国道140号 秩父往環道)

(埼玉県秩父市)
日本の道100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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