三本松村(読み)さんぼんまつむら

日本歴史地名大系 「三本松村」の解説

三本松村
さんぼんまつむら

[現在地名]大内町三本松

与田よだ川東部の沖積地に位置する。北は播磨灘に面し、須賀すがの浜が広がる。浜の東端に三本松湊がある。南は秋葉あきば山・まえ山の丘陵地で、西部をふる川が流れて河口で与田川と合流する。東はみなと(現白鳥町)。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」には三本松からの入船二〇艘を記載、米や塩・豆・鰯・材木などを積出し、また関銭免除の過書船として、管領細川氏の京上米を輸送したことがわかる。慶長一四年(一六〇九)三本松六八四石八斗余を含む大内郡西部九ヵ村が水口隼人に預け置かれた(同年一一月一四日「生駒一正預ケ状」生駒家宝簡集)。寛永七年(一六三〇)の引田馬宿浦鰯網出入覚書(瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)の宛先に三本松政所四人の名がみえる。寛永国絵図では白鳥しろとり郷に含まれると推定され、寛永一七年の生駒領高覚帳では高四七一石余。文政七年(一八二四)の内免仕別帳(津本文書)によると、田方二八町四反余・三七三石四斗余、畑方一六町余・八一石一斗余、新開三町八反余・二三石六斗余。郷蔵が設けられ、大内郡西部二三ヵ村の年貢を収納した。小物成は寛永一九年の高松領小物成帳では御菜米三石八斗四升。文化八年(一八一一)の皆済目録(津本文書)によると本租のほかに林運上として銀札七匁二分余、薪一束四分などを納めている。天明七年(一七八七)の明細帳(同文書)によれば人数一千五三九、うち本百姓六二一・本水夫一五三・賃水夫二二三・漁師二一〇・酒屋一九・紺屋一九・御林守一二・大工七など、戸数四二九、寺院一・神社三・社堂四、御林二、池七、船八〇、浦番所二(御番所一・添番所一)、狼煙場二、牛四〇。灌漑は古川・与田川の伏流水による出水と溜池によった。池泉合符録によると溜池は丸山池・芦尾大池など一一。延享―安永年間(一七四四―八一)に庄屋を勤めた津本家には浦方・村方の庄屋文書が残る。

寛政(一七八九―一八〇一)頃から砂糖生産が普及した。甘蔗作付面積は文化一一年一町一反(日下文書)、文政七年四町三反余(前掲、内免仕別帳)。文政年間の砂糖絞車数二〇(「砂糖車数調帳」大内町史)、文政一〇年の砂糖取引は白下糖一二〇挺・蜜二四挺で、売主は、はりまや与兵衛(白下糖二一挺)、周五郎(蜜二四挺)など一五人、買主は志度しど(現志度町)万蔵、川東かわひがし村武六、三本松村春蔵・友助・与助・平七など一二人。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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