大内郡(読み)おおちぐん

日本歴史地名大系 「大内郡」の解説

大内郡
おおちぐん

讃岐国の東端に位置し、西は寒川さんがわ郡、東と南は阿波国に接し、北は瀬戸内海に面する。東部を馬宿うまやど川、西部をみなと川が北流する。現大川郡のほぼ東半分を郡域とした。

〔古代〕

天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(正倉院文書)の寺領庄園を記した個所に「大内郡一処」とみえる。「和名抄刊本の訓は「於布知」、また「延喜式」民部省に「大内おほち」とある。「和名抄」記載の管郷は引田ひけた白鳥しろとり入野にゆうのや与泰よだの四郷。平城宮跡出土木簡に「大内郡白鳥郷」「大内郡入野郷」と記されたものがある。「続日本後紀」承和一〇年(八四三)五月八日条によれば、当郡は小郡郡司は領・帳各一員であったが、郡務に支障をきたし、かつ郷戸田数も増加したため、この日、下郡に改め領一員を加えている。当郡の南部を南海道が横断しており、「延喜式」兵部省に記す引田駅は引田郷にあったとみられる。郡内の式内社は小社の水主みずし神社があり、現大川郡大内町の同名社に比定される。同社は貞観七年(八六五)四月九日、一階を増して従五位下に叙せられている(三代実録)。郡内の古寺院としては、奈良法起ほつき寺と同じ伽藍配置をもつ白鳥廃寺(現大川郡白鳥町)や水主神社の神宮寺であった与田よだ寺、平安時代後期の創建と推定される高松廃寺(現白鳥町)などがある。入野郷については寛弘元年(一〇〇四)戸籍(九条家本「延喜式」紙背文書)二二戸分が残る。前掲流記資財帳により、郡内に奈良法隆寺領の庄園があったことがわかるが、平安時代においては庄園の存在が確認されない。

〔中世〕

鎌倉時代後半には当郡はまるごと庄園と化し、皇室領大内庄となった。讃岐唯一の郡名庄である。同庄は後嵯峨院の御願寺京都浄金剛じようこんごう院の寺領として天皇家に伝領された。与田郷には幕府地頭が置かれたが、正嘉二年(一二五八)七月一九日の小早川本仏(茂平)譲状案(小早川家文書)によれば、小早川氏が同郷に領した所職は地頭職のみではなく、公文・案主・田所図師・惣検校検断の諸職に及び、与田郷が没収地であることを示す。南北朝時代末期から応永年間(一三九四―一四二八)にかけて、与田虚空蔵こくぞう(現大内町)の僧増吽は、水主神社や与田寺をはじめとして南北朝の動乱で荒廃した国内の寺社を精力的に復興するとともに、同一九年には京都北野神社において一切経の供養を願主として行った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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