日本大百科全書(ニッポニカ) 「三次藩」の意味・わかりやすい解説
三次藩
みよしはん
備後(びんご)国三次地方(広島県三次市)を領有した広島藩の支藩。1632年(寛永9)広島藩を襲封した浅野光晟(みつあきら)は、庶兄浅野長治(ながはる)に三次・恵蘇(えそ)両郡を中心に5万石を割いて分知。長照(ながてる)、長澄(ながずみ)、長経(ながつね)、長寔(ながざね)と5代続いたが、1720年(享保5)長寔が幼少で病没、嗣子(しし)なく遺領は本藩へ還付された。初代長治は、積極的に藩体制の整備を進め、藩経済の自立に取り組むが、備後北部の低生産地帯に立地していたため、当初から藩財政の窮乏状態を抱えていた。幕府公役や参勤交代、江戸滞在費などの多くは、京・大坂町人からの借銀、本藩援助を仰いだが、累積した借銀は、1674年(延宝2)に1480貫目、元禄(げんろく)初年(17世紀末)には「大借銀御難儀」という有様であった。藩は1669年(寛文9)以前から藩札を発行したり、1686年(貞享3)から1714年(正徳4)までに、侍・切米取(きりまいどり)・扶持人(ふちにん)141人に及ぶ大量召放(めしはな)ちを断行して財政軽減を図った。そして、1699年(元禄12)諸藩を渡り歩き藩政改革請負人(うけおいにん)といわれる松波勘十郎(まつなみかんじゅうろう)を京都から招いて、年貢の総米納、国産鉄・紙の買占め、家中知行(ちぎょう)の総借り上げと藩札支給などを主体とする徹底した藩政改革を実施し、領内の米・物産のすべてを大坂に積み登らせ、換銀して借銀払いに充当しようとした。しかし、この改革は3年後に挫折(ざせつ)し、1713年(正徳3)、18年(享保3)両度にわたる全藩一揆(いっき)の主原因となった。
[土井作治]
『『三次分家済美録』(1980・広島県双三郡・三次市史料総覧刊行会)』▽『『広島県史 近世 1』(1981・広島県)』