広島藩 (ひろしまはん)
安芸国(広島県)広島に居城した外様大藩。毛利輝元が1589年(天正17)太田川河口デルタの地を広島と命名して築城に着手,翌々年吉田郡山城からここに移り,中国地方9ヵ国にまたがる大領国を支配する拠点と定めたのがその起りである。関ヶ原の戦後,毛利氏が周防,長門2国に削封されて去ったあと,広島城に入ったのは安芸,備後両国を領した福島正則である。福島氏は1601年(慶長6)検地を行い,さらに新開造成も加わり,毛利時代には両国で40万石余であったのが52万石余に増加し,17年(元和3)将軍徳川秀忠の朱印状では49万8000余石とある。福島時代に町方・郡中支配のしくみや貢租制度の近世的整備が進み,それらの多くは次の浅野氏によっても継承された。
かねて幕府にうとまれていた正則は,19年城郭の無断修築の口実で封を除かれ,広島城には和歌山より浅野長晟(ながあきら)が安芸一国と備後半国42万石余を領して入った。浅野氏の支配は12代,廃藩に至るまで続く。その間,光晟襲封の1632年(寛永9)庶兄長治を分封して三次(みよし)藩5万石の支藩を立てたが,これは1720年(享保5)5代長寔(ながざね)の早世で嗣を絶ち,封土は本藩に復した。その後30年,蔵米3万石を分けて内証分家青山家を立てたが,幕末・維新期の本藩主を継いだ長訓(ながみち),長勲(ながこと)はその出である。1719年幕府への上申によると,三次5万石を除き,領知高43万3000石余を認められているが,寛永・正保期(1624-48)の地詰めによる打出しと新開高の増加によるものである。このうち蔵入高は63%,家老給知を含む給知高が37%となっており,その比率は嘉永(1848-54)末年でも変わらない。家老給知は永代地方(じかた)の割替えがなく,一般侍士の地方給知はたびたび割り替えられた。幕末段階の侍士数は1179人,そのうち地方知行622人,切米取557人で,ほかに歩行(かち)780人,足軽は2000人を超えていた。藩政初期には家老が藩政を統裁したが,藩主吉長は家老を顧問格に据え,藩主直裁のもとで人材登用による数名の年寄を執政とし,職制を整備した。このとき〈正徳の新格〉とよばれて農村支配の強化がはかられたが,1718年全藩一揆が起こり〈新格〉は撤回された。
藩領域は山間部の砂鉄製錬,沿海部の入浜製塩,新開地を中心とした綿作,太田川流域一帯のチョマ(苧麻)栽培,さらにコウゾ(楮)製紙の産も多く,沿岸島嶼部の造船業も発達した。大坂に結ぶ内海航路の中枢を押さえて,海保青陵が〈芸侯の商売上手〉と評したように,広島藩は巧みな商業政策で藩の富強をはかったが,19世紀に入ると,やや放漫に流れ,藩政が動揺した。幕末動乱期には辻将曹ら改革派が台頭し,2度の長州征伐で広島が征長軍の基地となったときも,広島藩はむしろ和平をはかることに奔走した。その後,薩・長・芸三藩同盟による討幕の計画に参じたが,一方土佐藩とともに幕府に大政奉還をすすめ,薩・長の不信をかった。なお藩主吉長,重晟は好学で知られ,吉長は1725年藩学講学館を設けたが,のち閉鎖されたため,82年(天明2)重晟は改めて修道館を開設し幕末に及んだ。
執筆者:後藤 陽一
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広島藩
ひろしまはん
安芸(あき)・備後(びんご)両国を領有した外様(とざま)藩。安芸藩、芸州(げいしゅう)藩ともいう。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに敗北した毛利輝元(もうりてるもと)が防長2国に移封されたあと、尾張(おわり)国(愛知県)清洲(きよす)から福島正則(まさのり)が芸備49万石余に入封。正則は広島城のほか、三原(みはら)、三吉(三次)(みよし)、小方(おがた)、鞆(とも)、神辺(かんなべ)、東城(とうじょう)に支城を設け、芸備22郡の各郡に代官衆を配したが、1615年(元和1)の一国一城令により、三原城を除き取り壊された。1601年領内総検地を行い、約9万石を打ち出したほか、町在分離、貢租体系、交通制度の整備など幕藩制支配の基礎を成立させた。1619年正則の改易により紀伊国和歌山から浅野長晟(ながあきら)が、安芸一国、備後8郡42万石余に入封。以来、光晟(みつあきら)、綱晟(つなあきら)、綱長(つななが)、吉長(よしなが)、宗恒(むねつね)、重晟(しげあきら)、斉賢(なりかた)、斉粛(なりたか)、慶熾(よしてる)、長訓(ながみち)、長勲(ながこと)と12代続いて明治維新に至った。
1632年(寛永9)藩主光晟のとき、庶兄長治(ながはる)に5万石を与えて三吉(三次)藩を分知。寛永(かんえい)・正保(しょうほう)の地詰(じづめ)や大規模な新田開発により1664年(寛文4)の幕府報告では打出高・新田高が5万石を上回った。1720年(享保5)三次藩の継嗣(けいし)断絶により領知5万石は本藩に還付。3万石の青山内証(ないしょう)分家がつくられる。5代吉長は室鳩巣(むろきゅうそう)に当代随一と評され、1712年(正徳2)の郡制改革をはじめ強力な藩政改革を行うが、1718年(享保3)には全藩一揆(いっき)の抵抗を受ける。瀬戸内海に面した沿海部では、塩、木綿、畳表、牡蠣(かき)、海苔(のり)、海産物、中国山地に接した内陸部では、鉄、紙、麻苧(あさお)、林産加工の特産物が発展し、藩は早くから材木、鉄、紙などに藩専売制を敷き、のち畳表、木綿、灯油、扱苧(こぎそ)などにも及ぼした。宗教は真宗が盛んで、領内寺院の半数近くを占め、安芸門徒の結束が固く、慧雲(えうん)、大瀛(だいえい)、僧叡(そうえい)ら優れた学僧が出た。竹原の頼(らい)家三兄弟や香川南浜(なんぴん)をはじめとして民間出身の学者が輩出し、藩校にも登用された。藩校学問所では、古学、朱子(しゅし)学、闇斎(あんさい)学など各学派が東学・西学に分かれていたが、幕府の寛政(かんせい)異学の禁に先んずること5年、1785年(天明5)に朱子学を軸とする藩学統一が行われた。1864年(元治1)に始まる長州戦争には、幕軍の前線基地が広島城下に置かれて騒然となり、佐伯(さえき)郡西部は戦禍を被って大きな犠牲が出た。1867年(慶応3)広島藩は薩摩(さつま)・長州と三藩同盟を結び、討幕に踏み切りながら、大政奉還の建白を行うなど、藩論が統一せず日和見(ひよりみ)藩として信用を失い、維新の主流から外されていった。1871年(明治4)廃藩、広島県となる。
[土井作治]
『『広島県史 近世1・2』(1981、84・広島県)』▽『『新修広島市史』全7巻(1957~62・広島市)』▽『『芸藩史』全27巻(1980・文献出版)』
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ひろしまはん【広島藩】
江戸時代、安芸(あき)国安芸郡広島(現、広島県広島市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は講学館、のち修道館。1600年(慶長(けいちょう)5)、関ヶ原の戦いに敗北した毛利氏が周防(すおう)国、長門(ながと)国の2国に減封(げんぽう)されて去ったあと、福島正則(ふくしままさのり)が尾張(おわり)国清洲(きよす)から入封(にゅうほう)して立藩。正則は安芸国、備後(びんご)国の2国49万石を領し、翌年に検地を行い、城下町の建設や貢租制度の整備を進めたが、洪水で崩壊した広島城の石垣を無断改修したとの理由で19年に改易(かいえき)となった。代わって、浅野長晟(ながあきら)が紀伊(きい)国の紀伊藩から42万6000石余(安芸1国と備後半国)で入封した。32年に支藩として三次(みよし)藩が成立(のちに廃藩)。浅野氏は瀬戸内海航路の要衝として、木材・鉄・紙などの専売を敷くなど藩財政の強化をはかり、その支配は12代続いて明治維新に至った。長州征伐では幕府軍の最前線基地となり、1867年(慶応(けいおう)3)には薩摩藩、長州藩と三藩同盟を結んで倒幕に踏み切ったが、一方では土佐藩に続いて幕府に大政奉還の建白を行うなど日和見(ひよりみ)藩として不信を招き、明治維新の主流からは排除された。1871年(明治4)の廃藩置県により広島県となった。◇安芸藩、芸州(げいしゅう)藩ともいう。
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広島藩
ひろしまはん
安芸 (あき) 藩,芸州 (げいしゅう) 藩ともいう。江戸時代安芸国 (広島県) 広島地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後 120万 5000石の毛利輝元が長門 (山口県) 萩へ移封,代って福島正則が尾張 (愛知県) 清洲から 49万 8000石で入封したのに始る。福島正則は元和5 (1619) 年石垣修理のことから除封 (同年信濃川中島4万 5000石に再封) され,代って浅野長晟 (ながあきら) が紀伊和歌山から 42万 6500石で入封。次の光晟 (みつあきら) の代に寛永9 (32) 年に備後国 (広島県) に支藩三次 (みよし) 藩5万石を創設。享保4 (1719) 年の吉長の代に三次藩は廃して三次町奉行をおいた。同 15年には廩粟 (りんぞく。もみ米) 3万石を長賢 (ながかた) に分与して広島新田藩を創設,明治維新にあっては討幕派の中心勢力の一つとして活躍し,廃藩置県にいたった。浅野氏は外様,江戸城大広間詰。
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広島藩
ひろしまはん
芸州藩とも。安芸国広島(現,広島市)を城地とする外様大藩。関ケ原の戦までは毛利氏の領地であったが,戦後,尾張国清洲から福島正則が入封。関ケ原の戦の功により,安芸・備後両国など49万8200石余を領した。1619年(元和5)正則は居城の無断修復を理由に除封され,かわって紀伊国和歌山から浅野長晟(ながあきら)が入封。藩領は安芸一国および備後の西半国に及ぶ42万6500石余。以後12代にわたる。17世紀の半ば頃までに,本格的な領内検地の実施や行政機構の整備などを通して藩政の基礎をほぼ確立。のち農村支配機構の強化をはかるが,これに対して1718年(享保3)全藩規模の一揆がおこった。幕末,郡制機構の整備と軍備の強化,財政再建など改革を推進。特産物としては木綿・木材・紙・鉄・塩などがあり,早くから専売制度を実施。詰席は大広間。藩校修道館(1866設立)。2代光晟のとき松平姓を許され,以後公式には松平を称した。支藩の三次(みよし)藩は1720年に断絶,30年広島新田藩をおく。廃藩後は広島県となる。
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広島藩【ひろしまはん】
芸州(げいしゅう)藩とも。安芸(あき)国広島に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は福島正則(まさのり)が1619年改易後,浅野氏が明治まで在封。領知高は福島氏は約50万石,浅野氏は安芸1国と備後(びんご)半国で約37万6000石〜42万6000石。広島城跡は国指定史跡。
→関連項目安芸国|浅野氏
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広島藩
安芸国、広島(現:広島県広島市)を本拠地とした藩。関ヶ原の戦いで敗北した毛利輝元が移封された後、福島正則が安芸・備後2か国の49万石余を得て入封。広島城の改修をめぐって正則が改易された後は紀伊国から入封した浅野氏が藩主となる。長州征伐の際は幕府軍の前線基地となった。
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世界大百科事典(旧版)内の広島藩の言及
【イグサ(藺草)】より
…畳表の生産は備後国沼隈郡,備中国窪屋郡,都宇郡が盛んで,とくに沼隈郡の畳表は備後表として全国的に有名である。備後表は室町以来引通(ひきとおし)表であったが,1602年(慶長7)短いイグサも活用できる中継(なかつぎ)表が発明され,広島藩主福島正則の奨励もあっておおいに発展し,沼隈郡では48年(慶安1)機数1619台,1833年(天保4)には2751台を数えた。備後表は広島藩(のち福山藩)が領内の特産として献上表と称し,厳選して幕府に献上したが,幕府は株仲間商人を通し御用表を買い上げた。…
【備後国】より
…【松岡 久人】
【近世】
[藩領の成立と推移]
豊臣政権のもとでも中国地方9ヵ国を領有した毛利輝元は,1600年(慶長5)関ヶ原の戦に敗北し,防長両国へ移封された。芸備両国へは福島正則が入封して[広島藩]万石が成立し,幕藩体制が強力に推進された。正則は領国経営のため,広島のほか備後の三原,鞆,三次,東城,神辺の各地に家臣団を配置して支配を固めるとともに,翌01年領内に太閤検地の原則に基づく惣検地を実施し,惣百姓(名請百姓)による年貢村請(むらうけ)制を実現した。…
【御手洗】より
…港町繁栄策として富籤(とみくじ)や町出来銀の制が行われたりした。幕末には芸薩交易の貿易港が御手洗に指定され,広島藩から銅10万斤,鉄3000駄,米3万石,繰綿(くりわた)5000本,木綿2000丸,薩摩藩から生蠟(きろう),硫黄花,製糖用平釜,現金10万両など大規模な取引が成立している。1956年大長村などと合体し,豊(ゆたか)町となった。…
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