三田陣屋跡(読み)さんだじんやあと

日本歴史地名大系 「三田陣屋跡」の解説

三田陣屋跡
さんだじんやあと

[現在地名]三田市屋敷町天神二丁目

寛永一〇年(一六三三)三田藩(外様小藩)入部した九鬼氏が領内支配のために武庫むこ川右岸丘陵の車瀬くるませ(三田城)跡地南側に築いた陣屋跡。三田城は福知山藩領時代の元和元年(一六一五)に廃城となったとされ、同七年に有馬豊氏が筑後久留米に転封となった後は幕府領であった(「三田歴代領主調」九鬼家文書)。寛永三年に出羽国上山藩から松平重直が三田に三万石で入部、同九年に豊前国龍王りゆうおう(現大分県安心院町)に転封した(寛政重修諸家譜)。翌一〇年九鬼久隆志摩鳥羽とば(現三重県鳥羽市)から三田藩三万六千石で入部。「寛文朱印留」では有馬ありま郡内五三村・三万石、丹波国氷上ひかみ郡内一〇村・六千石。城の建設は許可されなかったため三田城跡地の要害を利用して、その南西丘陵上に領内支配のための陣屋を構築した。安政二年(一八五五)模写の寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)によれば、陣屋(御屋敷)東西約七二間・南北三〇間。陣屋は内堀・土手で囲まれ、南におお池があり、北は旧三田城跡地が三区分され、東端の天守跡地には的場・蔵、中央は茶屋、西端は二の丸で空堀・土手で囲んでいる。陣屋・二の丸・土蔵などを取囲むように重臣および上級家臣屋敷を配置し、その一段低い地に足軽など下級武士を配して足軽あしがる町とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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