三重城跡(読み)みえじようあと

日本歴史地名大系 「三重城跡」の解説

三重城跡
みえじようあと

[現在地名]名田庄村三重

三重と久坂ひさざかとの境界近く、山田やまだ裏山にある。跡地城主について「若狭郡県志」は「在下中郡三重村小野地之山上、相伝、大田祐安者所拠之城跡也、又云、其後曾我又六郎居焉、後改号兵庫頭、然養松宮玄蕃允孫弥助之男尚祐尚或作昌子、又左衛門是也」とし、「若狭国志」は「在山上今曰崎山、相伝、大田祐安所拠、其後曾我又六郎拠之」と記す。

大田祐安はもと摂津国高槻たかつき(現大阪府高槻市)の城主であったが、戦いに敗れて当地に落延び三重城を築いた。


三重城跡
みえぐすくあと

[現在地名]那覇市西三丁目

近世の西にし村南端の通堂とんどうから西の海中岩礁をつないで延びた海中道路(臨海堤)の先にあった城砦。那覇港口の北に位置し、古くは南の屋良座森やらざむいグスクと対となって、港の防御を担っていた。方音ミーグスクは新しい城の意である。屋良座森グスクが一五五四年の築造であることから、その後の築城かとされる。しかし古くは硫黄いおう城と御物おもの城が那覇港口の防御ラインであり、その後那覇港の発展で新たに築造したのが新城(三重城)と考えると、屋良座森グスクに先行して築城された可能性もある。「球陽」尚貞王二七年(一六九五)条によると、嘉靖年間(一五二二―六六)那覇の汪農大親が築いたのが始まりという。


三重城跡
みえじようあと

[現在地名]大宮町字三重 城山

下地しもじの西、くら谷と年座ねんざ谷との中間の丘陵にある。

「丹後旧事記」に「三重村城 大江越中守」とあり、明治七年(一八七四)の三重村限取調書上帳(「三重郷土志」所引)は「応永二年ヨリ天正十年マデ代々越中守殿御在城」と記す。ちなみに大江越中守については智恩ちおん(現宮津市)境内にある等身石地蔵の一体の背銘に、「願主三重郷大江越中守法名永松奉彫刻一千体内特取石等身図以結永々勝因者也 応永三十四年九月十七日」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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