三重村(読み)みえむら

日本歴史地名大系 「三重村」の解説

三重村
みえむら

[現在地名]長崎市三重町・三重田町みえだまち畦町あぜまち樫山町かしやままち松崎町まつざきまち三京町さんきようまち京泊きようどまり一―三丁目・さくらのさと一―三丁目・多以良町たいらまち鳴見町なるみまち鳴見台なるみだい一―二丁目

式見しきみ村の北西にあり、東部に飯盛いいもり岳・矢筈やはず岳などが連なり、西に向かって多以良川(二股川)が流れる。西部に上佐賀かみさが山・野々のの岳・岳があり、三重川などが南流して海(角力灘)に注ぐ。一里山が置かれた(慶安二年肥前国道法帳)。三江とも記す。中世は彼杵そのき庄のうちで、建武三年(一三三六)一一月一九日の源景家和与状(深堀文書)に「彼杵庄南かたのうち、ミゑくろさき」とみえ、平氏女が景家(「いせむらの六らう三らう景家」と記す)を養子として重代相伝のこの浦々と山野・田畠・在家などを譲ったところ、文書の正文をもつ深堀時継が異議を申立ててきたので、両所を三分割し、三分二を景家、三分一を時継の支配として和与がなった。深堀氏一族間の相論であろう。元亀元年(一五七〇)来日したイエズス会日本布教長カブラル神父はこの冬ほかの神父とともにミエMiyeを含む西彼杵にしそのぎ半島の海岸部を訪問、ミエではその城に属する人々が多く洗礼を受け、城の守将ドン・ロレンソの夫人も説教を聞いて受洗してキリシタンになったという(一五七一年一〇月一六日「フィゲイレド書簡」イエズス会士日本通信)。地内の三京遺跡に中世の墓跡がある。天正一五年(一五八七)夏に長崎町・浦上うらかみ村・家野よの村・外目そとめ村が公領(豊臣秀吉の直轄領)となり、慶長一〇年(一六〇五)九月長崎新町とその属邑が幕府領になるに伴い浦上村・家野村・外目村は再び大村家領になったというが(「大村家記」など)、この外目村が三重村に相当するとされ、古くは一ヵ村で、慶長年間に陌苅あぜかり(陌苅平村とも)雪浦ゆきのうら(現大瀬戸町)黒崎くろさき(現外海町)が分立し、文政二年(一八一九)陌苅村たいら村を再び編入したという(「大村郷村記」など)

〔大村藩領〕

大村領の外海そとめに属する。慶長高帳では蔵入地のほか、庶家一門一人や、知行高五七石余の長崎甚左衛門ら西方衆二人、小姓衆三人・外浦衆三人の知行地があった。慶長一〇年の外目村は田畑屋敷および小物成とも二八八石余で、陌苅村一三五石余・雪浦村一〇六石余・黒崎村一二三石余(大村家記)。同年の大村領内高目録に三重村とみえ、高二三七石余で、田一四町五反余・畠一一町、物成一三〇石余。また別に浦上のうち黒崎村の高一二三石余のうちに三重などが記され、当地と考えられる。

三重村
みえむら

[現在地名]名田庄村三重、小浜深野ふかの

現名田庄村のほぼ中央北端部に位置し、村内中央をみなみ川が北流する。京都・丹波と小浜を結ぶ知井ちい坂越の丹波道の出入口的位置を占める。名田庄の他の村々に比べ平坦地が多く、生業は農業をもっぱらとした。

中世には名田庄の地。年不詳若狭名田庄調度文書案(大徳寺文書)によれば名田庄下庄に含まれているが、建治三年(一二七七)八月日付藤原実忠重譲状(同文書)に「蓮花王院御領若狭国名田庄上村 坂本 下村 中村 田村 三重 知見(中略)此内聊有子細、上村・三重仮名事、譲字更不証文、令惣領知行給之後、嫡子禅師丸可相伝也」とみえるのを最後に大徳寺文書からその名は消える。

三重村
みえむら

[現在地名]大宮町字三重

三坂みさか村から南東に走る大内おおち峠越の宮津への道が村の北端を通り、南端を間人たいざ街道が南へ走る。竹野川の上流が村の北東から南西へ流れ、川に沿ってわずかな田が開ける。

古代の三重郷(和名抄)の地とされ、中世末の丹後国御檀家帳には、

<資料は省略されています>

と記される。

慶長検地郷村帳に高六六九・六一石「三重村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高で八二七石余となった(天和元年宮津領村高帳)

三重村
みえむら

[現在地名]諸富町大字為重ためしげ字三重

現諸富町の西南部に位置し、川副町に接する。慶長絵図に村名がみえ、高二千一三三石七斗六升とある。天明三年(一七八三)の郷村帳には小字に新北小路が記される。

三重村には佐賀藩の川副代官所が置かれ、川副上郷・同下郷・同東郷・与賀上郷・同下郷の行政をつかさどった。外様御側諸役系図(佐賀県立図書館蔵)によると、川副代官所の役人の構成は、代官役(侍一人)、助役(侍四人)、手許役(手明鑓てあきやり八人、うち見習四人)、下役(足軽七人、うち差次一人)である。安政五年(一八五八)村内の三重津みえつに佐賀藩の船手稽古所が設けられ、洋船運用術の教育を行った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報