三重郷(読み)みえごう

日本歴史地名大系 「三重郷」の解説

三重郷
みえごう

和名抄」記載の大野郡三重郷の系譜を引く中世郷で、郷域は現三重町を中心に現野津のつ町と現南海部郡宇目うめ町の各一部を含む一帯に比定される。豊後国弘安田代注進状には国領として三重郷がみえ、田数は一八〇町。地頭は同注進状では「新 陸奥守」、豊後国弘安図田帳に地頭名は「新田陸奥守」となっており、秋田城介安達泰盛をさすとされる。弘安八年(一二八五)一一月泰盛は霜月騒動で誅殺され、その後の地頭は不明。だが元徳三年(一三三一)一〇月一三日に信忍(北条基時)が郷内内山うちやま(蓮城寺)院主職を禅心に寄進していることから(「沙弥信忍寄進状案」大友文書)、北条得宗領となったと考えられる。北条氏滅亡後は没官され、元弘―建武(一三三一―三八)勲功の賞として戸次頼時に宛行われたらしく、観応二年(一三五一)二月一〇日頼時から嫡男福寿丸(直光)へ譲られた(「戸次頼時譲状案」立花文書)。その後当郷は分割され、貞治三年(一三六四)には一部を除き大友氏時領となった(同年二月日「大友氏時所領所職等注進状案」大友文書)。同じ頃大友一族の平行宗は恵良惟澄に対し、もし三重郷の知行が相違したならば代所として井田いだ郷を宛行うと約している(年未詳二月一二日「平行宗書状写」阿蘇家文書)。応永八年(一四〇一)七月一一日には智尾地での忠節を賞し、戸次直世から奥嶽兵衛四郎入道に三重郷内三貫分の地が与えられている(「家次奉書」奥嶽文書)。明応(一四九二―一五〇一)頃には田北将監(繁胤)に三重郷内など一八貫三〇〇分など(年未詳八月六日「大友材親知行預ケ状写」田北憲明文書)、沓懸隼人佐に八貫分(年未詳一二月一九日「大友親治知行預ケ状」沓掛文書)、享禄元年(一五二八)には五貫分が丹生治部丞に預けられるなど(一二月一三日「大友義鑑知行預ケ状」丹生文書)、大友氏は郷内の所所を被官に宛行っている。


三重郷
みえごう

「和名抄」に載る大野郡四郷の一。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。中世の三重郷は当郷を継承する郷と思われる。同郷は郡の南東部の大野川右岸、現三重町を中心として現野津のつ町や現南海部郡宇目うめ町の一部を含む一帯を郷域とした。文治四年(一一八八)三月一〇日の大法師基覚譲状案(大友文書)に「三重郷内山寺院主職事」とみえる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる三重駅は名称が郷名に通じることから、当郷内にあったとみられている。


三重郷
みえごう

「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠くが、伊勢国三重郡の例では刊本に「美倍」と訓ずる。

古代の三重郷は他にみえず不明。中世の丹後国田数帳には、

<資料は省略されています>

とある。

郷域は竹野川上流の三重村(現中郡大宮町)を中心とした三重谷一帯であろう。


三重郷
みえごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「美倍」と訓を付す。「台記」久安六年(一一五〇)一一月三〇日条に藤原宗通が「肥後国三重屋庄」を子の信通に譲り、さらに信通の子行通へと伝えられたことがみえる。


三重郷
みえごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本の訓は「美倍」。「播磨国風土記」に三重里がみえ、地名は昔女が筍を抜いて食べたところ立つことができず、足を三重に折曲げて座り込んだことによるとする。


三重郷
みえごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「美敝と訓ムべし」とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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