上中村(読み)かみなかむら

日本歴史地名大系 「上中村」の解説

上中村
かみなかむら

[現在地名]白水村中松なかまつ

白川右岸から阿蘇山南麓にかけて村域が広がり、東は下積しもづみ村・下市しもいち村、西は西中にしなか村に接する。中世には中村として南郷一〇ヵ村のうちの一つで、阿蘇大宮司家の私領。鎌倉時代には宇治惟泰・「あそとの」・惟次(継)・惟義・惟景・惟資・惟国と代々相伝され、代替りごとに北条氏がこれを安堵している(正治二年一二月一四日「宇治惟泰譲状写」阿蘇家文書など)。南北朝期以後は社家の造営・祭礼関係諸役を勤仕し、西巌殿さいがんでん寺に対しても野一本・ささかけ板八枚を勤仕している(年月日未詳「阿蘇山本堂上葺料材切符次第写」同文書)

上中村
かみなかむら

[現在地名]中村区中村なかむら町・中村中なかむらなか町・中村本なかむらほん町・元中村もとなかむら町・鳥居とりい

北・東を日比津ひびつ村に接する。南西隅の村外れには、昭和四年(一九二九)中村の名古屋市編入を記念して、高さ三四メートル、日本一という大鳥居が建てられている。

和名抄」記載の愛知郡中村郷の一部を占め、文和三年(一三五四)の熱田社領目録案(熱田神宮文書)に「上中村郷 畠二十二町八反 除 已上 二丁二反六十歩 定二十町五段三百歩」とある。

上中村
かみなかむら

[現在地名]新田町上中・はぎ

大間々おおまま扇状地藪塚やぶづか面の西南端を占め、水の乏しい低台地面が広がる。南端には扇状地末端の自然湧水しぶと沼がある。東は溜池ためいけ村、西は権右衛門ごんうえもん村。東西に足利街道が走る。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発により南方上田中かみたなか村より分村した。寛文一一年の岡上開拓絵図(片山家蔵)に上田中村新田場とみえ、七万八千二九五坪。元禄郷帳では幕府領。寛延年間(一七四八―五一)に上中村新田四一石二斗余を分村し(郡村誌)、同村は明和(一七六四―七二)頃上総貝淵藩(のち請西藩)領。後期の御改革組合村高帳では上中村一村で記され幕府領。旧高旧領取調帳では上中村新田は幕府領、上中村八六石八斗余は前橋藩領。

上中村
かみなかむら

[現在地名]八日市市建部上中町たてべかみなかちよう

上日吉かみひよし村の北東にある。戦国期のものと推定される馬足子交名(今堀日吉神社文書)に「中村」のあんやう坊らの名がみえる。天正一三年(一五八五)閏八月の山内一豊知行目録(山内文書)には「南郡建部ノ内中村」四七一石余とみえ、慶長三年(一五九八)七月の御蔵入目録(浅野家文書)では建部と注記して中村とあり、五九五石余。慶長高辻帳には上中村とみえ、六三四石余、彦根藩領。同郡内の中村(現神崎郡五個荘町)と区別するため、寛永(一六二四―四四)頃から上中村とよばれた。吉田よしだ井郷の構成村であった。

上中村
かみなかむら

[現在地名]京北町大字上中

弓削ゆげ一一ヵ村の一。大堰おおい川の支流弓削川の右岸、丹波路に沿って開けた山間集落。北は上弓削かみゆげ村、南はさわ村。集落の北に弾正だんじよう古墳群がある。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より丹波篠山藩領となる。もとは下中村と一村をなし元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳には合わせて「弓削中村」として高三三〇石余。天保郷帳でも弓削中村とみえる。幕末・明治初期には一村として独立していたと考えられ、旧高旧領取調帳では「上中村」一七五・一八八八石と出る。生業は農林業で主として農業。

村域内に真言宗大覚寺派の中道ちゆうどう寺がある。

上中村
かみなかむら

[現在地名]吉川町上中

古川ふるかわ村の西、北谷きただに川下流右岸に位置する。吉川中村あるいは単に中村とも称した。慶長国絵図に「上よし川中村」とみえる。領主変遷山上やまのうえ村に同じ。正保郷帳では田方四五五石余・畑方三五石余。村高は幕末まで変わらない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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