上清水村(読み)かみしみずむら

日本歴史地名大系 「上清水村」の解説

上清水村
かみしみずむら

[現在地名]辰口町上清水

北市きたいち村の北西に位置し、北辺を手取川が西流する。古くは西接する下清水村と一村で清水村と称した。「辰口町史」によると、上下二村に分立したのは慶長期(一五九六―一六一五)から正保(一六四四―四八)初年の間という。地名は地内のあちこちで清水が湧き出ていたことによると伝える。長禄四年(一四六〇)七月二四日柳町中務入道沙弥永音は相伝の「山上郷清水惣社神主職」の一部(年貢一〇石分)を奈良東大寺大仏殿の灯油料として寄進している(「清水惣社神主職寄進状」東大寺文書)。当時、山上やまがみ郷は山城石清水いわしみず八幡宮領となっており、清水惣社は同八幡宮が当地に設けた社であろう。明応七年(一四九八)閏一〇月一八日、石川郡吉藤よしふじ(現金沢市)にあった専光せんこう寺の門徒清水の実淳が、本願寺実如から親鸞絵伝(長徳寺蔵)を下付されている。


上清水村
かみしみずむら

[現在地名]清水市上清水町・神田町かんだちよう千歳町ちとせちよう浜田町はまだちよう西高町にしたかちよう堂林どうばやし一―二丁目・さくら丘町おかちよう青葉町あおばちよう大沢町おおさわちよう船越東町ふなこしひがしちよう船原ふなばら二丁目

清水町かみ町の北西、ともえ川下流右岸に位置する。当村から南へ下清水村・北矢部きたやべ村・村松むらまつ村と古い海岸砂丘(浜堤)が連なり、この砂丘上を東海道から南へ分岐する久能道(久能山東照宮参詣道・久能御山道)が通じる。集落は久能道沿いに形成され、東西に水田が広がる。永禄一三年(一五七〇)正月二七日の武田信玄判物(早稲田大学荻野研究室所蔵文書)にみえる「岡清水」は当地に比定される。信玄は津渡野彦四郎分の岡清水屋敷二貫文などを今川家旧臣土屋(旧姓岡部)木工左衛門尉に与えている。


上清水村
かみしみずむら

[現在地名]鶴岡市上清水・中清水なかしみず

下清水村の南西森山もりのやまの西麓にある。東方を温海あつみ街道が通る。寛文五年(一六六五)頃の庄内高帳(鶴岡市郷土資料館蔵)に村名がみえる。弍郡詳記では高一千六一四石余、免五ツ四分五厘、家数六七。笹崎・宮路・興屋・梅谷沢・柿木沢・嘉兵衛・向イ村の小名がある。用水大山おおやま(八沢)川に依存する。大山川からの取水の配分は当村・下清水村は四分、南の田川たがわ村六分と決められていたが、渇水時などに水争いが繰返されたため、明和元年(一七六四)定法杭を五ヵ所に打って分水を厳密にすることとした。この間水不足を解消するため、宝永二年(一七〇五)当村・下清水・矢馳やばせ山田やまだ白山林しらやまばやし森片もりかたの淀川組のうち六ヵ村で藩に願書を提出、当村内に東端森山北東麓に深沢ふかざわ堤を築いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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