御嶽神社(読み)オンタケジンジャ

デジタル大辞泉 「御嶽神社」の意味・読み・例文・類語

おんたけ‐じんじゃ【御嶽神社】

長野県王滝村にある神社。御嶽大神(国常立尊くにのとこたちのみこと大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなびこなのみこと)を祭り、御嶽山おんたけさん上に奥社、山麓さんろくに里宮がある。

みたけ‐じんじゃ【御嶽神社】

青梅市にある神社。祭神は櫛真知命くしまちのみことほか二神。火災・盗難けの神として信仰される。武蔵むさし御嶽神社。

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精選版 日本国語大辞典 「御嶽神社」の意味・読み・例文・類語

みたけ‐じんじゃ【御嶽神社】

  1. 東京都青梅市御岳山にある神社。旧府社。祭神は櫛真知命(くしまちのみこと)ほか二柱。安閑天皇または崇神天皇の時代の創立と伝えられる。古く仏教と習合し蔵王権現・御嶽権現と呼ばれ、火難盗難退除の守護神として崇敬された。所蔵の赤糸威鎧・円文螺鈿(らでん)鏡鞍は国宝。武蔵御嶽神社。みたけさん。

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日本歴史地名大系 「御嶽神社」の解説

御嶽神社
おたけじんじや

[現在地名]遊佐町野沢

鳥海山西側山麓、水上みずかみに鎮座する。旧郷社。祭神は少彦名命。当社はもと龍沢山玉椿ぎよくちん蔵王権現と称し、大和国金峯きんぶ神社(現奈良県吉野郡吉野町)より勧請したと伝える(延宝九年「庄内寺社領記」飽海郡誌など)。延宝九年(一六八一)の庄内寺社領高付帳に玉椿寺蔵王権現領として一一石余とある。龍沢館伝記(佐藤文書)によれば、永承二年(一〇四七)黒沢尻正任は社地に館を築いたが、水の便が悪いため自らは松岳しようがく山に移り、館には葛井勘十郎をおいた。


御嶽神社
おんたけじんじや

[現在地名]王滝村上島

御嶽神社は信仰の山として全国的にその名を知られた、御嶽に祀られている神社で、山頂に奥社、山麓に里社がある。祭神は国常立尊大己貴命・少彦名命。王滝村上島うわしまにある里社は「神社留記」(滝重則氏蔵)に「御嶽座王権現一社往古ハ岩戸権現共奉申候」とあり、また同書には「岩戸五社末社再興之事、文明十六年建立也」とあって、古くは岩戸権現と称し、創立年代ははっきりしないが、文明一六年(一四八四)に再興したとしている。

宝暦七年(一七五七)の「吉蘇志略」には「岩戸権現祠。上島に在り、巨岩の壁立すること数仞なり、其下に嵌空なる有り、祠殿を建つ、岩側の湧泉と一脈、潺として絶へず、祠家伝へ云ふ、是れ御嶽の別宮なり、黒沢と同じく、毎年六月十五日諸人御嶽に登る時は祠宮前導す。


御嶽神社
おんたけじんじや

[現在地名]三岳村黒沢 田中

黒沢くろさわ村の御嶽神社は、本社と若宮の二社があり、ともに御嶽山頂の奥社に対して里宮と称している。

祭神少彦名命で、創建年代ははっきりしないが、天文二三年(一五五四)木曾義在・義康によって再興されたもので、棟札と義在・義康父子の奉納した鰐口が現存している。明治九年(一八七六)の「三岳村誌」には「御嶽神社の里宮にして、(中略)木曾義在、義康の父子再営す。其後明治六年七月、関東巴講社にて再営す。社地中檜の老樹あり、目通回り八尺五寸、其他雑木等あり。


御嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]横瀬町横瀬

元来、武甲ぶこう山を神体山とする神社で、江戸時代には蔵王ざおう権現社と称していた。少名彦命・日本武尊・大男迹命・武金日命などを祀り、旧村社。本殿も古くは武甲山山頂にあったが、明治四〇年(一九〇七)、村社が山頂にあっては祭祀斎行上不便であること、また横瀬村内の諸社二〇社を合祀することを機に現在地である武甲山北麓、うぶ川の支谷沿いに遷座した。遷座後、頂上の社は奥社となり、現本殿は里宮さとみや社ともよばれる。なお山頂の旧社殿跡は武甲山山頂遺跡とよばれ、発掘調査が行われている。


御嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]羽後町西馬音内堀回

西馬音内堀回にしもないほりまわりの西に位置し、北西部に出羽丘陵の山すそが迫る。祭神は須佐男之神・伊邪那岐神・伊邪那美神。

行基の開創と伝え、中世には小野寺氏が社領四千三五〇刈を寄進して保護したという。境内に貞和二年(一三四六)銘の割石板碑があり、県有形文化財。周辺に元徳二年(一三三〇)から応永年間(一三九四―一四二八)に及ぶ七基の板碑があり、信仰の古さがうかがわれる。境内にある滝は不動ふどう滝または梵字ぼんじ滝とよばれ修験の行場と伝えられる。


御嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]福地村苫米地 御嶽

苫米地とまべちの北西、根岸ねぎしの山地に位置する。祭神は大山祇神で、旧村社。宝暦五年(一七五五)の堂林寺門間数改書上帳(常泉院文書)に「御嶽山蔵王業現堂」とあり、建立年代は不明であるが、末社の八幡宮は元禄八年(一六九五)の建立とされる。明治初年の「新撰陸奥国誌」では天正一五年(一五八七)赤沼備中守某の勧請とする。


御嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]花山村本沢 萩の原

花山ダム湖の北岸にある。もと座主ざしゆ久保くぼにあったがダム建設のため現在地に遷座。八重事代主命を祭神とする旧村社。中世大崎氏の崇敬もあったと伝えるが、近世には御嶽権現社として花山村を領した遠藤氏の尊崇を集めた。「花山村安永風土記」によれば、祭日四月九日には遠藤文七郎の役人二人・足軽七人が警固に当たった。現在五月五日の例祭には火縄銃の空砲撃を主とする鉄砲祭が行われる。


御嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]丸子町大字御岳堂 日陰

祭神は大己貴命・少彦名命・安閑天皇で創建年代は不詳。もと御嶽権現と称したが、明治三年(一八七〇)岩村田藩の許可を得て御嶽神社と改称。御嶽堂村上組かみぐみの産土神であった。同六年郷社。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「御嶽神社」の意味・わかりやすい解説

御嶽神社
みたけじんじゃ

東京都青梅市の御岳山にある神社。式内社,旧府社。御嶽大権現ともいう。クシマチノミコトを主神とし,オオナムチノミコト,スクナヒコナノミコト,日本武尊を配祀。火災盗難よけの神として知られ,古来関東地方の山岳宗教の中心地の1つ。日本武尊が東夷征伐の際,御岳山を越えようとしたときに,邪神が白鹿となり道をさえぎったが,白狼が現れてそれを西北に導いたところから,白狼に山上の守護を命じ,御岳山頂に武具を埋めたと伝えられる。また行基が蔵王権現の像を納めたところから,神仏を合祀する霊山になったとされる。中世には御師 (おし) と呼ばれる山伏によって栄え,文暦1 (1234) 年に神殿が再建され,修験道の霊地として繁栄。関東管領の足利基氏が社殿を修営し,慶長 10 (1605) 年には大久保石見守が社殿を造営した。江戸城の鎮守神として崇敬され,武士の寄進も多く,鎌倉時代に畠山重忠が奉納したと伝えられる赤糸威大鎧 (あかいとおどしおおよろい) ,後堀河天皇所用の円文螺鈿鏡鞍を所蔵し,ともに国宝に指定されている。

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デジタル大辞泉プラス 「御嶽神社」の解説

御嶽(おんたけ)神社

長野県木曽郡王滝村にある神社。祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。「王滝御嶽神社」ともいう。

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事典 日本の地域遺産 「御嶽神社」の解説

御嶽神社

(東京都練馬区高松3-19)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

御嶽神社

(東京都練馬区高松6-34)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

御嶽神社

(東京都練馬区中村3-8)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「御嶽神社」の意味・わかりやすい解説

御嶽神社
みたけじんじゃ

武蔵御嶽神社

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